exist 10
御堂の為ならなんでもしたいと思っていた。
御堂を喜ばせたくて、御堂に嫌われたくなくて、怖くて不安で必死だった。
全てを与えて、全てを奪って、互いの世界に互いしかいなくなってしまえばいいのにとさえ思っていた。
だけど、ただ好きだという想いが強いだけでは駄目なのだと気がついて。
御堂の隣りを歩くに相応しい人間でありたいと願うようになった。
それには自信の無い己を奮い立たせて、弱さと向き合って認めて、強い自分になる為に努力しつづけることが必要だった。
だから、シカゴに行くことを選んだ。
もちろん寂しいし、御堂にも寂しい想いをさせてしまうのは辛いけれど、これからもずっと傍にいたいと思うからこその選択だった。
それでも御堂が「行くな」と言ってくれたときは本当に嬉しかった。
本音を打ち明けてくれて、滅多に見せない弱さを曝け出してくれた恋人が堪らなく愛しかった。
けれどあのときの御堂は、きっと自分がどんな返事をするか分かっていたのだと思う。
分かっていても、言わずにはいられなかったのだろう。
だから迷いなく出した答えに御堂はそれ以上引き留めることはせず、微笑みとともに背中を押してくれたのだ。
嬉しかった。
幸せだと思った。
頑張れると思った。
それなのに―――。
「孝典……さん……?」
御堂の口から発せられた言葉の意味がすぐには理解出来ずに、克哉はただ呆然と愛しい人の名を呼んだ。
しかし隣りに座っている御堂は組んだ両手を額に押し付けて俯いたまま、苦しげな横顔を見せるばかりだった。
(本社赴任を……辞退……?)
今日の帰り間際、御堂から送られてきたメールを見たときから嫌な予感はしていた。
御堂の言う「大事な話」というのが楽しい内容であるはずがないことぐらいは覚悟していた。
けれど、どうして、こんな。
今回の言葉は前に引き留めてくれたときのものとはまったく意味が違う。
寂しさに耐えかねて言わずにいられなかったわけではなく、きっと「本当は言いたくないけれど言わざるを得ない」という状況だ。
決して克哉と目を合わせようとしない御堂の表情が、これが苦渋の決断であることを物語っていた。
「辞退って……どうして、ですか?」
「……」
予想が外れてくれることを祈りながら尋ねてみるけれど、御堂は答えない。
本当は思い当たることなどひとつしかなかった。
どう結びつくのかは分からないけれど、絶対に無関係ではないはずだ。
「……澤村……ですか?」
思いきって自ら澤村の名前を出すと、御堂の肩がぴくりと揺れた。
やはりそうかと納得すると同時に、克哉は悔しさに唇を噛む。
暫く音沙汰が無かったから油断していたのかもしれないが、まさか御堂のほうに接触してくるとは思っていなかった。
早速御堂に迷惑が掛かってしまったことに落ち込みそうになるも、今はそれどころではないと克哉は顔を上げる。
御堂が一度決まったことを翻すなど余程の事情があるはずだ。
克哉は御堂に身体を向けると、その横顔を覗き込むようにして言った。
「ごめんなさい、孝典さん。やっぱり孝典さんに迷惑を掛けることになってしまったみたいで……」
「克哉、私は」
「大丈夫です。孝典さんの気持ち、分かっていますから」
ようやくこちらを見てくれた御堂の眼差しからも、これが御堂の本意でないことは痛いほどに伝わってくる。
だからこそ克哉は、その理由を知らなければならないと思った。
「教えてください、孝典さん。澤村は何を言ってきたんですか?」
「……」
克哉の真剣な問いに御堂は溜息をひとつ吐いてから、数日前に執務室で起きた不愉快な出来事についてゆっくりと話しはじめた。
御堂の話が終わってからも、二人はしばらく黙り込んだままだった。
話を聞く前はさぞかし澤村に対して怒りを覚えることだろうと思っていたけれど、終わってみれば不思議なぐらいにそういった感情は湧いてこなかった。
彼のやり方は確かに卑怯だ。
しかしその話が事実であるならば、事態はそれだけに留まらないだろう。
寧ろ前もって教えてくれたことに感謝すべきかもしれないとさえ思えた。
「でも、その話は……本当なんでしょうか……?」
澤村が人を騙すのに長けている男だということは嫌というほど知っている。
克哉の呟いた疑問ももっとだとばかりに、御堂はソファに背中を預けながら答えた。
「それは私も考えた。そこで以前、私が本社との合同プロジェクトに参加したときに知り合った者に連絡を取ってみた。
……どうやら、奴の話は事実のようだな。私の聞き方も曖昧だったし、向こうもはっきりとは肯定しなかったが否定もしなかった。
しかしどうもテイラー氏は一度、その件に関して社内で誰かとトラブルになったことがあるらしい。それで周知の事実になったんだろう」
「トラブル、ですか……」
「ああ。どんなトラブルだったのかまでは聞けなかったがな」
克哉はテイラー氏を思い出してみる。
とても繊細で斬新な仕事をする一方で、普段は明るく朗らかで気持ちのいい男性だった。
合理的でないものを嫌うところは、御堂に少し似ているかもしれない。
つい控えめな態度を取りがちな克哉を叱咤しつつ励ましてもくれた彼と、また一緒に仕事が出来ることを嬉しく思っていたのに。
(もしもオレの恋人が同性だと知られたら……)
あからさまに態度に表すような人物ではないだろうけれど、きっと内心では嫌悪されるに違いない。
半年もの間、自分が彼にその嫌悪感に耐えることを強いなければならないのだと思うとどうしようもなく居たたまれなかった。
克哉も御堂も互いの関係を恥ずべきものだとは微塵も思っていないけれど、それが誰にでも容易に受け入れてもらえるものではないことも充分理解している。
克哉自身、御堂と手を繋いで日中の街中を堂々と歩けるのかと問われたら、頷くことを躊躇うだろう。
愛する我が子を受け入れることの出来ないテイラー氏だって辛く、苦しいはずだ。
自分が同性愛者であることで、そんな彼をまた傷つけてしまうのだとしたら―――。
「……っ」
自分が傷つくだけならば、いくらでも耐えてみせよう。
けれどそれが周囲の人達をも巻き込んでしまうものであるならば話は別だ。
克哉が御堂の顔を見つめると、御堂もまた克哉を見つめ返してきた。
言葉にしなくても、互いが何を考えいるのかぐらい分かる。
やがて御堂の労わるような手が伸びてきて、克哉の肩をそっと抱き寄せる。
引き寄せられるままに克哉は御堂に寄り添い、その胸に凭れて目を伏せた。
「……すまない、克哉」
御堂が謝る必要なんてどこにもないのに、そう言わせてしまったことが悲しくて克哉は必死に首を振る。
きっと御堂も苦しんだのだ。
どうすることが最善なのか、何か方法は無いのか、考えに考え抜いたうえで出した結論がこれだったのだろう。
当然だ。
克哉が赴任を辞退すれば、全てが丸く収まるのだから。
誰も嫌な思いをせずに済むおかげで、プロジェクトもさぞかしスムーズに進むだろう。
澤村もさすがに気が晴れてそれ以上のことはしてこなくなるかもしれない。
なにより御堂と克哉はずっと傍にいられることになるから、半年もの間、寂しさに耐える必要もなくなる。
怯えたり、不安になったりすることもなくなって、また今までどおりの日々が戻ってくるのだ。
(そうだ……きっと、それが一番いいんだ……)
諦めればいい。
新しい環境も、新しい仕事も、新しい自分も、全部。
現状に不満があるわけではないのだし、日本にいるままでもやり甲斐のある仕事はいくらでも出来る。
だから、なんてことはない。
悪いことなどひとつもない。
苦しくなんかない、悔しくなんかない、ちっとも残念なんかじゃない。
「孝典さん……」
克哉はきつく目を閉じて、御堂の胸にすがりついた。
それに応えるように、御堂の手もまた力を込めて克哉の肩をきつく抱く。
ここは暖かくて、居心地のいい場所だ。
だから、ずっとここにいればいい。
無理をして現状に抗って、自ら事態を悪化させるのは愚かな行為だ。
分かっているのに、うまく息が出来なくなってくる。
喉に石が詰まったようになって、頭の中に少しずつ白い靄が広がっていく。
(……ああ、まただ)
この感覚には覚えがあった。
澤村を前にすると思考が靄で遮られて、自分の存在が酷く不安定なものになっていく。
ぼやけていく輪郭と、ふわふわとした浮遊感。
やはり偽者だからうまくいかないのだろうか。
諦めるしかないのだろうか。
(諦める……)
あのときも、こうして御堂が抱き締めていてくれた。
そして御堂は言ってくれたのだ。
―――私は君を諦めない。だから君もどうか諦めないでほしい。私のことも、自分自身のことも。
その言葉を思い出して、克哉はゆっくりと目を開ける。
俯いていた顔を上げると、御堂を見つめた。
御堂もこちらをじっと見つめている。
何かを問い掛けるようなその視線に、克哉の唇が震えながら開く。
「孝典さん……オレ……」
苦しくない、悔しくない、残念じゃない。
嘘だ。
全部嘘だ。
苦しいし、悔しいし、残念でたまらない。
辞めたくない。
屈したくない。
負けたくない。
―――諦めたくない。
「……本当に……辞退する以外、ないんでしょうか……」
無意識に口から零れ出てしまった言葉に、御堂が驚いたように目を見張る。
その反応で我に返った克哉は慌てて作り笑顔を浮かべながら取り繕った。
「あ、す、すみません! 勝手なこと言って……。そうですよね、我儘言ってる場合じゃないですよね。これはオレだけの問題じゃないんだし……」
しかし御堂は克哉の気持ちを解すように、ゆっくりと髪を撫でてくれる。
「……いや、構わない。私は君の本当の気持ちが聞きたい」
「本当の……気持ち……」
そんな風に言われてしまえば、もう隠すことは出来なかった。
溢れ出す本音を抑えられず、克哉は御堂に訴える。
「辞退するのが一番いいんだってことは分かってるんです……。でもここで諦めたら、この先ずっと後悔するような気がして……。
澤村の嫌がらせの所為だった、孝典さんにも頼まれたから仕方が無かったんだ、
自分が弱かった所為でこうなったんだからって言い訳して、ずっと胸に引っ掛かっているのを誤魔化して……。
こんなオレは孝典さんに相応しくないって、また自己嫌悪に陥って……!」
本音を殺して自分を騙しても、きっといつか何処かで綻びが生じてしまうだろう。
御堂が愛してくれる自分を、大切にしてくれる自分を嫌いになんてなりたくない。
御堂が信じてくれるように、自分自身を信じたい。
もっと強くなれるように。
「オレ……諦めたくないです。もしもMr.テイラーがオレとあなたのことを知ってしまったとしても、うまくやる努力をし続けたい。
全部を受け入れて貰えなくていいから、一緒に仕事をする仲間としてオレという人間を認めてもらいたい。
我侭かもしれないけど、孝典さんにも迷惑を掛けてしまうかもしれないのに酷いことを言っているかもしれないけど……オレ、頑張りたいです……!
きっと半年後には行って良かったって思えるように、行かせて良かったって思ってもらえるように頑張りますから!
だから、何もしないうちから諦めたくないです! 辞退、したくないです……!」
我ながら馬鹿なことを言っていると思う。
御堂やその他の人達を巻き込んでしまうかもしれないのに、下手をしたら仕事にも影響を及ぼすことになりかねないのに、
そんな事態を「頑張る」などという幼稚な精神論で乗り越えようだなど余りにも馬鹿げている。
けれど、克哉にとってはそれこそが重要だった。
乗り越える方法を探すのは、まず諦めないと決めてからだ。
それをしなければ最初の一歩も踏み出せやしない。
それは簡単なようで最も難しい決断。
たとえ御堂に頼まれたことであっても、譲れない本当の気持ちを認めること。
偽者である自分が胸を張ってこの世界で生きていく為にも、それは必要なことだったのだ。
御堂は本音をぶつけてくる克哉の様子をしばらく黙って伺っていたが、やがてふと目を細めたかと思うとその胸に克哉をきつく抱き締めた。
「……君なら、そう言ってくれると信じていた」
「孝典さん……?」
てっきり呆れられると思っていたのに、予想外な御堂の態度に克哉は面食らう。
しかし御堂は心から嬉しそうに克哉の髪に頬を擦り寄せていた。
「あ、あの、孝典さん。どういうことでしょう……」
「……試すような真似をして済まなかった」
克哉の問い掛けにようやく身体を離すと、御堂は僅かに表情を曇らせたて謝罪した。
「騙すつもりではなかったんだが、君が先日言った諦めたくないという言葉がどれほどのものか確かめたかった。だから、敢えて辞退を勧めたんだ」
「えっ、そうだったんですか」
「ああ。あの男の言葉を認めるのは甚だ不本意ではあるが、状況としては明らかにこちらのほうが分が悪いのも事実だ。
傍にいれば幾らでも君を守ることも出来るが、海の向こうではさすがに私の目も行き届かない。
何かあっても君はぎりぎりまで私に隠すだろうからな。
だからこそ誰に妨害されようと、たとえ私に引き留められようと、それでも行きたいのだという強い意志を示して欲しかったんだ」
「孝典さん……」
確かに以前の自分ならば、御堂にあそこまで言われればさすがに諦めていただろう。
けれど、今はそれが最善の選択だとはどうしても思えなかったし、その蟠りから目を逸らすことも出来なかった。
嫌われるかもしれないからとか、御堂に迷惑を掛けるかもしれないからとか、そんな理由で本音を隠しても御堂は決して喜ばないと今の克哉はよく知っている。
実際あえて御堂が辞退を勧めてくれたおかげで、克哉の中の諦めたくないという気持ちは更に強くなっていた。
「でも、本当にいいんでしょうか……。オレ、物凄く自己中心的なことを言っていますよね……」
「今は我侭になるべきところだと私は思う。そうでなければ、きっと君は駄目になる」
「……そう、ですね」
ここで負けてしまえば、今度こそ本当に立ち上がれなくなるかもしれない。
開き直りと言われても構わない、克哉は御堂の慰めを素直に受け取ることにした。
「でも……もしもオレが本当に諦めていたら、どうでしたか?」
克哉に尋ねられて、御堂は少し考える。
「そのパターンは想定していなかったが……そうだな、多少は君に失望したかもしれないな」
「そうですか……」
「そもそも私の最初の行くなという頼みは即却下したくせに、あの男の妨害であっさり行くのを諦めるなど許せるはずがないだろう」
「あ、あれは」
「まあ、それは冗談だが」
御堂がおどけてみせて、二人は少しだけ笑う。
重かった空気が僅かに和らいだものの、しかしそれも長くは続かなかった。
諦めないと決めたはいいが、それを知った澤村がどう動くか。
彼のことだから、二人の関係を広めるという脅しは実行されるに違いない。
二人はしばらく自分達がどうすることが最善なのかを話し合った。
もしも知られてしまっても根も葉も無い中傷だとしらを切り通すか、いっそ先手を打ってこちらから全てを打ち明けてしまうか、
それとも逆に有るか無いかも分からない澤村の弱みを握るべく彼の周辺を調査してみるか……。
楽観的なものからやや物騒なものまで、あれこれと案を出し合ってみるもなかなかこれという手段は思いつかない。
いつの間にか日付も変わり、疲労を感じ始めた頭で克哉はまだ考えていた。
こうなった原因はなんだ。
どんな状況になれば最もいい?
ダメージを最小限で済ませるには?
(澤村……)
克哉にはやはり根本的な原因は自分と澤村との関係にあるような気がした。
もしも克哉が本社赴任を諦めたとしても、それで彼の気が済むとは限らない。
屈すれば逆に味を占めるかもしれないし、とにかくあらゆる可能性を考えていたらきりがなかった。
ひとつだけ分かっていることは、これからも何かあるたびに彼の影に怯えるのだけは御免だということだ。
自分も彼ももう子供ではない。
ただ悪意をぶつけ合うだけでは互いに苦しいままだ。
御堂のことも、自分自身のことも諦めない為に。
その為に必要なことをする。
御堂が傍にいてくれるから、頑張れる。
だから。
「孝典さん、オレ……澤村と話し合ってみます」
真正面から向き合って、こんな関係に今度こそ決着をつける。
単純かもしれないけど、うまくいく自信もないけれど、それが最善で必然な方法に思えた。
克哉の言葉に御堂も頷く。
「そうだな……。やってみる価値はあると思う」
「それじゃあ」
「そうとなれば、その前に私の考えが正しいか確かめておくべきかもしれないな」
「孝典さんの……考え、ですか?」
「ああ、そうだ」
なんのことかと不安そうに首を傾げる克哉に、御堂はただ微笑むだけだった。
- To be continued -
2014.01.28
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