exist 07
真っ直ぐ、心の奥底まで射抜くように向けられた御堂の真剣な眼差し。
その瞳を見るだけで御堂がどれほど自分を心配し、大切に想ってくれているのかが分かる。
そして同時に、どれだけ不安を感じているのかも。
自分が御堂を失うことを恐れているのと同じだけ、御堂も自分を失うことを恐れているのだ。
たくさんの言葉と視線を交わし、数え切れないほど肌を重ね、なによりも強く結びついていると幾度も確かめ合ったはずなのに、その不安と恐怖は常に心の何処かで互いを脅かしている。
だからこそ、御堂の想いには常に真正面から応えたい。
そう思っていたはずなのに、今の克哉にはそれがどうしても出来なかった。
酷い罪悪感を抱きながらそっと目を逸らした克哉を、しかし御堂は責めることもなく、克哉の手を取ってソファへと導いてくれる。
克哉がそこに腰を下ろすと、御堂は「何か飲むか」と言いながらキッチンの方へと向かった。
―――いったい何を話せばいいのだろう。
御堂に懇願されるまでもなく、きちんと話をするべきだということは克哉自身も痛いほど感じていた。
澤村と再会してから起きた出来事、突きつけられた事実、自分自身の気持ち。
それらは全て思い出したくない記憶だったり、認めたくないものだったりしたけれど、それでも御堂には伝えなければならないと思っていたし、聞いてほしいとも思っていた。
けれど考えれば考えるほどにそれらは複雑に絡み合い、混在するばかりで、頭の中も心の中もうまく整理がつかなかったのだ。
悩んでいるわけではない。
どう理解して、どう受け止めていいのかが分からない。
これからどうすればいいのかも分からない。
次第に考えること自体に疲弊してしまって、いつしか昔のように何も考えないことで逃げようとしていたのかもしれなかった。
―――そして、いつの間にか消えてしまえればいいのに。
逃げようとしても、もう逃げ場所さえない。
眼鏡を渡してくれる怪しい男にも、本来の佐伯克哉であるもう一人の自分にも既に見放された。
それならば、あとは消えるしかないじゃないか。
自分という存在がこの世に突然現れたものであるなら、突然消えてしまうことも出来るはずだ。
世界をリセットするかのように、初めから無かったのだと思えば。
「……これでいいか?」
掛けられた声にハッとして顔を上げれば、御堂がワインとグラスをテーブルに運んでくれていた。
克哉が頷くと御堂は隣りに腰を下ろし、慣れた手つきで栓を開けてグラスに注いでくれる。
幾度も見てきた御堂のこの仕草が、克哉はとても好きだった。
まるで一流のソムリエのように優雅で、繊細で、美しく様になっている。
やがて真紅の雫がグラスを満たすと、互いにそれを掲げ、口に運んだ。
まろやかな酸味と渋みがゆったりと広がり、喉を通って落ちていく。
「……」
御堂は克哉を急かすことなく、自ら話し始めるのを待ってくれているようだった。
話して解決するようなことだとも思えないけれど、やはり何も言わないわけにはいかないだろう。
とにかく、何か切り出さなければ。
克哉は意を決して息を吸い込み、声を出そうとした。
けれど、結局何も言えずにまた口を閉じてしまう。
怖いのか、諦めているのか、混乱しているのか。
何度かそんなことを繰り返していると、不意に御堂の手が克哉の手の上に重ねられた。
「……克哉。慌てなくていい。纏まりなどなくても、矛盾したことを言ってもいいから、君に起きたことを全て話してさえくれればいいんだ。
どんなことを聞かされても、私は君を嫌ったりしない。だから、安心して話してくれ」
「孝典さん……」
その励ましに、克哉の心がほんの少し緩む。
纏まりなどなくてもいい、と言ってもらえたのが嬉しかったのかもしれない。
ただ「どんなことを聞かされても嫌ったりしない」という言葉は、悲しいことに今の克哉の心には響かなかった。
何故なら今、佐伯克哉を最も嫌っているのは自分自身だったから。
だからたとえ御堂に嫌われなくても、全てを打ち明けたあとには御堂から離れざるを得ないかもしれないと克哉は僅かながら覚悟していた。
覚悟はしていたけれど―――怖かった。
これから自分が何を言い出すのか、何を吐き出してしまうのか。
混乱したままでも話し始めさえすれば、やがては頭の中も整理されて自分がどうしたいのか分かってくるだろう。
そして、それが最終的にどんな結論に行き着くのか。
そのとき御堂をどれだけ傷つけてしまうのか。
怖くて怖くて堪らなかったけれど、ここまでくれば全てを曝け出すしかない。
克哉は少しだけ御堂のほうに身体を向けると、ゆっくりと口を開いた。
「……先月、オレがスーツを汚してしまった相手に呼び出されて、クリーニング代を渡しに行った日がありましたよね?」
「ああ、確か喫茶店でぶつかって……その後、連絡があって店に呼び出されたんだったな」
「はい。実はその相手っていうのが……」
そこから克哉は、自分に起きたことを順番に話していった。
偶然にも、相手が小学校時代の同級生であったこと。
しかも彼は当時、自分の親友のふりをしながらクラスメイトに克哉を虐めるよう裏で指示していた人間だったこと。
そして御堂が出張中、再度彼に呼び出されて会いに行ったことも。
話している間中、御堂は小さく頷きながら黙って聞いてくれていたけれど、その表情は何処か寂しげだった。
どうして「何も無かった」などと嘘をついていたのか、どうしてもっと早く本当のことを言ってくれなかったのかと悲しく感じていたのだろう。
けれど、克哉はこれからもっと御堂を悲しませることになる。
それを話すのはとても辛かったけれど、これ以上御堂を騙すのはもっと嫌だった。
だから克哉は一度だけ大きく深呼吸すると、話を続けた。
「……そのとき澤村に言われたんです。あの頃の君に比べると、今の君はまるで別人みたいだねって」
何をしてもうまくやれた。
何をするにも自信に満ち溢れていた。
いつも人の輪の中心にいて、いつでも笑っていて。
今の自分からは想像もつかない姿。
それが、あの頃の佐伯克哉だ。
「当時はオレ、今とは正反対の性格だったんですよ。それで調子に乗っていたんでしょうね、知らないうちに彼を傷つけていたみたいで……」
「だが、それは逆恨みというものだろう」
「そう……かもしれないですね。でもいいんです、そのことは。もう」
そう、それは既に済んだことだ。
そのこと自体が問題なのではない。
緊張に、克哉の鼓動が速まる。
「……孝典さん。以前、オレがあなたに不思議な眼鏡のことについて相談したの……覚えていますか?」
「眼鏡……?」
突然話が変わったことに戸惑った様子を見せながらも、御堂はそれを思い出そうとしてくれているようだった。
しばらく考えたあと、少し自信なさげに言う。
「そういえば、そんなこともあったような気がするな。妙な男に渡された眼鏡を掛けると、別人になれるとか……」
「そう! それです」
御堂が覚えていてくれたことが嬉しくて、克哉はつい微笑んでしまう。
あれはまだ御堂と恋人になる前、プロトファイバーの仕事をしていたときだ。
あの眼鏡の存在が恐ろしくて、とにかく誰かに話を聞いてほしくて、何故か御堂に相談したいと思ったのだ。
あれだけ酷い目に合わされていたのに、どうしてよりによって御堂だったのだろう。
でも他の誰でもなく、御堂に聞いてほしかった。
そして御堂は、最後まで真剣に聞いてくれた。
自覚は無かったけれど、あのときには既に御堂を信頼しはじめていたのかもしれない。
なんだかとても懐かしくなって、克哉は微笑んだまま言った。
「あのとき孝典さんは、そんなオカルト染みた話は信じないって言いましたけど、あれって本当のことだったんですよ」
仕事に失敗して、落ち込んで、公園でビールを飲んでいたときに現れたMr.Rと名乗る男。
そのとき男から渡された眼鏡によって、克哉の人生は大きく変わったのだ。
眼鏡を掛けたときにだけ現れる、もう一人の自分。
その人格は、それまでの自分よりもあらゆる点において優れていた。
Mr.Rはそれこそが本来の佐伯克哉の姿なのだと言ったけれど、克哉はどうしても眼鏡の力に頼りたくなかった。
眼鏡を掛け続ければ今の自分が消えてしまうに違いないと、何処かで察していたのだろうか。
そしてその葛藤の中で御堂と知り合い、関わっていくうちに、やはりこのままの自分で生きていくと決めたのだ。
眼鏡を掛けていない自分でも、御堂が認めてくれたから。
必要とし、解放してくれたから。
だからもう一人の自分も自分自身であることを受け入れながら、そのうえで頑張っていくつもりだったのに。
「でもそのときオレが拒絶した、もう一人の俺こそが……本来の佐伯克哉だったんです」
卒業式の後、真実を知って落ち込んでいた自分にやはり眼鏡を渡してきた男がいたのだ。
克哉はその眼鏡を握り締めながら祈った。
こんな思いはもう二度としたくない。
誰かに妬まれて、傷つけられたりするぐらいなら、本当の自分なんて隠してしまえばいい。
生き方も、考え方も変えて、誰にも妬まれない、誰も傷つけない自分になりたい。
そうすれば、もう苦しまなくて済む。
今までとは別の自分になれれば……。
「……そうして生まれたのが、オレという人格でした」
言ってしまった。
自分が偽りの存在であることを。
本当の佐伯克哉ではないことを。
御堂を騙していたという罪悪感に苛まれて、克哉は俯く。
「オレは、あの小学校の卒業式の日に生まれました。だからオレには中学に入学する以前の記憶が無かったんです。
オレが生まれたことで、本来の佐伯克哉は長い眠りにつくことになりました。
そして孝典さんに出会う直前、再びあの男が現れてそのもう一人の俺を目覚めさせようとしたんです。
十年以上の時間を掛けてまでMr.Rが何をしたかったのか、オレにはよく分かりません。
でも眼鏡を掛けることをだいぶしつこく勧められましたから、よほどもう一人の俺に目覚めて欲しかったんじゃないかと思います。
だけどオレは、自分が佐伯克哉であることを譲らなかった……」
「克哉……」
御堂の手が、克哉の手を強く握る。
その強さと温もりに泣きたくなりながら、それでも克哉はなんとか言葉を振り絞った。
「だから、孝典さん……。今のオレは、本当の佐伯克哉じゃないんです。偽者なんです……」
「克哉……!」
それまで黙っていた御堂が克哉の肩を掴み、強引に身体を自分に向かせて声を荒げる。
「そうじゃない! 君だって、佐伯克哉だ! 偽者なんかじゃない!」
「孝典さん……」
しかし御堂の必死の叫びにも、克哉は力無く首を振る。
「澤村はオレが本当の佐伯克哉ではないことに気づいていました。オレはこの世界にとって最初からイレギュラーな存在だったんです。どうりで、うまくいかないはずですよね。
誰も傷つけないように、誰とも深く関わらないようにして生きてきたつもりでしたけど、実際は周囲に迷惑ばかり掛けていましたから。
争いごとを避けて、出来るだけ目立たないように他人の顔色を伺って……
感情を殺して、本音を隠して、何もかもから逃げて……」
「克哉……」
「澤村が言ってました。結局、勝ったのは自分だったんだって。オレの人生を変えることが出来たんだから、自分のしたことは無駄じゃなかったんだって。
もしオレが本来の佐伯克哉に戻っていたら、そんな風に言わせなかったのに……なんだかもう一人の俺に申し訳なくて」
「克哉……もう、よせ」
「Mr.Rからも言われたんですよ。所詮、オレはペルソナなんですって。傷つかずに生きていく為の仮面に過ぎなかったそうです。
そんな上辺だけの歪な存在のくせに、強くなれたはずなんて思いあがりもいいとこですよね。
オレがここにいる限り、佐伯克哉は永遠に負け犬のまま……」
「克哉、もう、やめてくれ……!!」
御堂の指が克哉の腕に食い込む。
その痛みは、そのまま御堂の心の痛みだ。
「孝典さん……」
分かっている。
自分を否定すればするほどに、御堂の心をも否定することになると。
唇を噛んでいる御堂の悔しさも、悲しさも、強く掴まれた腕から伝わってくる。
ごめんなさい。
傷つけてごめんなさい。
悲しませてごめんなさい。
誰よりも大切で、誰よりも失いたくない人なのに、オレはどうしてこの人にこんな顔をさせてしまっているのだろう。
自分が不甲斐なくて、情けなくて、殺してしまいたくなる。
けれど、それ以上に―――。
「……でも、オレが何に一番困っているかというと……ここまで自覚しておきながら、それでもまだこの場所に居たいと思っていることなんです」
消えるべきなのに。
偽者なのに。
それでも、この気持ちだけは誤魔化せない。
辿り着く結論など、最初から分かっていたのだ。
涙が零れそうになって、克哉の身体が微かに震える。
「オレ……ここに居たいんです。偽者でも、ペルソナでも、貴方の傍にいたい……。孝典さんのことが好きだから……離れたくない……何処にも行きたくない……!」
「克哉……!」
御堂は克哉をきつく抱き締めた。
克哉もまた御堂の背中に手を回して、きつくしがみつく。
「孝典さん……オレ、ここに居たいです……。偽者なのに、ごめんなさい……。でも、孝典さんのことが好き……大好き……。
ずっと貴方の傍にいたい……孝典さん……」
「克哉……」
溢れ出る感情に泣き声のようになりながら、克哉は幾度も同じ言葉を繰り返す。
その間、御堂はただひたすら克哉を抱き締め、髪を撫でていた。
閉じて、遠ざかろうとしている克哉の心を繋ぎとめる術もなく、今はその苦しみを黙って受け止めるしかないとばかりに。
どれぐらい、そうしていただろう。
全てを吐き出して力が抜けてしまった克哉の耳元で、御堂が言った。
「……専門のところでカウンセリングを受けてみてはどうだ?」
その言葉に、克哉は心の中で「ああ」と嘆息していた。
御堂は何も悪くない。
それが普通の人の反応だ。
至って常識的で、当然の。
もしかするとそれもまた解決へのひとつの方法なのかもしれない。
克哉自身も考えたことがないわけではなかった。
「……ありがとうございます。考えてみます」
御堂にさえ、そんな心にも無い返事が出来るようになってしまった自分に吐き気を催す。
克哉は身体を起こし、御堂の腕の中から離れた。
顔を上げられないことを誤魔化すため、乱れた前髪に手をやる。
「今、私に出来ることはあるか?」
問い掛けに、克哉は躊躇いながらも答えた。
「すみません……今夜からオレは、このソファで寝かせてください」
克哉の申し出に御堂は一瞬目を見張ったが、全てを飲み込んで頷いた。
「……分かった」
御堂がリビングを出ていく。
その背中を、克哉は決して見ようとしなかった。
- To be continued -
2013.09.06
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