茨の迷路 05
その日も御堂は約束したホテルの部屋で、克哉を待っていた。
「ん……?」
何かの気配を感じた御堂はソファを離れ、窓辺に立つ。
カーテンを細く開けてみると、窓ガラスを幾筋もの雨粒が伝っていた。
「雨、か……」
こうして雨に濡れた夜の街を見下ろしていると、あの日のことを思い出す。
あの夜、マンションの前に立ち尽くしていた克哉。
御堂は自分の部屋の窓から、そんな彼を不可解に思いながら見つめていた。
何故、そんなところにいるのだと。
何の為に、そこにいるのだと。
その問い掛けは届くはずもなく、やがて降ってきた雨の中、彼は去っていった。
―――行くな。
その背中を見送りながら、思わず御堂が呟いていた言葉。
どうしてそんな風に思うのか、自分で自分が分からなかった。
自分には彼を引き留める資格など、無いというのに―――。
そのとき、部屋のチャイムが鳴った。
いつものようにドアを開けた御堂は、そこに立っている克哉を見てぎょっとした。
「……こんばんは」
克哉は御堂の反応に気づくこともなく、彼の脇をすり抜けて、部屋の奥へと進んでいく。
突然降り出した雨の所為で、克哉の全身は細かな水滴でしっとりと濡れていた。
青ざめているのを通り越して、真っ白にさえ見える顔には何の感情も浮かんではいない。
生気のないその姿を、御堂は半ば呆然と見つめていた。
克哉はベッドの傍に立つと、スーツの上着に手を掛ける。
気がついたときには、御堂はその腕を強く引いていた。
「……御堂さん?」
不思議そうにする克哉に、御堂は苛立ちを覚える。
「……自分がどんな顔色をしているか、分かっているのか」
「……」
克哉は目を逸らすだけで、何も答えない。
御堂は乱暴な足取りで自分のアタッシュケースを取りに行き、それから足元に置かれていた克哉のカバンを彼に押しつけた。
「帰るぞ」
「御堂さん……!」
克哉は御堂の宣告から逃げるように後退る。
「嫌です! オレ、帰りません!」
「何を言っている! 何故、そこまでして……!」
「……何故?」
つられて声を荒らげた御堂を、克哉は信じられないといった顔つきで見つめた。
「何故だか…分からないんですか……?」
「……っ」
御堂は言葉に詰まった。
分かるはずがない。
分かりたくない。
黙り込んでしまった御堂に、克哉は挑むような口調で言う。
「……あなたは、セックスが出来ればそれでいいんでしょう?
だったら、オレがどんな状態だろうと関係ないじゃないですか。心配も、同情も必要ありません。
オレなら、大丈夫ですから……」
克哉にこんなことを言わせているのは自分だ。
それが分かっていても、御堂は悔しくてたまらなかった。
目を伏せた克哉の睫毛に、雨の雫が散っている。
それがまるで泣いた後のように見えて、御堂は思わず目を逸らした。
「……いくら私でも、屍を抱く趣味は無い」
辛うじてそれだけを言い返すと、御堂は克哉の手を掴んだ。
その指先の冷たさに一瞬ぞっとしながらも、きつく握り締めて腕を引く。
「帰るんだ」
「……」
それ以上逆らう気力も無かったのか、克哉はようやくおとなしく御堂に従った。
部屋を出てからも、御堂は克哉の手を離そうとしなかった。
エレベーターに乗り込むと、克哉は小さな声で呟いた。
「手を……離してください」
「……」
聞こえていないはずがないのに、それでも御堂は手を離さない。
克哉はいたたまれなさに唇を噛んだ。
嬉しいはずの温もりが、こんなにも辛く感じられることがあるなんて。
このまま御堂の腕に縋ってしまえば、何かが変わるだろうか。
けれど考えているうちに、エレベーターはエントランスフロアに到着してしまう。
結局、その手は駐車場に着くまで繋がれたままだった。
止めてあった御堂の車の助手席に、突き飛ばされるようにして乗り込む。
それから克哉のアパートに着くまでの間、道案内以外で克哉が声を発することはなかった。
御堂もまた、それ以外のことは尋ねなかった。
大通りを抜けて住宅街に入ると、やがて克哉の住むアパートが見えてくる。
「……あそこ、です」
示された建物の前まで来ると、御堂がゆっくりと車を止める。
降り続ける雨と、ワイパーの動く音だけがやけに大きく聞こえた。
「……早く降りろ」
なかなか降りようとしない克哉に、堪りかねたように御堂が吐き捨てる。
けれど、克哉は動けなかった。
ここで別れてしまえば、二度と御堂には会えないような気がした。
こんなに傍にいるのに、御堂が遙か遠くに感じられるのは何故だろう。
「……次は、いつ会えますか?」
震えそうになる声を必死で抑えて、克哉は尋ねる。
「……早く、降りろ」
御堂は同じ言葉を繰り返す。
克哉は膝の上で、きつく拳を握り締めた。
「……約束してくれなければ、降りません」
御堂が微かな溜息をつくのが聞こえた。
きっと鬱陶しく思っているのだろう。
分かっているのに、克哉は自分を止められない。
けれど、こうなったのも全て御堂の所為だ。
セックスの対象としてだけ扱ってくれれば良かったのに、こんな風に自分を心配したり、家まで送ってくれたりするから。
だから、堪えきれなくなる。
気持ちが、溢れてしまいそうになる。
「答えてください……御堂さん」
突然、御堂が車を降りた。
助手席に回り、ドアを開けると、克哉を引きずり降ろそうとする。
「御堂さん!? やめて、ください……っ!」
「……」
御堂は無言のまま、克哉の腕を乱暴に引く。
痛みはそのまま胸に突き刺さり、抵抗も虚しく克哉は車を降ろされた。
目の前で助手席のドアが勢いよく閉められ、克哉は呆然とそれを見ていることしか出来ない。
「……濡れるぞ。早く帰れ」
その一言を残し、御堂が運転席に戻る。
降りしきる冷たい雨の中、御堂の車が見えなくなっても、克哉はしばらくその場に立ち尽くしていた。
克哉の予感は当たった。
あれから何度メールを送っても、御堂からの返事は来なくなってしまった。
―――もう、無理なんだ。
御堂と再び会うようになってから、克哉は初めてそう思った。
最初から分かっていたことだった。
こんな歪んだ関係が、いつまでも続くはずがなかったのだ。
これ以上傷つく前に、傷つける前に、別れたほうがいい。
そのほうがきっと、お互いの為なのだろう。
携帯に着信が無いのを確かめながら、克哉の胸には諦めの気持ちが広がっていた。
(これから、どうしようかな……)
今日は営業先のショップを幾つか回った後、自宅に直帰する予定になっていた。
このまま帰っても問題無い時間ではあったが、家でひとりになるのがなんとなく嫌だった。
とぼとぼと通りを歩きながら、もう一件ぐらい回ろうかと考えているときに、克哉はふと気づいた。
(そういえば……御堂さんの新しい勤め先って、この辺りだったような……)
以前貰った、転職を知らせるハガキに書かれていた住所を思い出す。
確か、ここからなら歩いて行けるはずだ。
遠くからでもいい、一目見るだけでも―――。
そこまで考えて、克哉は不意に自嘲の笑みを漏らした。
(まるで、ストーカーだな……)
今、諦めようと思ったばかりなのに、まだ会おうとする自分が滑稽でならない。
あれほどまでに辱められ、拒絶されて、それでも尚御堂への気持ちが変わらない自分が理解出来なかった。
(馬鹿なことはよそう)
会っても、疎ましがられるだけだ。
そう思い直した克哉の目に、見覚えのある後ろ姿が飛び込んできたのは、そのときだった。
(あれは……御堂、さん……!)
少し離れてはいたけれど、見間違うはずがない。
あれは、確かに御堂だ。
思わず駆け出しそうになって、克哉はなんとか思い留まる。
御堂は一人ではなかった。
スーツ姿の髪の長い女性が、隣りを並んで歩いている。
会社の同僚だろうか。
いや、違うかもしれない。
けれど今の克哉にとって、それが誰であろうと関係なかった。
「……御堂さん」
克哉はある決意を固めると、御堂を追って走り出した。
「御堂さん……!」
克哉が後ろから呼びかけると、御堂は目を見張りながら振り返った。
「か……佐伯、くん……」
御堂が足を止めたので、隣りを歩いていた女性も立ち止まる。
克哉は二人にぺこりと頭を下げると、努めて平静を装って言った。
「すみません、たまたまそこで見掛けたものですから……。あの、御堂さんに渡さなきゃいけないものがあって」
「渡すもの……?」
克哉はスーツのポケットから、御堂のカフリンクスを取り出した。
あの日以来、ずっと持ち歩いていたのだ。
まるで御堂が傍にいてくれるようで、手放せなかった。
訝しげにしている御堂に、克哉はそれを差し出す。
「これ……前にお会いしたとき、ホテルの部屋に忘れていかれたので、預かってました」
「……」
「どうぞ」
一瞬、女性が妙な顔つきで御堂を見たことに、克哉は気づいていた。
これは、ささやかな仕返しだ。
これぐらいのことはしても許されるはずだろう。
御堂がようやく手を出して、それを受け取る。
掌に触れた微かな指先の感触に、克哉は僅かに目を細めた。
克哉の手から、カフリンクスが消える。
もう、何も残されてはいない。
空っぽになった手が、ゆっくりと力無く落ちる。
「……すみません、お邪魔をしてしまって。それじゃあ、御堂さん……」
そして克哉は顔を上げ、精一杯の笑顔を作って言った。
「さようなら」
そのまま背中を向け、克哉は歩き出す。
それは次第に早足になり、最後には走り出していた。
―――これで、いいんだ。
克哉は立ち止まることも、振り返ることもしなかった。
泣かないようにきつく唇を結んで、やがて雑踏に紛れ込んでいった。
- To be continued -
2008.02.28
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