exist 09
その夜。
ここ最近そうしているように、今夜もリビングのソファで眠ろうとする克哉に御堂が躊躇いがちに声をかけた。
「克哉。その……そろそろ、また一緒に寝ることにしないか?」
「え……」
しかし明らかに戸惑った反応を見せた克哉に、御堂は慌てたように付け加える。
「そんな顔をするな。ただ一緒に眠るだけでいい。それ以上のことは、何もしないと約束する。……いや、この言い方は、どうも怪しいな。
だが、いつまでもこんなところで寝ていては君の身体にも良くないだろう。私は君の嫌がることをするつもりはない。だから……」
「孝典さん……」
克哉は御堂の手を取った。
御堂の優しさが切なくて、嬉しくて。
でもこんなことを言わせてしまった自分が情けなくて、申し訳なくて。
だから自分から言いだしたことなのに勝手すぎるとは充分承知していたけれど、正直な気持ちを話すことにした。
「ありがとうございます、孝典さん……。実を言うと、オレもここじゃ全然眠れなくて」
自分という偽りの存在を御堂に触れさせたくなかった。
何も知らない御堂を欺いているようで辛くて、距離を置くしかなかった。
けれど御堂の傍で、御堂の温もりを感じながら眠るのがすっかり当たり前になっていた身体は、どうしてもその変化に応じることが出来なかった。
いや、心が抵抗していたのかもしれない。
ソファに横たわって、どれだけしっかりとブランケットに包まっても寒くて寒くて仕方が無かったのだから。
眠れなくて、まんじりともしないまま夜が明けてしまったことも一度や二度ではない。
ここ数日は自分が本当は眠いのか眠くないのか、眠ったのか眠っていないのか、それすらももうよく分からなくなっていた気がする。
どれだけ物理的な距離を置いても、心はいつも必死で御堂を求めていた。
御堂だけを。
「……でも、いいんですか?」
けれど、まだ御堂の求めに応じられる自信はない。
克哉が不安そうに尋ねると、御堂は克哉の頭を撫でながら微笑んだ。
「馬鹿なことを聞くな。君は何も心配しなくていい」
「孝典さん……」
二人は手を繋いで寝室へと向かう。
ベッドに入り、向き合って横たわると、どちらともなく微笑み合った。
いつもならばすぐに消してしまうスタンドの灯りをつけたままにして、互いの顔をじっと見つめる。
「やっぱり、こうしていると幸せだな……」
無意識に零れた言葉は、きっとそれが本心だったからだろう。
御堂も嬉しそうに目を細めて答える。
「そうだな。これで私もようやく寝不足を解消出来る。昨日の会議では、危うく居眠りをするところだった」
「えっ?! 孝典さんがですか?! す、すみません、オレの所為で……」
「いや、君が謝る必要はない。一番の原因は福田常務だからな。あの人の話は、つまらないうえに長すぎる。もう少し要点を纏めてから話すべきだと……」
「……」
克哉は思わず噴き出した。
クスクスと笑い続ける克哉を、御堂が不思議がる。
「そんなに可笑しなことを言ったか?」
「いえ、孝典さんでもそんな風に思うんだなって……。なんだか子供みたいで、可愛いかったから」
「……可愛いのは君のほうだろう」
御堂はそう言って、克哉の手を優しく握った。
「そうやって笑っている君はたまらなく可愛いらしいからな。だから、あまり他の連中に笑顔を見せないでくれ」
「そ、そう思っているのは孝典さんだけだと思いますけど……。じゃあ、無愛想にしていたほうがいいですか?」
「……そう言われると、困るな」
囁くように言葉を交わして、くすぐるような笑みが零れる。
繋いだ手の暖かさは穏やかな眠気を誘い、いつの間にか二人は瞼を閉じていた。
久し振りにひとつのベッドで眠った夜、寝室は何処までも安らかな幸福に満ちていた。
御堂が克哉にまず約束させたのは、次にまた澤村から接触があった場合には速やかに知らせるようにということだった。
克哉は御堂に迷惑を掛けまいとしてすぐにひとりで抱え込もうとするけれど、克哉に何かあれば御堂にも影響が及ぶのは分かりきっていることなのだから、隠そうとしても隠しきれるはずがないのだ。
それは今回のことで克哉自身も痛感したのだろう、御堂の要求には素直に頷いた。
それに、御堂には予感があった。
恐らく澤村は御堂と克哉が恋人同士であることを知っている。
それならば彼にとってのターゲットは克哉だけではなく、その射程範囲内には自分も含まれているに違いない。
何故なら、御堂の存在こそが克哉の最たる弱点となると彼は理解しているはずだからだ。
その弱点を利用しない手はないだろう。
澤村がいつ、何を仕掛けてくる気なのかは分からない。
彼がMGNに姿を見せた日から暫く経っているが、今のところは克哉にも御堂にも特に何事も起きていなかった。
しかしながらあれがただの脅しだったとは考えづらく、だから御堂は何があっても決して独断で対処しないよう克哉に釘を刺すと同時に、自分自身も同じく覚悟を決めておくよう努めた。
そして、その覚悟が役立つときは思ったよりも早くやってきたのだった。
その日、御堂の執務室の電話が鳴ったのは午後五時を過ぎた頃だった。
御堂は確認途中の書類から目を離さないまま受話器を取る。
「はい、御堂です」
『お疲れ様です、御堂部長。代表受付、高橋です。クリスタルトラスト社の澤村様よりお電話が入っておりますが』
「……!」
その名前に御堂は目を見張る。
(いよいよ、おでましか―――)
この数日の間に、なんらかの準備をしてきたのだろうか。
それにしてもまさか御堂のほうに直接、それも真正面からコンタクトを取ってくるとは少々予想外だった。
それだけ自信があるということなのかもしれない。
「……繋いでくれ」
一瞬の間の後、外線に繋がる。
『もしもし。お忙しいところ、申し訳ございません。クリスタルトラストの澤村と申します』
「……御堂ですが」
『どうも。先日はきちんとご挨拶も出来ず、失礼致しました』
どうせ自分のことは克哉から聞いて知っているはずと思っているのだろう。
白々しい物言いに、御堂は知らず眉間に皺を寄せる。
澤村が受話器の向こうで薄ら笑いを浮かべているであろうことは容易に想像がついた。
彼を見たのはほんの短い時間だったけれど、あの眼鏡の奥で細められていた目は忘れられない。
口元は笑みの形を作っているにも関わらず、少しも笑っていなかった、あの目を。
「それで、用件は? こちらも忙しいものでね。手短に願いたいのだが」
『ええ、そうでしょうね。大丈夫ですよ、お手間は取らせませんから』
「……」
会話が剣呑な空気を帯びてくる。
御堂は苛立ちを覚えて、手にしていたボールペンで軽く机を打った。
『それでは、早速。MGNシカゴ本社のプロダクト部門に、マイケル・テイラー氏という方がいらっしゃるのはご存知ですよね?』
「……勿論」
知らないはずがない。
彼こそは克哉が赴任後に参加する新商品のプロジェクトマネージャーなのだから。
しかし澤村がそれを知っていて彼の名前を出したのだとしたら厄介だ。
当然、そうなのだろうが―――。
『彼に関して、大変興味深い話がありましてね』
澤村は勿体ぶる。
テイラー氏は50代ぐらいで若い頃にはバスケットボールをやっていたらしく、身体も声も大きい快活な男だ。
面倒見が良く、部下からの信頼も厚いらしい。
前回の出張の際にも克哉の線の細さを心配して、やたらとランチを奢ってくれようとするので、少し困ってしまったけれどとても有難かったと克哉から聞いていた。
御堂も何度か話をしたことはあるが、安心して克哉を任せられる人間だと認識している。
そんな彼に澤村が興味を示すような、どんな話があるというのか。
御堂はただ黙って、澤村が話を続けるのを待った。
『実はテイラー氏は、反同性愛主義者なんだそうですよ』
「……!」
御堂は息を飲んだ。
そんな話は聞いたことがない。
いや、聞いたことがないのが普通だろう。
プライベートでよほど親しくならない限り、個人の性的嗜好などというデリケートな話題はそうそう口にしないものである。
御堂も彼とは仕事絡みの話しかしたことがなかった。
(しかし、まさか彼が……)
これは澤村のはったりである可能性も考えられる。
すると澤村はそんな御堂の思惑を察したように、先手を打ってきた。
『信じるも信じないも貴方の自由です。ですが、彼の周囲では既に暗黙の了解になっているようですよ』
「……」
『あちらでも同性婚が法的に認められている州は増えています。ですが、宗教的な理由もあってまだゲイフォビアが多いのも事実です。
ただテイラー氏は宗教的な理由ではなく、彼の息子さんがゲイだったそうで……その所為みたいですけどね』
セクシャルマイノリティに対する差別や偏見に異を唱える声は確かに増えてきているのだろう。
しかしながら実際に身内がそうであった場合、心から受け入れることに時間を要する人のほうがまだまだ多いというのも、また事実には違いない。
中には決して受け入れられないという人がいることも知っている。
だからこそテイラー氏がその性的嗜好そのものを嫌悪してしまう気持ちは理解出来なくはなかった。
少なくとも安易に彼を責めることは、短慮に過ぎると言っていいだろう。
こればかりは簡単な問題ではないと、御堂もよく分かっていた。
「……それで? 君は何が言いたい?」
その先の予想は大方ついていたけれど、御堂は敢えて澤村自身に言わせようとする。
しかし澤村は御堂とのやり取り、それすらも楽しんでいるようだった。
『まあ、彼はそれについてなんらかの活動をしているわけでもありませんから、単にゲイ嫌いという程度のようですけどね』
「……だからといって彼の主義や嗜好が、我々の仕事に支障をきたすことはないだろう。彼は公私混同をするような男ではない」
『ですから、彼の周囲では暗黙の了解になっていると言ったでしょう? 気を遣っているのは周りのほうだ』
「だったら、尚更だ。皆、職場で自らの性的嗜好を声高に主張することは間違いだと理解しているのだろう。なんの問題も無い」
『そうですね、問題はないでしょう。……何も知らなければ、ね』
そのとき澤村が喉の奥で笑ったのを、御堂は確かに聞いた。
『……知る必要の無い情報であっても、一度耳にしてしまったことは簡単には忘れられないものです。
それによって大なり小なり心境に変化を齎されることは、きっと免れない。
ましてや公私混同を嫌う人物から見れば、同じ部署の上司と部下が……なんて、どう思われることか』
「……」
『それに彼がゲイと一緒には仕事をしたくないと思っていないと言いきれますか?
仕事中はどれだけ嫌悪する対象が傍にいても、それを少しも表に出さずにいられる人間だと?』
御堂はうんざりして溜息をついた。
小学生時代に澤村が克哉にしたことは相当悪質だと思ったが、どうやらその陰湿さは今も健在のようだ。
克哉はこんなのに絡まれていたのかと思うと本当に可哀想になる。
「……下衆が」
『……は?』
つい低く呟いてしまった罵倒の言葉は、澤村にははっきりと聞き取れなかったらしい。
御堂は憤りを抑えて、なんとか口調を変えた。
「いや、なんでも。とにかく君は私と克哉のことをネタに脅しをかける為、わざわざ電話をしてきたと……そういうことでいいか?」
『克哉……ね。彼と恋人関係であることは認めるんですね?』
「今更だな。もとより隠すつもりもない」
『へえ……。ああ、僕も脅すつもりなんてありませんよ。これはあくまで忠告ですから』
「忠告……?」
『ええ、忠告です。克哉くんと貴方が恋人同士であることは、いつテイラー氏の耳に入るか分からない。
貴方は隠すつもりはないと仰るけど、もしもそうなったら辛い想いをするのは克哉くんだ。
海の向こうでは、貴方が守ってあげることも出来ない。ですから……いっそ克哉くんのアメリカ行きは取り止めにしたほうがいいのではないかと』
「ほう……」
なるほど、そういうことか。
この男は克哉が社会的な地位や名誉を手に入れることがどうしても許せないらしい。
見下したい対象を引き摺り下ろしたところで、自分自身は何も手に入れられないのだということに気づいていないのだろう。
もしかすると彼の心は小学生の頃から少しも成長出来ていないのかもしれない。
御堂はそのとき初めて、彼を哀れに思った。
「君の言いたいことはよく分かった。だが、それなら克哉に直接言えば良かったのではないのか? 何故、私に連絡してきた?」
『勿論、貴方から言ってもらったほうが効果があると思ったからですよ。僕が言っても、きっと克哉くんは聞いてくれませんから。
……それに、これは貴方の問題でもあるはずですよね?』
御堂は執務室の壁に掛けられた時計をちらりと見た。
もうかれこれ二十分近く話している。
今日は久し振りに克哉と外で食事をする予定で、だからこそ残業をせずに済むよう仕事を進めていたのに、これでは台無しではないか。
御堂はもういい加減、電話を切りたくて堪らなくなっていた。
「なるほど。親切なご忠告、痛み入る。この件については、私から克哉に話をさせてもらおう」
『ええ、宜しくお願いします。英断を期待していますよ』
「さて、決めるのは彼だからな。……ああ、そうだ。私からも君にひとつ、忠告がある」
『……?』
「―――私の克哉を侮らないほうがいいぞ」
受話器の向こうで澤村が気色ばんだのが分かったが、御堂は構わず叩きつけるようにして電話を切った。
それから椅子の背に深々と身体を預けて、大きな溜息をつく。
「まったく……」
克哉にあれほど言っておきながら、つい最後の最後で冷静さを欠いてしまった自分を御堂は恥じた。
あの手の輩に挑発や威嚇は逆効果だと分かっていたのに、やはり大人しくしたままではいられなかったのだ。
目の前にいたら殴っていたかもしれないから、電話で良かったとつくづく思う。
(さて、どうしたものか……)
澤村の情報が事実なら、確かに克哉をそのまま行かせることにはかなりの不安を感じる。
テイラー氏は人格者ではあるが、もしも克哉と自分のことを知れば、半年という長い期間のうちに耐えられなくなるということも充分起こり得るだろう。
そんな中でたとえプロジェクトそのものは成功したとしても、克哉は傷つき、また自信を失って帰ってくる羽目になりかねない。
それでは彼の成長の為と思って、寂しいのを我慢して背中を押してやった意味がなくなってしまう。
ましてや今の克哉は酷く不安定なのだ。
克哉にありのまま全てを話すことは前提として、それを聞いた克哉がどんな結論を出すか。
そして、御堂に何が出来るのか。
情報を整理して、あらゆる状況をシミュレーションする必要があるだろう。
とにもかくにも今は机上の仕事を終わらせるのが最優先事項であることだけは確かだった。
それから数日を掛けて、御堂は考えに考え抜いた。
そしてどれだけ考えても、辿り着く答えはひとつしかないと分かった。
それを言えば、克哉はきっと酷く傷つくだろう。
それでも彼を守る為、御堂は言わなければならなかった。
後は克哉を信じるだけ。
克哉はいつも自分を過小評価するけれど、御堂は彼の持つ強さと勇気を信じていた。
「ただいま」
御堂が帰宅すると、先に帰っていた克哉がリビングから顔を出す。
「……お帰りなさい、孝典さん」
着替えもせずに待っていたらしく、ワイシャツ姿のままの克哉は表情もどことなく雲っていた。
それは御堂が帰宅する直前に送ったメールの所為だろう。
―――帰ったら、大事な話がある。
そのメッセージが克哉を不安にさせているに違いない。
二人はそのままリビングに入り、ソファに並んで座った。
克哉はただ黙って御堂が話し始めるのを待っている。
御堂は克哉の顔を見ることが出来ず、組んだ両手に視線を落としながら言った。
「さっき連絡した、大事な話についてなんだが……」
「はい」
既に何かを察しているのか、克哉は腹をくくっているようだった。
だから御堂も思い切って伝える。
「……本社赴任の件を、辞退してもらいたい」
- To be continued -
2013.11.30
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