Classical

exist 04

金曜日の夜。
この間と同じ時刻、同じ店の前に克哉は立っていた。
(会いたくないな……)
馬鹿正直に約束を守らずとも、澤村の言うことなど無視してしまえば良かったのだ。
どうせ会っても不愉快になるだけだと分かっているのに、どうしてのこのことこんなところまで来てしまったのだろう。
憂鬱な気分で溜息を吐いたとき、ふと昔のことを思い出した。
御堂に<接待>を要求され、指定されたホテルの部屋に向かわなければならなかった、あのとき―――。
あのときもホテルの前まで来ておきながら、こんな風に沈んだ気持ちになって一歩も動けなくなっていたっけ。
これから起きるであろうことが恐ろしくて、考えたくなくて、すぐにでも逃げ出したくて。
それほど恐怖、嫌悪していた相手と今では一緒に暮らしているのだから人生とはまったく分からないものだと思う。
(孝典さん……)
克哉は御堂の顔を思い浮かべて少しだけ笑った。
きっと、あのとき御堂は既に見抜いていたのだろう。
克哉が自信の無さを言い訳にして自分自身を誤魔化し、全てから逃げよう逃げようとしていたことを。
だからこそ常に努力し、責任を負うことを恐れず戦っていた御堂にとって、そんな克哉の姿は苛立ちと軽蔑の対象でしか無かったのだ。
けれど、もうあの頃とは違う。
自分は御堂に出会って変わった。
少しは強くなったと思うし、自信もついたつもりだ。
だから、大丈夫。
本当は克哉も分かっていたのだ。
澤村と向き合うことは過去の自分と向き合うこと。
だからこそ逃げられないし、逃げてはいけない。
(……よし)
克哉は自分を奮い立たせて、ようやく店のドアに手を掛けた。
店内はあの日と同じように薄暗く、静かな音楽が流れている。
店員に案内されて奥へ向かうと、やはりあの日と同じ席に澤村がいた。
克哉の姿を見つけると薄く笑いながら手を挙げる仕草も同じで、そんな澤村を見た途端、せっかく薄れていたあの日の記憶がまざまざと蘇ってきてしまう。
思わず顔を顰めそうになるのを堪えて、克哉は澤村の向かいの席にゆっくりと腰を下ろした。
「やあ。悪かったね、無理に呼び出したりして」
「いや……」
軽い口調での第一声にどうしようもない嫌悪感が湧いてくる。
敢えて自ら「無理に」と表現することで、こちらを牽制しているのが見え見えだった。
早くも帰りたくなっている克哉に、澤村は無邪気を装うように微笑みかけてくる。
「イタリアワインは好き? バローロなんだけど」
言いながらボトルを傾けてくるので、仕方なく克哉もグラスを持った。
克哉はそのラベルに目を走らせると何の気なしに呟く。
「フォンタナ・フレッダだね。柔らかくて、好きな味だよ」
「へぇ……。それは良かった」
克哉の返事に、澤村は皮肉っぽく口角を吊り上げる。
もしかして何か余計なことを口走ってしまっただろうかと不安になったが、どうせもうこれきり会うこともないのだからと開き直った。
そして澤村はまたしても乾杯を強要するのだった。
「それじゃあ、今日は……僕達の決着を祝って乾杯しようか」
「決着……?」
「そう。決着」
その言葉に、胸の内がざわつく。
いったいなんの決着なのだろうか。
澤村の思惑は分からなかったけれど、しかしその言葉は今夜の互いに酷く相応しい気もする。
二人はグラスを軽く掲げ、それから口に運んだ。
本当に決着がつくのならば、その覚悟は出来ているつもりだ。
しかし緊張に顔を強張らせた克哉には、喉を通っていった真紅の液体の味はまったく分からなかった。
「……ところで」
短い沈黙の後、先に口火をきったのは澤村のほうだった。
表情は穏やかなものの、眼鏡の奥の瞳は笑っていない。
思わず身構える克哉に澤村は言った。
「克哉くんって、最初からMGNにいたわけじゃなくて子会社から引き抜かれたんだってね。あのヒット商品のプロトファイバーに関わっていたって聞いたよ。凄いじゃない」
上っ面の誉め言葉の裏に何処か侮蔑の匂いを感じ取って、克哉は素っ気無く答える。
「別に凄くはないけど……その通りだよ」
それが何?と続けようとして、やめる。
無駄に喧嘩腰になるのは相手の思うツボのような気がしたからだ。
しかし克哉が明らかに警戒していると澤村はすぐに察したのだろう、笑いながら話を続けた。
「ああ、ごめん。すぐにいろいろと調べたくなるのは職業病みたいなものだから許してよ」
「……」
そういえば澤村から貰った名刺には『クリスタルトラスト調査部』とあった。
クリスタルトラストは企業の買収や売却によって利益を得るタイプのヘッジファンドだ。
経営に関与することはあまり無いが、その強引な手法から業界内での評判はあまり良くない。
しかしそんな会社の調査部に所属している澤村にとっては、克哉の経歴を調べることなど朝飯前なのだろう。
だから克哉が本社への赴任を控えていることも知っていたのだ。
勝手にあれこれ調べられていたこと自体は不愉快だったが、別に知られて後ろめたいことがあるわけでもない。
克哉が黙っていると、澤村はわざとらしく声を潜めてきた。
「けど、それならどうして始めからMGNに入らなかったんだい?  だって前の会社……キクチ・マーケティングだっけ? たいした会社じゃないよね? しかも君はそこのお荷物部署の所属だったらしいじゃないか。 営業成績も良くなかったみたいだし……なんだか僕の知っている君のイメージと合わなかったからさ」
「それは……」
それは確かに事実だった。
しかし、だからといってこの男に馬鹿にされる筋合いは無い。
勝手なことばかり言う澤村に腹が立ってきて、克哉は黙り込んだ。
けれど澤村は相変わらず笑みを浮かべ続けている。
「……まあ、僕の知っている君といっても十年以上前の話だからね。 あの頃の君は、特に努力している様子もないのに勉強でも運動でも常に一番で、いつもクラスの輪の中心にいて……思い出すなあ」
そうだ。
本来の佐伯克哉はそういう人間だった。
けれど、それを壊したのはお前じゃないか。
オレをイジメさせ、孤立させ、自分だけを信用させて、最後の最後で裏切ったんだ。
克哉の中の、もう一人の克哉にとっての記憶が蘇る。
しかしそれはいつもの遠い感覚ではなく、まるで自分自身の持つ記憶のように感じられた。
同時に怒りとも憎しみともつかない感情が湧き起こって、克哉はその情動に戸惑う。
もう止めろ。
思い出させないでくれ。
そう感じると同時に、目を逸らしてはいけないとも思う。
受け止めなければいけない。
自らの記憶として、経験として、澤村のことを。
そうでなければ自分は佐伯克哉でいられなくなる。
これからも佐伯克哉として御堂の傍にいるためには乗り越えなければならないのだ。
そのときふと、過去に思いを馳せていたらしい澤村の笑みが消えた。
そして眼鏡の奥の瞳が、何かを射抜くように克哉に向けられる。
「でも、今の君……あの頃とは別人みたいだよね」
「……!」
別人―――。
そう言われて、克哉の心臓が大きく跳ねた。
見抜かれてしまった。
知られてしまった。
そう悟った途端、克哉の中で何かがガラガラと音を立てて崩れていく。
冷たい汗が、背中を一筋流れていった。
(孝典さん―――!)
視界がぐにゃりと歪んで、克哉は思わず心の中で御堂に助けを求めた。
今にも吐いてしまいそうな不快感に耐えてきつく唇を噛み締めた克哉に、澤村は更に追い討ちをかける。
「だから名刺を見たときも、同姓同名の別人かと思ったんだ。 けど、調べてみたらやっぱりあの克哉くんで……それにしてはなんだかおとなしいし、こう言ったら悪いけど、どうも冴えない雰囲気だし。 どうしちゃったのかなあと思って」
嫌だ。
黙れ。
それ以上、聞きたくない。
耳を塞いで、ここから逃げ出してしまいたい。
孝典さん。
孝典さん、オレに力をください。
しかし、その願いは届かない。
澤村は身を乗り出すと、探るようにこちらの目を覗き込みながら言った。
「……ねぇ。もしかして、それって……僕の所為だったりするのかな?」
「……ッ!」
克哉は息を飲んだ。
咄嗟に返す言葉が見つからず目を見開いて絶句した克哉に、澤村はとうとう堪えきれないように笑い出す。
「は……あはは……。やっぱり、そうなんだ? 僕に裏切られたことがそんなにショックだったんだ? 性格が変わるぐらい? 人生が変わっちゃうぐらい? そうだったんだ! へぇ! 可哀想に!」
「ち、が……」
違う。
そう言いたいのに、言えない。
何故ならそれは事実だったからだ。
確かに澤村からの裏切りは佐伯克哉という人間を大きく変えてしまった。
自分というもう一人の佐伯克哉が生まれたのは、その所為なのだ。
そして今、とうとう澤村にそれを知られてしまった。
いまここにいる佐伯克哉が、あの頃の佐伯克哉とは別人だということを。
澤村は肩を揺らし、心から愉快そうに笑い続けている。
それから清々したと言わんばかりに胸を張った。
「ああ、良かった。僕のしたことは無駄じゃなかったんだね。結局、勝ったのは僕だったんだ。今日はそれを確認したかったんだよ。僕は君のそんな顔がずっと見たかったんだからね」
「……」
これが彼にとっての決着の意味だったのか。
克哉はただ黙って澤村の勝手な勝利宣言を聞いていた。
何を言えば良かったのだろう。
そのときの克哉に何が言えただろう。
澤村は笑いすぎてすっかり喉が渇いてしまったのか、グラスの中のワインを飲み干す。
「ごめんよ、笑ってしまって。でも、君も巻き返してきてるみたいで良かったじゃないか。 今の上司に随分と気に入られて、それで引き抜いてもらったんだって? ワイン好きの上司らしいね。……男同士でも、玉の輿っていうのかな?」
「……っ」
ざあっと血の気が引く音が聞こえたような気がした。
職歴だけじゃない、澤村は何もかも知っているのだ。
冷たい汗が噴き出し、身体が震えだす。
けれど歪んでいた視界はいつの間にか正常さを取り戻し、吐き気も退いていた。
その代わり、腹の底からふつふつと怒りが湧いてくるのを感じる。
克哉はきっぱりと顔を上げた。
自分のことだけならば許せたかもしれないけれど、御堂のことを揶揄されては黙っていられない。
克哉はこの日初めて明らかな敵意をもって、澤村を真正面から睨みつけた。
「……そうだね。君に裏切られて、オレは確かに変わったよ」
「……」
その表情と声にただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、澤村もまた瞳に冷たい光を宿す。
しかし克哉は少しも怯まなかった。
(孝典さん―――)
御堂を守らなければいけない。
その一心から言葉が溢れ、流れ出す。
「でも、そのおかげで傲慢で人の痛みも分からないような人間にならずに済んだんだから、オレは君に感謝しているよ。 それよりも君がずっとそうやって自分とオレを比較して生きてきたのなら、君のほうがよほど可哀想だと思うな。さぞかし辛かっただろう?」
「なっ……!」
澤村の感情が剥き出しになるのを見たのは、そのときが再会してから初めてのことだった。
怒りを露わにする澤村に克哉は無情に畳みかける。
「誰かに勝つことでしか自分の価値を認められない……それが君にとっての決着なら、それでもいい。 だけど、オレはそうじゃないんだ。君のプライドを保つ為に、オレやオレの周りの人を巻き込まないでくれ」
「く……俺は……」
何かを言い返そうとする澤村を遮って、克哉は音を立てて席を立つ。
そうして財布から適当に金を取り出すと、目の前のテーブルに叩きつけた。
「―――もう二度と連絡してこないでくれ」
捨て台詞と澤村をその場に残して、克哉は足早に店を後にした。



何も言い返すべきではなかったのかもしれない。
マンションに戻った克哉は酷く後悔していた。
あの卒業式の日、傷つけられたのは克哉のほうだったはずなのに、澤村のほうが辛そうな顔をしていたことを思い出す。
彼のことを許せたと思っていた。
乗り越えられると思っていた。
それなのに、何故あんな風に再び傷つけあうことになってしまったのだろう。
澤村もまた自分を裏切ったことがずっと引っ掛かっていたからこそ、再会したことでその気持ちが蘇ってしまったのか。
せめて澤村が御堂のことを持ち出してさえこなければ―――。
克哉は唇を噛む。
あの瞬間、気持ちの制御がまったく効かなくなってしまった。
あれほどまでに攻撃的な言葉を口にするつもりなどなかったというのに。
しかし澤村と別れてしばらく経った今でも、怒りや憎しみ、悔しさといった感情が渦巻いて体の震えが止まらない。
負の感情を持て余した克哉は、一人でマンションのバルコニーに立った。
眼下には眩いほどの美しい夜景が広がっている。
爽やかな初夏の夜風が頬を撫でていくも、気持ちは晴れなかった。
(孝典さん……)
御堂に連絡をしてみようかと思ったものの、確か今夜は懇親会があると聞いている。
邪魔になってはいけないからと克哉は取りかけた携帯電話をポケットに再び仕舞った。
そこで克哉は気づく。
大好きなこの夜景さえ、自分が自分の力で手に入れたものではないことに。
ここから見えるこの美しい光景は、御堂が努力して手に入れたものだ。
自分はそんな御堂の人生に便乗しているだけ。
そう思い始めてしまえば止まらなかった。
少しは強くなったつもりでいたけれど、それは本当に自分自身の強さだったのだろうか?
強い御堂の傍にいることで、自分まで強くなったように錯覚しただけではなかったのだろうか?
そもそも自分という存在はなんなのだろう。
澤村の裏切りに傷つき、逃げたことで産まれたのが自分ならば、自分は佐伯克哉という人間の持つ弱さの象徴だ。
本当にあの過去を乗り越え、強くなれたのなら、そのとき自分の存在は消えるのが筋だと思う。
そこでようやく佐伯克哉は、本来の佐伯克哉に戻れるのだ。
「オレは……いらない……?」
悔しいけれど澤村の言うとおりだった。
佐伯克哉は負けたのだ。
自分がここにいる限り、佐伯克哉は変わっていないという証拠にしかならない。
けれど―――それでは、御堂はどうなる?
今の自分を否定することは御堂の気持ちをも否定することになる。
けれど御堂が必要としてくれている今の自分は、ただの紛い物なのだ。
それではまるで御堂を騙しているようではないか。
「孝典さん……」
違う。
そんなことはない。
御堂はきっと今のオレが必要なのだと言ってくれる。
オレが佐伯克哉のままでいていいのだと言ってくれる。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
相反する想いが出口を失って暴れ回る。
苦しくて、苦しくて、克哉は幾度も御堂の名前を呟いた。
「孝典さん……」
しかしどれだけ呼んでも、答えてくれる人はいない。
克哉はきつく目を閉じ、この夜が早く終わってくれることだけを願っていた。

- To be continued -
2013.06.19

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