STAY 06
息苦しい。
呼吸をするたびに入り込んでくる空気は、酷く濃厚で粘着質なものだ。
口内や喉に絡みつくそれを、浅い呼吸を繰り返すことでなんとか体内に取り入れる。
鉛を飲み込んでしまったような身体はずっしりと重く、瞼を上げることさえ出来ない。
それなのに全身を流れる血液だけは異常に速いらしく、どくどくという脈動が耳の奥で直接響いていた。
―――何処かから、甘い香りがする。
今までに嗅いだことのない香りだ。
これはいったい、なんの香りだろう。
「……御堂さん……」
その呼びかけに、御堂の混濁していた意識が目を醒ます。
―――克哉。
答えたいのに、舌も唇もぴくりとも動かない。
しかし下肢に感じる生暖かい重みに、御堂は必死の思いで瞼を抉じ開けた。
「……」
目に飛び込んできた、一面の赤。
血を思わせるその色に、御堂の心臓がひやりと凍りつく。
「か、つ……っ…」
掠れた声を振り絞りながら、御堂は視線を動かした。
そうして足元に大切な恋人の顔を見つけると、鼓動は僅かに落ち着きを取り戻した。
「御堂さん……」
蕩けそうな微笑みを浮かべた克哉が、うっとりと呟く。
しかしその克哉の様子がいつもとは違っていることに、御堂はすぐに気がついた。
確かにこちらを見ているはずなのに、何処か焦点の定まっていない瞳。
紅潮した頬と、緩く開かれた唇から覗く紅い舌。
しかも、克哉は服を着ていない。
そして御堂自身もまた、一糸纏わぬ姿だった。
背中に直接触れている柔らかで滑らかな布の感触には、まったく覚えが無い。
軋む首をなんとか動かして、周囲を見回す。
何処もかしこも赤に囲まれた部屋で、御堂は克哉と二人、全裸で横たわっていたのだった。
「かつ、や……ここは……?」
まだ上手く出せない声で尋ねるも、克哉は微笑んだまま小さく首を傾げるだけだった。
「御堂さん……」
克哉がこちらににじり寄ってくると、御堂の下でぎしりと音が立ち、身体が僅かに揺れる。
どうやら、ベッドの上にいるらしい。
しかし、ここが何処なのかはまだ分からない。
この悪趣味な部屋の色を見るに、何処かのラブホテルだろうか。
考えても分かるはずがなく、克哉もまた答える気はなさそうだった。
「孝典さん……」
克哉は御堂の胸に手のひらを置くと、覆い被さるようにして首を伸ばしてきた。
一面赤かった視界が愛しい存在で満たされ、妖しく濡れた唇が御堂のそれに重なる。
唇も、その隙間から漏れる吐息も、酷く熱かった。
「んっ……ふ………」
舌先が御堂の唇を舐め、やがてその合わせ目へと滑り込んでいく。
息苦しさに開いた口内で克哉の舌が蠢き、唾液が絡まった。
克哉は息を弾ませながら、夢中で御堂の唇を貪る。
克哉の方からこんな風に積極的にくちづけてくることは、滅多に無い。
不自然な状況に、御堂は言いようのない焦燥感に襲われた。
今すぐこのくちづけを解き、どういうことなのか説明してもらいたかったが、身体に力が全く入らない。
結局、御堂は克哉にされるがまま、その激しいくちづけを受け止めていることしか出来なかった。
「ぁ……孝典…さん……」
水音を立てながら続けられるくちづけの合間にも、克哉は甘えるような声で御堂の名を囁く。
互いの身体に挟まれている克哉の中心はすっかり勃ち上がり、零れた雫が御堂の腹を小さく濡らしていた。
「…ん……オレ……もう……」
せつなげに呟いて、克哉はようやく唇を離す。
御堂は思わず大きく息を吐き出すと、改めて克哉の顔を見上げた。
「克哉……ここは、何処なんだ……」
その問い掛けに、克哉はやはりうっとりと微笑みながら答えた。
「オレとあなた……二人だけの、世界です」
「……?」
訝しげにしている御堂に、克哉はもう一度口を開く。
「もう、誰もオレ達を邪魔しません。誰のことも、仕事のことも、何も気にしなくていいんですよ……」
心から嬉しそうに言って、克哉は再び御堂の胸に倒れ込んだ。
愛おしげに肌を撫で、頬をすり寄せる。
さらさらとした髪の毛が触れて、くすぐったさを覚えた。
(どういうことなんだ……?)
御堂は記憶を手繰り寄せる。
自分の早合点から、知らせずに済むはずだった見合いの件を克哉に知られてしまった。
その所為で、克哉は部屋を出て行った。
本当ならばあそこで行かせるべきではなかったのに、嘘をついていた負い目からか引き留めることが出来なかった。
すぐに戻るという言葉を信じて、リビングのソファで克哉の帰りを待っていたはずなのだが―――。
「……佐伯さんの、仰る通りですよ」
「?!」
突然、別の男の声がして、御堂の思考は中断された。
見るといつの間にか、部屋の隅に全身黒尽くめの男が立っている。
慌てて起き上がろうとしたが、やはり力が入らずに、それは叶わなかった。
男は足音も立てずこちらに近づいてくる。
しかし胸の上にいる克哉は、それに気づいていないかのように、御堂の肌を撫で続けていた。
「はじめまして、御堂孝典さん。私のことは、Mr.Rとお呼びください」
男は深々と頭を下げる。
「……貴様の名など、どうでもいい」
「おや……。それは失礼致しました」
本能が、危険を告げている。
御堂の敵意を剥き出しにした言葉にも、Mr.Rは飄々としたものだった。
それがかえって癪に障る。
御堂はせめてもの抵抗とばかりに、男をじっと睨みつけた。
「……克哉の言う通りとは、どういうことだ。貴様が、私達をここに連れてきたのか」
「はい。そうです」
「……」
怒りにも似た感情がそうさせるのか、御堂の身体にほんの僅か力が戻る。
まだ重い腕を動かし、無意識に克哉を庇うように背中を抱いていた。
「ならば、すぐに帰らせてもらおう。ここはいったい、何処なんだ。貴様は、何者だ」
「私は、この空間を管理している者です。残念ながら、ここからお帰しすることは出来ません。
何故なら、お二人をここにお連れしたのは、佐伯さんご自身がそう望まれたからなのです」
「なんだと……?」
御堂は、胸元にいる克哉に視線を落とした。
穏やかな表情で目を伏せている克哉は、桃色に染まった頬に幸せそうな笑みを浮かべている。
「どういうことだ? 克哉が望んだとは……」
「あなたが、そうさせたのではありませんでしたか?」
「……!」
不快な驚きを露わにした御堂に、Mr.Rは喉の奥で笑った。
「あなたは、ご自分の社会的立場を守りたいが為に、佐伯さんを欺いた……。
彼はもう、疲れてしまわれたのです。自らの欲望に素直になることが許されない世界に……」
「あれは……!」
「仕方の無いことだ、と仰りたいのでしょう?」
「―――っ」
先回りされて、御堂は反論出来なくなる。
男はゆっくりベッドに近づいてくると、克哉の肢体を目を細めながら見下ろした。
「……そうやって嘘と諦めを繰り返していくには、この方の欲望は深すぎるのです。
あなたには、それを受け止めきることが出来ない。ですから私が、佐伯さんの望みを叶えて差し上げることにしたのです。
あなたと二人きり、誰にも邪魔されることのない世界に行きたいという望みを……」
「馬鹿な……」
「その証拠に……どうです。この、幸せそうな顔」
「……」
御堂は絶句する。
確かに、克哉は今までに見たことがないほどに幸せそうだった。
常に自信が無さそうで、いつも何か不安を感じているような、あの面影は何処にも無い。
心から安心しきって、御堂に身を委ねているのが分かる。
何も心配する必要のない、この場所で。
「克哉……」
だとしたら、この男の言っていることは本当なのだろうか。
御堂は克哉の髪に、そっと触れた。
克哉の気持ちは、分からなくもない。
けれど、こんなのは異常だ。
この男も、この場所も、そしてこの克哉も、普通ではない。
克哉はふと目を開けると、潤んだ瞳で御堂を見上げてきた。
「孝典さん……」
そして、再び唇を重ねてくる。
熱い舌が、御堂を絡め取る。
「……どうぞ、ごゆっくりご堪能あれ」
男の声と気配が、次第に遠ざかっていく。
むせかえるような芳香の中、克哉の激しいくちづけを受けながら、御堂は再び朦朧としていく意識を懸命に繋ぎとめようとしていた。
- To be continued -
2008.10.01
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