STAY 09
懐かしい、と思った。
眼鏡を掛けた途端、強い眩暈が襲い、足元がふらつく。
その感覚に懐かしさを覚えるなど可笑しな話だとは思うが、事実だったのだから仕方が無い。
意識の表層に浮かび上がってくる、もう一人の自分。
そして深い海の底に引きずり込まれていく、今の自分。
その二つの心が擦れ違う瞬間、確かに<俺>は<オレ>に言った。
『―――』
それを聞いた直後、<オレ>は突き飛ばされるようにして、激しい渦に飲み込まれた。
上も下も分からない暗闇の中、呼吸すら出来ず、成す術も無く濁流に翻弄され、やがて―――。
「……」
克哉は、ゆっくりと目を開けた。
そして、細く息を吐き出す。
頭の中はすっきりしている。
視界も淀みない。
克哉は指先でブリッジを押し上げると、目の前にいるMr.Rをレンズ越しに見つめながら言った。
「……これで、いいですよね」
「克哉……?!」
御堂が慌てたように、克哉の腕を掴んで振り向かせる。
心配そうに覗き込んでいる恋人に、克哉はいつもの穏やかな微笑みを見せながら答えた。
「御堂さん……大丈夫ですよ。オレです」
「克哉……」
突然、Mr.Rが笑い出す。
何がそんなに可笑しいのか、心底愉快そうに肩を揺らしている男に、二人は冷ややかな視線を浴びせた。
「なるほど……そういうことですか。実に面白い」
Mr.Rは笑い続けているが、そんなことはどうでもいい。
克哉は彼の前に立つと、改めて要求をつきつけた。
「これで、取引きは成立しました。オレ達を、元の世界に帰してください」
これ以上の譲歩は無いことを口調に込めながら言うと、Mr.Rはようやく笑うことを止める。
「……分かりました。約束は守ります」
「それから……」
克哉は眼鏡を外す。
またこれを掛けることになるとは、夢にも思わなかった。
手のひらの上で丁寧にテンプルを畳み、銀色に光るフレームを指先でそっと撫でる。
まるで、別れを惜しんでいるかのようだ。
克哉はこっそり自嘲の笑みを零してから、Mr.Rに眼鏡を差し出した。
「これは、お返しします。構いませんよね?」
Mr.Rは一瞬だけ冷たい表情を見せたものの、再び穏やかな顔つきになってそれを受け取る。
「……そうですね。お預かりしましょう」
皮手袋の手が、眼鏡をコートのポケットに仕舞う。
それを確認して、克哉はようやく安堵を得るのと同時に、ほんの少しだけ寂しいような、不思議な気持ちになった。
「それでは、これを……」
眼鏡を仕舞ったのとは反対のポケットから、Mr.Rが柘榴を取り出す。
「これを召し上がれば、元の世界に戻れます」
「……分かりました」
克哉は柘榴を受け取り、御堂のほうを向いた。
真っ赤に熟れた果実は見事に弾け、つやつやと光る粒が零れんばかりになっている。
その宝石のような粒をひとつだけ口に含むと、克哉はそっと目を閉じた。
「克哉……」
御堂の手が克哉の肩に置かれ、やがて唇が重なる。
くちづけに甘酸っぱい蜜の味が広がると、二人の意識は急激に遠のいていった。
誰かが、肩を揺さぶっている。
「……や。克哉」
耳に響く、愛しい声。
その声に導かれて、克哉は深い眠りから目を醒ました。
「……」
そこは、見慣れたマンションの寝室だった。
カーテンの隙間から、明るい光が射し込んでいる。
横たわっているベッドも、いつも眠っているその場所だ。
部屋中に満ちていた甘い香りも、もうしない。
そして目の前には、自分を見下ろしている御堂の顔があった。
―――帰ってきたんだ。
ようやくそれを実感した克哉は、ゆっくりと起き上がり、御堂に手を伸ばす。
「御堂……さん……」
「克哉……」
強く抱き締められ、克哉もまた御堂の背中に手を回した。
暖かく、確かな感触に、胸が熱くなる。
思わず涙が出そうになるのをなんとか堪えながら、克哉は御堂の首筋に顔を埋めていた。
「……本当に、すみませんでした」
「戻ってこられたのだから、それでいい」
御堂は身体を離すと、克哉の額に掛かる前髪を掻き分ける。
その指先にも、視線にも、愛しい宝物を取り戻したことへの安堵と喜びが溢れていた。
「まるで、悪い夢でも見ていたようだな……。あの男は、いったい何者なんだ?」
「オレにも……よく、分かりません」
Mr.Rが何を目的としているのか、克哉にもまったく分からない。
もしかしたら目的など無く、ただ面白がっているだけなのかもしれないとも思う。
眼鏡を返したとき、『お預かりします』と答えたところを見ると、きっと彼はまだ諦めてはいないのだろう。
何故、そこまで自分に執着するのだろうか。
隙を見せなければいいだけだと分かってはいるものの、まるでストーカーに付き纏われているようで気分が悪い。
しかも今回は、御堂まで巻き添えにしてしまったのだ。
「ごめんなさい、御堂さん……」
謝ってばかりいる克哉の頬を、御堂が軽く撫でた。
「分からないなら仕方が無い。しかし、これからはもう少し気をつけてくれ。
知らない人についていってはいけないと、小さい頃に教わっただろう?」
「……はい」
子供扱いされたことが情けなくて俯くと、御堂は克哉をもう一度抱き締めた。
「それにしても……君が、君のままでいてくれて良かった」
「御堂さん……」
「あの男の話を信じたわけではないが、普通の状況ではなかったからな。やはり、あれは自己暗示の一種だったのだろう。
君が気を強く持ってくれて、良かった」
「……」
それは、違う。
克哉はあの曖昧な意識の中で、<俺>と擦れ違った瞬間のことを思い出していた。
―――今回だけだ。有難く思え。
あのとき、確かに<俺>は<オレ>にそう言った。
そして今にも意識の底に沈みそうになっていた自分の背中を、押してくれたのだ。
眼鏡を掛けるとき、強く心に願った。
今の自分のままでいたい。
<オレ>は<オレ>のままで、御堂と生きていきたい。
ずっと「変わりたい」とばかり思ってきた自分が、初めて「変わりたくない」と思った瞬間だった。
御堂が必要としてくれている<オレ>のままで、御堂や<俺>のように強くなりたい。
その願いを、もう一人の自分は聞いてくれたのだと思う。
もしも問い質すことが出来るならば、<俺>はただの気紛れだと答えるだろう。
それとも、Mr.Rの策略に乗るのが気に入らなかったのかもしれない。
いずれにせよ、克哉はそう信じていた。
(ありがとう、な……<俺>……)
自分の中にいる、もう一人の自分。
その存在に、怯えた日もあった。
けれど、今は違う。
彼の強さが自分の中にあるのだと思うと、何処か心強い。
そしてもちろん、御堂の存在も。
「……ありがとうございます、御堂さん」
御堂の胸の中から顔を上げ、克哉は言った。
堕ちていこうとする自分を救ってくれた御堂の言葉が、忘れられない。
必ず、後を追ってこいと言われたとき、克哉はどれほど自分が必要とされているのかを知った。
君は生きろと言えないほどの執着を、御堂が自分に持ってくれていることが嬉しかった。
変わりたくないと思えたのも、もう一度元の世界で生きたいと思えたのも、御堂の揺るぎない想いがあったからだ。
この人に出会えて、良かった。
この人を愛して、この人に愛してもらえて良かったと、心から思う。
御堂を見つめていた克哉は、不意に込み上げてきた衝動を抑えることが出来なかった。
「あの……御堂さん」
「ん?」
「……キス……しても、いいですか?」
真っ赤になって尋ねる克哉に、御堂がクスリと笑って答える。
「駄目だと言ったことがあったか?」
嬉しくて、幸せで、また涙が出そうになる。
それを誤魔化すために克哉は目を閉じると、御堂の首にきつく腕を回した。
- To be continued -
2008.10.15
←前話 →次話
←Back