Classical

exist 08

気を紛らわせる為の手段ならば幾らでもあった。
シカゴ本社への赴任も近づいてきた今、そもそもが個人的なことで悩んでいる暇など無いはずだったのだ。
食文化は国によって大きく異なる。
それはその国の持つ風土から生まれ、長い時間を掛けてそこに住む人々の体質や習慣を形作っていくものだ。
だから同じ商品であっても日本国内向けと他国向けでは仕様が異なるのが普通だった。
シカゴに行けば自分は外国人の立場になるが、ただ向こうのやり方におもねるだけならば、わざわざこちらから行く意味も必要も無くなってしまう。
自分に出来ること、求められていること、やらなければならないこと。
そして、自分にしか出来ないこと。
彼らのバイタリティについていくだけで精一杯になってしまわない為にも、それらをしっかりと意識しなければならない。
製品の仕様の違いや米国内での売り上げ推移、マーケティングの結果など大量の資料を目の前にしながら、克哉はしみじみそれを感じていた。
「はぁ……」
それでも、ともすれば溜息をついてしまう自分が嫌になる。
必死で己を奮い立たせようとすればするほどに、本当はただ逃げたいだけなのではないかともう一人の自分が問い掛けてくるのだ。
勿論、もう一人の自分というのは、眼鏡を掛けた佐伯克哉ではなかったけれど。
あれから御堂とは距離を置いたままの生活が続いている。
いつの間にか互いに出勤や帰宅の時間をずらし、休日にはわざと予定を入れるようになっていた。
たとえ傍にいても触れ合うことは決して無く、上辺だけの当たり障り無い会話を交わすだけ。
別々に眠ることも、澤村のことも、なんでもないことのように振舞っては毎日をただやり過ごしていた。
以前はこのまま出立の日が来てしまったらどうしようかと焦る気持ちもあったのに、今ではいっそそれでも構わない気さえしている。
逃げても何も変わるはずがないのに、御堂とも澤村とも物理的な距離を置けば、もう少し時間が経てば、何もかも解決するのではないかと都合のいいことを考えているのだ。
それどころか、もしかしたら取り返しのつかないことになるかもしれないというのに。
(……帰ろう)
気がつけば終業時刻もとうに過ぎて、オフィスに残っている人間もまばらになってきた。
帰る場所がひとつしかないことが以前はあんなにも嬉しかったはずなのに、今は酷く辛い。
本当ならば御堂のマンションを出るべきなのだろう。
けれど、それは克哉にとって最終手段に思えた。
それをしてしまえば、そのときこそ全てが終わってしまう。
だから、まだ。
まだ諦めたくない。
もう少しだけ足掻きたい。
何も出来ずにただ立ち止まっているだけのくせに、どうしていいのか見当もついていないくせに、心の何処かでそんな思いを捨て切れずにいた。
(情けないな……)
克哉はもう一度溜息をつきながら、携帯電話を確認した。
御堂から何も連絡が来ていないところを見ると、彼はまだ自分の執務室で仕事をしているのだろう。
克哉は今から帰宅しますとだけ書いた短いメッセージを御堂に送ると、荷物を纏めてオフィスを出た。

しかし吹き抜けのロビーを抜け、正面玄関を出てすぐのところで克哉の足は凍りついたように動かなくなってしまった。
「……どうして」
無意識に零れた言葉。
視線は目の前に立っている男に釘付けになっている。
「お疲れ様。遅かったね」
そこにいたのは紛れも無く澤村だった。
彼は克哉の姿を見ると、赤いフレームに縁取られた目を細めながらこちらに近づいてくる。
いつからここで待っていたのだろう。
稀にだが克哉も出先から直帰することがあるし、残業で帰りがかなり遅くなる日もあるというのに。
いや―――彼のことだから、今日はここにいれば必ず克哉に会えると確信したうえで待っていたに違いない。
そう考えると、澤村の執念深さに克哉はぞっとした。
「携帯のほうに連絡が取れなくなっちゃったからさ。直接来るしかなかったんだよね。それとも職場に電話しても良かったかな?」
「……」
確かに最後に澤村と会った日の翌日には、克哉は彼の番号もアドレスも拒否の設定にしていた。
もう澤村とは二度と接触したくなかったからだ。
「……最後にするって言ったじゃないか」
『決着』さえつけば、もう会う必要は無くなると澤村は言ったはずだ。
だからこそ、もう一度だけ会いたいという申し出を受けたというのに。
それなのに、何故。
恨みがましい克哉の非難に、澤村はかえって愉快そうに笑う。
「君が悪いんだよ」
笑顔を貼り付けたままそう言って、まだ動けずにいる克哉に更に近づいてくる。
そして克哉の耳元に顔を寄せると、低い声で囁いた。
「……君が僕を哀れんだりするからさ」
「―――」
克哉は絶句した。
あの日、御堂とのことを仄めかされた怒りに思わず我を忘れた克哉は、澤村に攻撃的な言葉を浴びせかけた。
それが彼のプライドを傷つけ、克哉への嗜虐心に再び火をつけたのだろう。
何も言い返したりするべきではなかったのかもしれないという克哉の後悔は見事に的中してしまった。
澤村は挑むように付け加える。
「今度こそ、君に負けを認めさせてやるよ」
「……ッ」
克哉は澤村を睨みつけたが、澤村はあくまで笑みを崩さない。
これ以上、何をしようというのだろう。
勝ち負けで言えば自分が負けたのだと、そんなことはとうに認めている。
人格が変わるほどのダメージを受け、十年以上経った今でも己の存在にさえ自信が持てなくなって苦しんでいるというのに、それでもまだ足りないのか。
いったいどうなれば彼は満足するのか。
―――オレが消えれば?
佐伯克哉という人間が消えてしまえば澤村も納得するのだろうか。
佐伯克哉が消えるまで、彼は許してはくれないのだろうか。
―――どうせ偽りの存在だ。
今だって消えているも同然じゃないか。
ここにいるのは偽者。
かりそめの存在だ。
ぐらり、と足元が揺れる。
覚えのある感覚。
眩暈がして、恐怖のあまり吐き気が込み上げてくる。
すぐ傍にある澤村の薄ら笑いが視界の中で歪んで、あの卒業式の日に見た最後の顔と重なる。
倒れそうになりながら、ふと克哉は思った。
もしかすると彼もまたあの日から動けずにいるのではないかと。
(もし、そうだとしたら―――)
そのとき澤村は克哉の肩越しに何かを見つけたらしく、不意に視線をそちらに向けた。
「……さすが遠目にも格好いいね。御堂部長は」
「……!」
出された名前に弾かれたように振り返ると、ロビーの中央を真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる御堂が見えた。
克哉は咄嗟に目を逸らす。
こんなところ、見られたく無かった。
澤村と一緒にいるところなど。
本音を言えば駆け寄って助けを求めてしまいたいほどだったけれど、自分の所為で互いを避けるように生活している今、そんな虫のいいことが出来るはずもない。
それに、御堂は何事もないかのように素通りするかもしれなかった。
寧ろそうされるのが当然だと思うし、澤村の手前もあるからそのほうがいいのだろう。
そうしてほしい。
素知らぬ顔で通り過ぎてほしい。
克哉は息を飲んで御堂が去るのを待ったが、しかし御堂は俯く克哉の横まで来るとぴたりと足を止めた。
「……佐伯君」
「―――!」
その声に顔を上げれば、御堂は穏やかな微笑みを克哉に向けてくる。
「待たせてすまなかったな。行こうか」
「えっ……? あ、あの……」
克哉はぽかんとする。
今夜、御堂と約束などしていない。
しかし御堂は克哉の肩に手を置くと、有無を言わせないような強さをもって言った。
「行くぞ。克哉」
「……!!」
それは澤村にもはっきりと聞こえたはずだった。
戸惑う克哉の身体を、御堂の手が促すように軽く押す。
克哉がふらつく足取りで去り際に見たのは、御堂が澤村に向けた敵意に満ちた視線と、それを作り笑顔のまま受け止めている澤村の姿だった。
「……またね、克哉くん」
その言葉に気づかぬふりをして、二人は足早にその場を立ち去った。

社屋を出ると、御堂は克哉の手を取り更に足を速める。
「あ、あの……!」
「……」
こんなところで手など繋いでいたら、社内の誰かに見られてしまうかもしれない。
そんな不安から克哉は御堂の手を振り解こうとしたけれど、ますますきつく握り締められてしまうだけだった。
引きずられるようにして駐車場へと向かい、御堂の車まで来る。
そういえば何故、今日に限って御堂は克哉と同じ時間に帰ろうとしたのだろう。
いつもならば帰宅する時間をずらすはずで、その為に連絡を入れたのにあえて御堂は追ってきたのだ。
それに、澤村の前で克哉を名前で呼んだことも気になる。
克哉が車に乗るのを躊躇っていると、それまで黙っていた御堂がようやく口を開いた。
「……一緒に帰ろう、克哉」
「孝典さん……」
まだそう言ってくれる御堂の優しさが胸に痛い。
御堂は動けずにいる克哉の背を押して、助手席に押し込んだ。
そして自分も運転席に着く。
「あの、孝典さ……」
克哉が話を切り出そうとすると、突然運転席から身を乗り出してきた御堂に抱き締められた。
「た、孝典さん……?」
「……すまない」
何故、御堂が謝るのだろう。
御堂が謝らなければならないことなんて何一つ無いのに。
「……嫌だろうが……少しだけ、こうさせてくれ」
「嫌だなんて、そんな……」
確かに、こんな風に触れられるのは久し振りのことだった。
御堂の腕はあくまで克哉を包み込むように緩く、そして微かに震えていた。
本当はきつく抱き締めてしまいたいのを我慢しているのだ。
それが分かって克哉は泣きたくなった。
どうしてこんなにもこの優しい人を傷つけてしまっているのだろう。
愛しているのに。
心から、今でも愛している。
克哉は恐る恐る自分も御堂の背中に手を回そうとしたが、やはり抱き締め返すことは出来なかった。
両手が力無く落ちて、自分への嫌悪感でいっぱいになる。
御堂が素通りしなかったことも、澤村から助け出してくれたことも本当に嬉しかったのに、自分にはそれに応える資格が無いのだ。
抱かれたままただじっとしている克哉の肩に、御堂は額を押し付けながら呟いた。
「……君が消えてしまいそうに見えた」
「えっ……?」
「今のが澤村という男なのではないのか?」
「はい……どうして分かったんですか?」
「君の様子を見ればな」
御堂が顔を上げて苦笑する。
澤村といるとき、自分はよほど酷い顔をしていたのだろうか。
そんな中で御堂がすぐに事情を察して、相手が澤村であることを確信しながら敢えて自分を名前で呼んでくれたのだと知って胸がいっぱいになる。
だからといって、ゆっくりと離れていく腕を名残惜しく思うのがどれだけ自分勝手なことかぐらいは克哉にもよく分かっていた。
「あの……どうして、今日はこの時間に……?」
最近はずっと帰宅時間をずらしていたのに、今日に限って御堂が追ってきたことが不思議でならない克哉はそう問い掛ける。
御堂は少し考えてから答えた。
「さぁ……自分でもよく分からない。分からないが……虫が知らせたのかもしれないな」
「えっ……」
ということは御堂は特別な理由も無かったのに、克哉が困っているところに偶然現れて助け出してくれたというのか。
それでは、まるで正義のヒーローのようではないか。
呆気に取られている克哉に、御堂は訝しげに眉を寄せた。
「……どうかしたか?」
「いえ……。ただ、孝典さんって本当にかっこいいんだなぁと思って……」
つい述べてしまった素直な感想は、御堂をますます混乱させるだけだった。
「どういう意味かはよく分からないが……とりあえず私は誉められていると思っていいのか?」
「はい、勿論です」
「そうか。ならば、有難く受け止めておこう」
二人して思わず笑みを零す。
互いの間にこれほど和やかな空気が流れることは随分と無かったから、なんだか妙に照れ臭かった。
「……また、何か言われたのか?」
しばらくして今度は御堂にそう問われ、克哉は唇を噛む。
とうに全てを知られてしまった今となっては、隠していても意味はないだろう。
それになんとなく嫌な予感がして、克哉は重い口を開いた。
「今度こそ……オレに負けを認めさせるんだそうです」
「……馬鹿馬鹿しい」
御堂が吐き捨てる。
その通りだ。
本当に馬鹿馬鹿しい。
ここに自分が存在していることこそが、佐伯克哉が負けた証明なのだと澤村は分かっていないのだ。
けれど、克哉にとって最も重要な問題はそこではなかった。
克哉は思わず御堂のほうに身を乗り出す。
「あいつが何をするつもりなのかは分かりません。でも、もし孝典さんに迷惑が掛かったらと思うと、オレ……!」
「克哉……私を心配しているのか?」
「あっ……その……オレ……」
そうだった。
今は自分こそが御堂を傷つけている張本人のくせに、心配をするなど可笑しな話だ。
克哉は恥じて俯いたけれど、御堂の掌は克哉の頬に何処までも優しく触れてきた。
「……克哉。私も私に出来ることをすると決めた」
「孝典さん……?」
御堂は断固とした決意に満ちた目で克哉を見つめている。
その瞳に吸い込まれそうになりながら、克哉は御堂の言葉を聞いていた。
「これは確かに君が乗り越えなければならない問題だ。だが、だからといって私に出来ることがないとは思わない」
「孝典さん……」
「君の話を聞いた日から、ずっと考えていた。私にしてやれることは何も無いのではないかと思ったりもした。 だが、さきほどの君を見て……やはり何もせずにはいられないと分かった」
御堂は自嘲気味の笑みを浮かべながらそう言うと、今度は克哉の頬を両手で挟むようにして自分のほうに向かせる。
真っ直ぐに見つめてくる瞳。
これから告げる誓いが、克哉の心の奥底にどうか響くようにと。
「克哉。私は君を諦めない。だから君もどうか諦めないでほしい。私のことも、自分自身のことも」
「っ……」
きっぱりと。
拒絶を許さないほどの強さでありながら、祈りのような切実さを持った言葉が克哉の心を小さく照らしてくれる。
本当にいいのだろうか。
諦めなくていいのだろうか。
本当は諦めたくなんかない。
身体中が、心の全てが、そう叫んでいる。
頬を撫でる御堂の指先から、御堂の想いが伝わってくる。
「で、でも、オレは……」
「克哉」
それでもまだ受け入れようとしない克哉の言葉を、御堂は遮る。
「君はとても頑固で、そして貪欲な男のはずだ。自分の欲望に素直で、それを叶える為の努力を惜しまない。 私は君をよく知っている。そうだろう?」
「……」
「君はいつだってピンチをチャンスに変えてきた。君にはその力がある。 私が認めた君という人間を否定することは、それがたとえ君本人であっても決して許さない。君は絶対に私を諦めない」
「孝典さん……」
そうだった。
御堂は絶対に諦めない。
そんな御堂だから信じられるのだと知ったのは、もう何年も前のことだ。
あの頃から御堂の強さは少しも変わってはいなかった。
そして、克哉に向けられる愛情も。
それは寧ろもっと大きく、強く、優しくなって克哉に惜しみなく注がれている。
騙されていたと責められても仕方が無いような自分に、偽りの存在であるはずの自分に、ずっと、ずっと。
それなのに、何も返せないままでいいのだろうか?
御堂がここまで言ってくれているのに、自分は何もしないつもりなのか?
(オレに、出来ること……)
諦めるな。
考えることを止めてはいけない。
本来の佐伯克哉を失ってでも存在したいと思った理由を忘れてはいけない。
どうすればいいのかが分からないのなら、何故こうなったのかを考えろ。
そして、どうなりたいのかを決めろ。
方法はそれから導き出せばいい。
少しずつ、頭の中の靄が晴れていくような気がする。
あの日以来、霞んであやふやになってしまっていた自分の輪郭がもう一度描かれていく。
「孝典さん……本当にいいんですか? こんなオレでも……偽者のオレでも……」
「……たとえ君が偽者だとしても、私にとっては目の前にいる君だけが唯一無二の存在だ」
「孝典さん……」
御堂は克哉を偽者なんかじゃないと言わず、偽者でも構わないと言ってくれた。
応えたい。
この人の深い愛情に。
そして、本当の佐伯克哉の為にも。
「孝典さん……オレ、も……諦めたく、ないです……」
涙が零れないよう、克哉は必死で声を振り絞った。
けれど、あともう少しだけ勇気が欲しいから。
だから身勝手を承知で克哉は頼んだ。
「孝典さん……もう一度、オレのこと……抱き締めてくれますか……?」
御堂は少し驚いたように目を見張り、それからすぐに「ああ」と答えてくれた。
「克哉……」
御堂の手が克哉の身体をそっと抱き寄せる。
その胸に顔を埋めて深く息を吸い込めば、久し振りの御堂の匂いがした。
こんなにも近づくのはどれぐらいぶりだろう。
まだ少し怖いけれど、それでもこの暖かさの中にいると御堂が身体中に満ちていくようで心地いい。
克哉は改めて御堂の背中に手を回してみた。
大丈夫。
御堂はここにいてくれる。
佐伯克哉が偽者だと知りながら、それでもこうして抱き締めてくれる。
克哉の掌がスーツ越しの背中に触れると、御堂の身体がぴくりと反応した。
「克哉……」
「あ、あの、オレ……」
まだきつくしがみつくことは出来なかったけれど、御堂は克哉を誉めるように髪を撫でてくれた。
「克哉……ありがとう」
本当はお礼を言わなければならないのは自分のほうなのに。
けれど今、口を開いたら今度こそ本当に泣いてしまいそうで、克哉はただ首を振ることぐらしか出来なかった。

- To be continued -
2013.10.25

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