Classical

exist 03

仕事帰り、久し振りにジムで汗を流した後の心地好い疲労感のせいもあって、助手席にいた克哉は少しぼんやりしたまま御堂に聞き返した。
「出張……ですか?」
「ああ。今度の部長会は大阪だからな。言ってあったはずだが……まさか、忘れていたのか?」
「い、いえ。忘れていたわけじゃ……。そういえば、そうでしたよね」
そうだった。
もう随分前に聞いていたはずなのに、御堂の言うとおりすっかり忘れていた。
慌てて取り繕う克哉に、運転席の御堂はハンドルをきりながら苦笑する。
「どうも今日の君はおかしいな。さっきのスカッシュでも、私にストレート負けするなんて始めたばかりの頃以来じゃないか?」
「すみません……」
「別に謝る必要は無いが……。もしや、赴任の件で何か言われたのか?」
「いえ! そんなことは」
御堂が心配するのも無理はない。
今朝、九月からの本社赴任の件で正式に辞令が出たのだが、それで1室内はちょっとした騒ぎになってしまったのだ。
半年で戻ってくると言っているのに藤田は寂しいを連呼するし、原田は盛大に激励会をやろうと言い出すし、野見山は不機嫌になるしで、あまり大袈裟にしてほしくなかった克哉はとにかく皆を宥めるのに必死だった。
へたに騒げば余計な反感を買うことになると、御堂も克哉もよく分かっていたからだ。
しかしその後も赴任を知ったらしい他部署の人達から何度か声を掛けられはしたが、それらは御堂が危惧するようなものではなく、有難いことに暖かい言葉ばかりだった。
もちろん面白くないと思っている者もいるだろうけれど、それは仕方が無いこと。
克哉は御堂を安心させたくて、少しだけ笑ってみせた。
「本当に大丈夫ですよ。ちょっとぼうっとしてしまっていただけで」
「そうか。それなら、いい。私は木曜の朝に出て、土曜の昼には戻る予定だ。週末は二人でゆっくり過ごそう」
「はい、そうですね……」
浮かべたばかりの笑みを貼り付けたまま、克哉は不安をなんとか心の奥に閉じ込めようとする。
それでも上着のポケットに入っている携帯電話がやけに重く感じられるのは、その中に澤村からのメッセージが届いているのを知っているからだった。
澤村と十数年ぶりの再会を果たしたのが先週のこと。
実を言うとあの日のことについては、もうあまりよく覚えていない。
思い出したくないという意識が働いているのか日に日に記憶が薄れていくようで、そのうちに思い出そうとすること自体が怖くなってしまったのだ。
ただどうやら澤村に連絡先を交換しようと言われて拒むことが出来なかったらしく、アドレス帳には彼の電話番号とメールアドレスがしっかり登録されていた。
それがあの日のことは夢ではなかったんだと教えてくれる確かな証拠となると同時に、何かに捕らわれてしまったような息苦しい感覚となって克哉を苛んでいた。
そして今日、ちょうど会社を出たところで澤村からのメールが届いた。
書かれていたのは久し振りに会えて嬉しかっただの楽しかっただのという白々しい常套句と、あろうことか再びの誘い。
―――金曜日の夜、同じ店で。
返事はまだしていなかったけれど、心は全力で彼を拒絶していた。
行きたくない。
二度と会いたくない。
けれど、絶対に逃げられない気もする。
どうしてそんな風に思うのかは分からないが、なんにせよ彼に会えばまた不安定になってしまうのは目に見えていた。
澤村との細かいやりとりは忘れてしまった今でも、あのときに感じた自分の存在そのものがあやふやになっていくような恐怖は克哉の中にしっかりと残っている。
(やっぱり、会わないほうがいい……)
その日、御堂がいないのなら尚更だ。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、克哉は決意を固めていた。



木曜日の朝早く、予定通りに御堂は大阪へと発った。
今日から二晩、克哉はあのマンションで一人で過ごすことになる。
互いに出張で留守にすることはたびたびあったし、その中でも今回は短い日程なのだからたいしたことではないと頭では分かっている。
けれど今夜ばかりは仕事が終わってからもどうしてもまっすぐ家に帰りたくなくて、克哉は藤田を飲みに誘うことにした。
結果的に藤田が他にも声を掛けてくれたおかげで数人で飲みに行くことになり、多少の気を紛らわせることは出来たように思う。
それでもひとりマンションに戻り、誰もいない真っ暗な部屋に向かって「ただいま」と呟くと急激に寂しさが押し寄せてきた。
九月から半年の間はこの寂しさが続くのかと思うと、どうしようもなく苦しくなる。
自分はもちろん、御堂も同じ寂しさを味わうのだと思うともっとたまらない。
「おかえり」の言葉も、キスも交わせないのがどれほど辛いことか。
リビングの灯りをつけてからも克哉はそんなことを考えながらしばらくぼんやりと立ち尽くしていたが、ふとポケットの中の携帯電話が震えているのを感じて我に返った。
咄嗟に御堂からかと思い手に取ってみたが、そこに表示されていたのはよりによって今一番見たくない名前だった。
(澤村……)
連絡が来るかもしれないとは思っていた。
何故なら、例の誘いに対する返事をまだしていなかったからだ。
そのことを忘れたくて、一人になりたくなくて、だからこそわざわざ遅く帰宅したというのに。
もう僅かなやり取りすらしたくなかったから、返事をしないのが返事だと思って諦めてほしかった。
けれど、彼はそう簡単に引き下がるような人間ではないだろう。
いっそ着信を拒否してしまうことも考えたけれど、そうしたら彼はまた会社に連絡をしてくるに決まっている。
そんなことになればいつかは御堂の耳に入ってしまうかもしれない。
それだけは避けたかった。
(やっぱり逃げられないのか……)
克哉はうんざりしながら手の中で震え続けるそれの画面に触れ、耳に当てた。
『……やあ。なかなか出ないから無視されてるのかと思ったよ』
軽薄そうな声が聞こえてきて、克哉はこっそりと溜息をつく。
「……ごめん。今、帰ってきたばかりだったから」
『そうなんだ。遅かったんだね、お疲れ様。残業? ああ、飲んできたの?』
「まぁ、そんなとこかな」
別に人が何をして何時に帰ってこようと関係ないじゃないか。
そんなことまで話したくない。
克哉は曖昧に言葉を濁しながら、苛立つ気持ちをなんとか抑えようとする。
けれど澤村はそんな克哉の気持ちにはお構いなしに話を続けた。
『この間メールしたんだけど……見てくれたよね? 返事が無いから電話したんだよ』
「ごめん、ちょっと忙しくて」
『そうだろうね。別にいいよ。それで? 明日の夜、大丈夫だろう?』
まるで克哉は絶対に断らないはずと確信しているかのような口調で澤村は尋ねてくる。
克哉は少したじろぎながらも、きっぱりと言いきった。
「悪いけど、無理なんだ」
『そうなの? どうして?』
「忙しいんだ、だから」
『じゃあ、他の日なら大丈夫?』
「……しばらく忙しいのが続くから」
やはり澤村は簡単には引き下がらない。
それでも強引に突っぱねてしまえばなんとかなるだろうと思っていた克哉は、次の瞬間に耳を疑うことになる。
『へえ、そんなに忙しいんだ……。それは、シカゴの本社に行く準備があるから?』
「―――!」
さらりと言われて、戦慄が走る。
何故、澤村がそんなことを知っているのだろう。
克哉が絶句していると、電話の向こうの澤村が喉の奥で笑った。
『どうしたの? 大丈夫かい?』
「なんで……どうして、そのことを……」
『知ってるのかって? 別にそこまで驚くことじゃないだろ。情報なんて意外と簡単に漏れるものだよ』
「……」
『ねぇ、克哉くん』
声が出ない。
この男はいったい何がしたいのだろう。
何をするつもりなのだろう。
澤村が囁く。
『……本当は僕に会いたくないんだろう? やっぱり僕がまだ許せないんだ?』
「そういうわけじゃ……」
『僕はちゃんと謝ったのになあ』
「だから、そういうことじゃないんだ」
今、君が話しているのは佐伯克哉じゃない。
―――違う、オレは佐伯克哉だ。
でも、君の友達だった佐伯克哉じゃないんだ。
―――オレじゃない、もう一人の俺。
しかしそんなことを澤村に言えるはずがない。
自分で自分を否定しているうちに、また足元がぐらつくような感覚に襲われる。
違う。
違わない。
混乱していく意識の中、澤村の言葉だけが耳に届く。
『もしかして……僕のことが怖い?』
「違う……!」
克哉は思わず声を荒らげた。
怖い。
怖くなんかない。
本当は怖くて怖くて堪らなかった。
心の奥の一番触れられたくない場所に踏み込まれそうな恐怖。
そこを荒らされれば自分が自分でいられなくなるかもしれない。
克哉はきつく目を閉じ、乾いた唇を舐めた。
(孝典さん……)
助けを求めるように、御堂の顔を思い浮かべる。
とても大切な人。
自分の知らない自分までも見つけだし、愛してくれる人。
どんなときも、何があっても、傍にいてくれる人。
だから、大丈夫。
オレは大丈夫なはずだ。
克哉は深く息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出す。
鼓動は次第に穏やかさを取り戻し、克哉は目を開いた。
「澤村、オレは」
『じゃあ、いいよ』
「……?」
しばらく黙っていた澤村は克哉の言葉を遮って、投げ遣りな調子で言った。
『そんなに嫌なら、これを最後にしてあげるよ。僕さ、どうしても君に会って直接確かめたいことがあるんだよね。 それさえ確かめられれば、もう連絡はしない。……する必要も無くなると思うからさ』
「最後……」
どういうことだろう。
澤村の突然の譲歩に克哉は戸惑う。
彼の言うことなど到底信じられなかったけれど、騙されているのだとしても今はそれにすがってしまいたい心境だった。
本当にこれで終わりにしてくれれば、澤村に接触することさえなくなれば、きっとまた今までどおりの平和な日々が送れるはず。
そうしたらもう過去の自分に存在を脅かされることもなくなるだろう。
最後に、もう一度だけ我慢すれば。
もう一度だけ信じてみれば。
『―――どうする? 克哉くん』
澤村が決断を迫る。
「……分かったよ」
克哉がようやく了承すると、澤村は電話の向こうで確かに笑いを噛み殺していた。

- To be continued -
2013.05.15

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