STAY 08
震えが止まらない。
自分のしようとしたことが、自分で信じられなかった。
(御堂さんを……殺すなんて……)
そんなこと、出来るはずが無い。
考えるだけでも恐ろしかったけれど、さっきの自分は確かにそうしようとしていたのだ。
置いていかれるぐらいなら、いっそ、と―――。
「ごめ…なさい……ごめんなさい……」
声にならない声で、克哉は幾度も謝る。
いったい、自分はどうしてしまったのだろう。
背中を丸め、ガタガタと身体を震わせている克哉の髪を、御堂の手のひらがそっと撫でた。
「克哉……。もう、いい」
「……みど…さん………」
それでもまだ顔を上げられずにいると、不意に克哉を大きな温もりが包み込んだ。
「もう、いいから。顔を上げろ」
「……」
背中を抱かれ、克哉はシーツの上に伏せていた顔を、恐る恐る上げる。
滲んだ視界に御堂の顔が見えた瞬間、克哉の瞳から改めて涙が溢れた。
「御堂、さん……!」
ごめんなさい、ごめんなさい、と呟きながら、克哉は御堂の膝に縋りつく。
再び突っ伏してしまった克哉の背中を、髪を、御堂は子供を宥めるかのように撫で続けた。
「もういいと言っているだろう。いい加減、泣き止め」
「だって……オレ、とんでもないことを……」
「私がそう仕向けたんだ。君が謝る必要は無い」
「でも……」
「ほら。ちゃんと顔を見せろ」
「……」
御堂の手のひらに促され、克哉が改めて顔を上げる。
涙に濡れた頬を、長い指先が幾度も拭ってくれた。
この部屋にやって来てから、初めて御堂の顔をまともに見たような気がする。
ずっと視界に映ってはいたものの、それは分厚い硝子越しに見ているような、妙に歪んだ映像だった。
けれど今は、そんな感覚は無い。
もっとはっきり御堂の顔が見たくて、克哉は身体を起こすと、濡れた目元を手の甲でごしごしと擦った。
「すみませんでした、本当に……」
「だから、もう謝るな。そもそも私が、君に隠し事をしていたのがいけなかった。だから、こんなことになったんだろう」
「いえ、そうじゃないんです……」
それは原因のひとつであって、全てではない。
運悪く、色々な要因が一度に重なってしまった結果、出来た心の隙をあの男に突かれてしまったのだ。
御堂の言った通り、何もかも覚悟していたはずだった。
たとえ堂々とは出来ない関係でも、御堂と生きる為ならなんでもするつもりだった。
どんなことが起きても、御堂が傍にいてくれるなら、きっと乗り越えられると信じていたはずだった。
それなのに―――。
「オレが……オレが、悪かったんです。誘惑に、負けてしまったから……」
「……」
御堂と二人きり、誰にも邪魔されず、誰の目も気にせずに愛し合える世界。
その囁きは、弱りきっていた心に余りにも魅力的に響いた。
(そんな世界、あるはずがないのに……)
たとえあったとしても、それはここじゃない。
今まで生きてきたあの世界の中で、掴むべき場所だ。
「……それで、君はまだここにいたいと思っているのか?」
御堂の問い掛けに、克哉はぶんぶんと首を横に振る。
「元の世界に帰りたいです……あなたと、一緒に」
まだまだ、二人でやりたいことがある。
二人で行きたい場所も、二人で見たい景色も、たくさんある。
こんなところに閉じこもってはいられない。
克哉の返事に、御堂はほっとしたように微笑んだ。
「それなら、いつまでもこうしているべきではないな。まずは……」
「出られる場所を、探さないと」
すかさずそう答えた克哉を、御堂はまじまじと見つめながら言う。
「……その前に、服を着たほうがいいんじゃないか?」
「えっ」
我に返って自分の姿を確認した克哉は、その途端に顔を赤くした。
全裸だ。
「そ、そうですよね!!」
慌てておろおろと服を探しはじめる克哉を見て、御堂は可笑しそうに笑った。
「いったい、何処から……」
着替えを済ませると、二人は改めて部屋の中を見回してみた。
中央に置かれた大きなベッド以外には、赤いベルベットのソファ、アンティーク調の鏡台とチェストがあるだけだ。
目につくところに、ドアや窓の類は一切無い。
ずっしりと重量のある赤いカーテンを捲ってみたものの、その向こう側にあったのは、やはり赤い、ただの壁だった。
いったい、自分達は何処から入ってきたのだろう。
Mr.Rは、どうやってこの部屋を出入りしているのだろうか。
気がついたときにはここにいた二人には、何も分からない。
途方に暮れかけた克哉を、御堂が励ました。
「どこかに、隠し扉のようなものがあるに違いない。もう一度、よく探してみよう」
「はい、そうですね」
壁に隙間や切れ目などが無いか、二人は再度念入りに部屋を見て回る。
そんな二人に、背後から声を掛ける人物がいた。
「……何か、お探しですか?」
「?!」
御堂と克哉が、同時に声のした方を振り返る。
さっきまで誰もいなかったはずのソファには、いつの間にかMr.Rが腰掛けていた。
「あ、あなたは……何処から入ってきたんですか?!」
「さて? 何処でしょうね」
顔色を変える二人を前に、Mr.Rは惚けてみせる。
やはり、この男は人ならざる者なのだろう。
そうなると、この部屋もまた普通の空間では無いということになる。
元の世界に戻るためには、この男の力が必要なのだ。
それを悟った克哉は、ぐっと拳を握り締めて歩を踏み出すと、Mr.Rの前に立った。
「……オレ達を、元の世界に帰してください」
強張った声で告げる克哉を見上げながら、Mr.Rは大袈裟に眉を吊り上げる。
「おや。この部屋に、何かご不満でもありましたか? 仰って頂ければ、なんなりとご用意致しますが……」
「違います」
克哉は首を振って、否定する。
「オレが馬鹿だったんです。こんなところにいたって、何にもならないのに……」
「……」
本当に、馬鹿だったと思う。
克哉はMr.Rに更に近づくと、さっきよりももっと断固とした口調で言った。
「お願いです。元の世界に帰してください。もう、ここにはいたくないんです」
「そうですか。あなたが、そう望まれるのでしたら……」
その返事に、克哉はほっとして御堂を振り返る。
しかしそれも束の間、Mr.Rは意地の悪い笑みを浮かべてソファから立ち上がると、勿体をつけながら口を開いた。
「ですが、ただお帰しするわけには参りません。私がこれから申し上げる条件を飲んで頂けるのなら、考えましょう」
「条件……?」
「はい」
Mr.Rはにっこりと微笑み、コートのポケットを探る。
「―――これを」
「!!」
彼が取り出したのは忘れもしない、あの眼鏡だった。
皮手袋の上に乗せられたそれを見て、克哉に緊張が走る。
「それは……もう、オレには必要ないと言ったはずです」
「ええ、仰る通りです。ですが、これは今でもあなたのもの。そのことに変わりはございません」
「それじゃあ、まさか……」
克哉には、分かってしまった。
これから彼が突きつけてくる『条件』というのが、なんなのか。
身構える克哉に、Mr.Rは至って穏やかな態度で、それを口にした。
「もう一度、この眼鏡を掛けた人生を選んで頂けるのなら……お二人を元の世界に帰して差し上げましょう」
「そんな……!」
冗談じゃない。
また、この眼鏡を掛けるなんて。
絶望的な要求に思わず後ずさった克哉の背中を、後ろに立っていた御堂が受け止めた。
「……これが以前に君が話してくれた、あの眼鏡か?」
「御堂さん……。そう、です……」
御堂に眼鏡の相談をしたときのことを思い出す。
あのときの御堂は、克哉の話を信じてはくれなかった。
それどころか、くだらない話で私を愚弄する気かと怒られたのだ。
「……この眼鏡を掛けると、オレは変わってしまうんです。
傲慢で、自信家で、でも今の<オレ>よりも、ずっと有能な<俺>に……」
「……」
それは、本当のことだ。
しかしやはり俄かには信じられないのか、御堂は口を引き結んだままで眉を顰める。
今なら信じてくれるかもしれないと思ったのだが、無理なようだ。
「……私は佐伯さんに幸せになって頂きたいだけなのです」
Mr.Rは白々しくも言う。
「確かに、今の佐伯さんも充分魅力的ではあります。しかしこのままお帰りになられても、また同じようなことに苦しみ、心を痛めることになるでしょう。
この眼鏡を掛けた佐伯さんならば、そのようなことにはならないとは思いませんか?」
「そ、それは……」
克哉は反論出来ない。
確かに眼鏡を掛けた自分だったら、こんなことにはならなかっただろう。
常に自信に満ち溢れた<俺>ならば、自分達の関係が置かれている状況に不安を抱くこともなく、全てにおいてうまく立ち回ることが出来るはずだ。
そうすればこの男に、こんな風につけいる隙を与えることもなかった。
「……あなたが本来の能力を発揮出来るようになれば、あなた自身はもちろんのこと、この方をもっと幸せに出来るのではありませんか?
あなたが悩み、苦しまれることを、この方も望んではいらっしゃらないはずだと思うのですが……いかがでしょう」
Mr.Rが御堂に視線を向けると、克哉もまた御堂を振り返った。
「御堂さん……」
そうなのかもしれない。
仕事においても、プライベートにおいても、眼鏡を掛けた<俺>といた方が、御堂は幸せになれるのかもしれない。
しかし、そうすれば今までの自分は何処に行ってしまうのだろうか。
克哉の気持ちを見透かしたかのように、Mr.Rは言う。
「眼鏡を掛けても、あなたはあなたです。この方ならばきっと、眼鏡を掛けたあなたのことも愛してくださると思いますよ」
「……」
克哉はゆっくりと、身体ごと御堂に向き直った。
このままここに居続ければ、結局御堂を不幸にしてしまうことになる。
御堂だけは、なんとしても元の世界に戻ってほしい。
そして、この部屋を出る方法はただひとつ―――この眼鏡を掛けることだけ。
「御堂さん、オレ……」
克哉が言いかけたとき、それまで黙って話を聞いていた御堂が口を開いた。
「……余計なお世話だな」
そう言った御堂の視線は克哉にではなく、Mr.Rに向けられていた。
「貴様に、私と克哉の幸せを定義される謂れは無い。私が共に生きると決めたのは、今目の前にいる克哉だ。
誰も代わりにはなれない。それが、もうひとりの克哉であってもだ」
「御堂さん……」
腕を掴まれ、引き寄せられる。
御堂の言葉には、有無を言わせぬ強さがあった。
「いいか、克哉。そんな怪しい眼鏡は絶対に掛けるな」
「で、でも」
「君は、君のままでいろ。そのうえで、帰る手段を探すんだ」
「御堂さん……」
御堂がどこまで眼鏡の話を信じているのかは分からない。
けれどきっと、帰る手段は他には無い。
「克哉」
怖い。
今度この眼鏡を掛けたら、もう今の自分には戻れなくなるかもしれない。
それでも、御堂の気持ちに応えたい。
その想いに、その強さに、相応しくなれるように。
克哉は御堂の腕を振り切ると、もう一度Mr.Rの前に立った。
「……これを掛ければ、オレ達を帰してくれるんですよね?」
「克哉……!」
ええ、勿論と頷くMr.Rの手から、克哉は眼鏡を受け取る。
「よせ、克哉!」
「御堂さん……大丈夫ですから」
克哉は肩越しに振り返り、御堂に微笑む。
畳んであるテンプルを開くと、銀色のフレームがきらりと光った。
(オレは……)
目を閉じて、強く願う。
そして克哉はゆっくりと、その眼鏡を掛けた。
- To be continued -
2008.10.13
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