Classical

exist 05

気がつけば、真っ暗な何処かに立っていた。
意識はぼんやりとしていたけれど、自分が夢を見ているんだなということだけは分かった。
だって、あの甘酸っぱい濃厚な果実の香りがしない。
不思議になって辺りを見回してみたけれど、何も無いし、誰もいなかった。
けれどそこは完全な闇ではなく、完全な孤独でもなかった。
何故なら、確かに誰かがいる気配がするからだ。
なあ、本当はそこにいるんだろう?
姿を見せてくれよ。
恐る恐る片方の足を踏み出すと、地面がぐにゃりと歪んで沈み込む。
バランスを崩して転びそうになるのをなんとか耐えて、反対側の足を踏み出す。
それを幾度も繰り返したけれど、自分が前に進んでいるのか、それともその場で足踏みしているだけなのかどうかさえはっきりとしない。
いったいこの地面はどうなっているのかと足元に目を凝らしてみるけれど、そこにあるのはただの闇。
もう一度顔を上げて、辺りを見回す。
なあ、もういいだろう?
どうして姿を見せてくれないんだ。
早くオレの前に出てきてくれよ。
お前に話したいことがあるんだ。
オレは、お前に―――。
『……誰をお探しですか?』
突然、何処からともなく暗闇に声が響いた。
気怠るそうに間延びした、聞き覚えのある男の声だ。
『また、あの方を探していらっしゃるんですね』
そう、オレはあいつを探している。
だって、そうだろう。
それしかないじゃないか。
きっとあいつなら教えてくれる。
オレがどうすればいいのかを。
『……狡い方ですね』
男がククッと笑う。
『あなたが―――拒絶したのではありませんか』
その言葉に、オレは凍りついた。
嘘だ。
オレは拒絶なんかしていない。
ただ、オレはオレでいたかったから。
あいつをもう一人の自分として認めて、受け入れて、そのうえで支配していこうと思ったんだ。
支配―――。
あいつが表に出てこないように?
あいつに佐伯克哉を取り返されてしまわないように?
違う。
オレはあいつを拒絶したわけじゃない。
ただ眼鏡を掛けるまいとしただけだ。
それだけだ。
『拒んでおきながら、辛くなれば頼ろうとする。本当にあなたは弱くて、卑怯者ですね』
妙に嬉しそうな声で、オレを詰る。
そうだ、オレは卑怯者。
オレは弱い。
そんなこと、言われなくても分かっている。
『何度も申し上げたではありませんか。所詮、あなたはペルソナなのですよ』
ペルソナ。
うまく生きていく為に産み出された仮面。
周囲に合わせて。
本心を隠して。
決して目立たぬように。
『……もう、あの方はいらっしゃいませんよ』
嘘だ。
『あなたが消してしまわれたのではありませんか』
嘘だ。
消してなんかない。
『本来のあなたはもういらっしゃいません。強く、揺るがず、人々の上に立つべき存在であったはずの我が王は』
嘘だ。
『今、存在しているのは弱くて卑怯で虚ろなあなただけ』
嘘だ。
『さあ、あなたはこれからどうやって生きていかれるのでしょうね。私はここで見物させて頂くことにしましょう』
嘘だ。
あいつがいないなんて。
絶対に、嘘だ。
『それでは、さようなら。……偽りの佐伯克哉さん』
嘘だ―――。

闇の中に沈んでいきそうになったところで、誰かがオレを救い上げてくれた。

「……克哉。克哉!」
肩を揺さぶられて目が覚める。
部屋には明るい陽が差し込んでいて、その眩しさに克哉は思わず顔を顰めた。
「……孝典、さん……?」
すぐ目の前に御堂の顔があって克哉は混乱する。
それから少しして漸く事態を把握した克哉は、驚いてベッドから飛び起きた。
「孝典さん……! あっ、あれっ? すみません、オレ……!」
「何度連絡をしても返事がないから心配したぞ。それなのに急いで帰ってみれば、ただ眠っていただけとは……」
そう言いながら克哉を覗き込んでいる御堂の表情は、呆れ半分安堵半分といったところだ。
今日の昼には御堂が大阪出張から戻ると分かっていたはずなのに、すっかり寝過ごしてしまったらしい。
スーツ姿の御堂に対して、だらしなくパジャマを着たままの自分がとてつもなく恥ずかしかった。
枕元に置いてある携帯電話は着信を知らせるランプを点滅させている。
「すみません、オレ、迎えに行くつもりだったのに……」
「そんなことは別にいい。それよりも、何もなくて良かった」
御堂が心から自分を心配してくれていたことが伝わってくる。
克哉は申し訳なさと嬉しさとが入り混じって、泣きそうな顔で笑った。
「心配掛けてごめんなさい。それから、孝典さん……おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
落ち着いたところで、ようやく二人はキスを交わす。
触れ合えなかったこの数日分を取り戻すかのように、長く深いキスは続いた。
「……そんなに、眠れなかったのか?」
抱き締められた腕の中で克哉は頷く。
もともと寝付きの悪い克哉だったが、御堂に寝かしつけてもらえるようになってからはそれもだいぶ改善されていた。
しかしその代わりに一人で眠らなければならない夜は、前以上になかなか寝付けなくなってしまったのだ。
ただ昨夜あまり眠れなかったのは、それだけの理由ではなかったのだけれど。
「私が寝室に入ったとき、君はうなされていたようだったが……悪い夢でも見たのか」
「夢……」
そういえば、夢を見ていた気がする。
とても、とても辛い夢を。
「……!」
そのとき、克哉はさっきまで自分がどんな夢を見ていたのか思い出した。
真っ暗な場所。
誰かを懸命に探していた。
けれど、その人はいなくて。
―――さようなら……偽りの佐伯克哉さん。
声の主を思い出す。
黒い帽子に、黒いコート、黒い手袋をした眼鏡の男だ。
あの声は、確かに。
「……克哉?」
「あ……」
ぼうっとしていた克哉を御堂が訝しげに見る。
克哉と視線が合うと、御堂はゆっくりと克哉をベッドに押し倒した。
暖かな重みが覆い被さり、首筋に顔を埋められると克哉の身体は小さく震える。
「孝典、さん……っ……」
「本当に心配したぞ。早く君に会いたくて堪らなかった……」
「孝典さん……」
首筋に、耳朶に、頬に、幾度もくちづけられる。
いつもならば素直に、悦んでその愛撫を受け入れていただろう。
けれど、克哉の脳裏に再びあの声が響き渡る。
―――偽りの、佐伯克哉さん。
その途端、言い知れぬ恐怖が克哉を襲った。
怖い。
自分が偽りの存在ならば、今、御堂が触れているのは誰なのだろう。
御堂が求めているのは誰なのだろう。
御堂に抱かれようとしているのは誰なのだろう。
本当の佐伯克哉は―――何処?
「孝典さん……!」
気がついたときには、克哉は必死に御堂の身体を押し返していた。
突き放された御堂は呆然としている。
「克哉……?」
「あ、あの、すみません……オレ……」
「……やはり様子がおかしいな。何かあったのだろう?」
「いえ、何も……えっと、オレ、着替えてきますね! 顔も洗ってないし」
「克哉……」
明らかに戸惑っている御堂を尻目に、克哉はベッドから飛び降りると逃げるようにして寝室を出て行ってしまう。
そのまま洗面所に飛び込んだ克哉は、鏡に映った自分の顔をじっと見つめた。
(オレが……偽者……?)
自分が眼鏡を掛けることを拒んだ所為で、もう一人の俺は消えてしまったのか?
あいつこそが、本来の佐伯克哉だったのに?
残ったのは、後から生まれた偽者だけ。
まんまと佐伯克哉を乗っ取った、卑怯者の自分。
「違う……っ!」
そうじゃない。
オレだって佐伯克哉だ。
だから、ここにいていいはず。
ここに。
御堂の傍に。
(孝典さん……)
さっきの御堂の顔を思い出すと胸が痛む。
あんなことをしてしまって、きっとさぞかし不審に思っているだろう。
けれど、こんな気持ちのままで御堂に抱かれることはできない。
だからといって、どうすればいいのかも分からない。
克哉は蛇口から勢いよく水を出すと、何度も顔を洗った。
これで偽りの佐伯克哉という仮面が、きれいさっぱり流れてしまえばいいのにと思いながら。



その後、御堂は克哉に何も問い質してはこなかった。
決して短くはないつきあいの中で、こういうときの克哉にあれやこれや問い詰めても逆効果にしかならないことを学んだからだろう。
何も聞かずにそっとしておいてくれる御堂の心遣いが、克哉にはとても有難かった。
けれど、それも夜が近づくにつれて居た堪れなさへと変わっていく。
ベッドの中でまた御堂に触れられたとき、どうなってしまうのか自分でも分からなかった。
もしも再び受け入れることが出来なかったなら、きっと彼を傷つけてしまうことだろう。
いつもならば二晩も離れていたのだから、すぐにでも抱かれたいはずなのに今はそのときがたまらなく怖かった。
夕飯を外で済ませ、マンションに戻ってからはシャワーさえも不自然な言い訳をして別々に入る。
それからいつものように、二人してベッドに潜り込んだ。
互いに向かい合っているとすぐに御堂が克哉の頬に触れてきて、そのまま唇を重ねる。
「んっ……」
嬉しい。
幸せだ。
御堂の掌は克哉の頬を撫で、やがて首筋から胸元へと下りていく。
指先はパジャマの生地越しに克哉の胸の尖りを探り当て、そこを引っ掻くように弄んだ。
けれど―――。
身体が熱くならない。
心と肉体が乖離してしまったように、御堂に触れられた場所は冷たく醒めたままだった。
「……克哉?」
そんな克哉の反応に御堂が気づかないはずがなかった。
心配そうに見つめてくる瞳に克哉は答えられず、思わず目を逸らす。
「す、すみません……。実は、ちょっと頭が痛くて……」
「……そうだったのか。いつからだ?」
「え、っと……昼から……」
「昼からずっとか? 何故、黙っていた。待っていろ、今薬を……」
そのままベッドから出ていこうとする御堂を克哉は引き留める。
「だ、大丈夫です! 多分、寝不足なんだと思います」
「本当に、それだけか?」
「はい……」
咄嗟についた嘘だった。
きっと御堂にはすぐに見破られてしまうだろう。
そう覚悟していたのに。
「……仕方が無いな」
御堂は呟いて、克哉をぎゅっと抱き締めた。
「実は、私もだ。昨夜はあまり眠れなかった」
「孝典さんも……?」
「ああ。君がいない寂しさと、明日になれば君に会えるという嬉しさとで気持ちが高ぶっていたのかもしれないな。情けない話だ」
「孝典さん……」
それが真実であろうとなかろうと、御堂の真っ直ぐな愛情がとても嬉しい。
嬉しくて、嬉しくて、涙が出そうになった。
だからこそ罪悪感は一層強くなる。
こんなにも想ってくれているのに、こんなにも大切にされているのに、どうして応えられないのだろう。
それはやはり自分が偽者の存在だから―――。
御堂の愛情を受ける器さえ持たない、虚ろな仮面だから。
「今夜はゆっくり眠るとしよう」
「はい……ごめんなさい、孝典さん」
「謝ることはない」
御堂の腕の中で克哉は目を閉じる。
その場凌ぎでしかないこんな嘘がいつまでも通用するはずもなかった。
自分の存在も、言葉も、全てが嘘ばかりだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
それはきっと澤村の所為ではない。
何もかも自分の所為なのだ。
(ごめんなさい……ごめんなさい、孝典さん……)
心の中で何度も御堂に謝りながら、克哉は唇を噛みしめた。

- To be continued -
2013.07.10

←前話     →次話



←Back

Page Top