Classical

exist 02

「佐伯さん。……佐伯さん?」
「!」
肩越しに覗き込まれるようにして名前を呼ばれ、克哉はハッとする。
食い入るように見つめていたパソコンの画面からようやく顔を上げると、傍には湯気ののぼる紙コップを二つ持った藤田が人懐こい笑みを浮かべながら立っていた。
「コーヒー、いりませんか?」
「あ、ああ。ありがとう。いただくよ」
「はい、どうぞ」
手渡されたそれを口元に運ぶと、香ばしい香りにほっとさせられる。
藤田も隣りの席に座り、一緒にコーヒーを啜った。
「大丈夫ですか?」
「え? なにが?」
「なんだか根詰めてるみたいでしたから」
「……そんな風に見えた?」
「はい」
ついこの間まで体調を崩して休んでいた藤田に、心配そうに言われて克哉は苦笑する。
本社赴任の正式な辞令がそろそろ出る頃だからだろうか、無意識に気が張っているのかもしれなかった。
とはいえプロジェクト自体は本社が中心になって進めていくこともあって、こちらが事前に準備出来ることは限られているし、 コミュニケーションに関してもMGNに来て以来、暇を見つけては御堂にビジネス英語の特訓を受けていたおかげでそれなりのレベルにはなっている。
プロジェクトのメンバーも前回の出張の際と変わらないという話だし、不安に思うような要素はほぼ無いはずだった。
ただ、プレッシャーは感じていた。
会社の―――御堂の期待に応えたい。
半年の間に自分に何が出来るのか、どんなことが起きるのか。
半年後、胸を張ってまたこの場所に帰ってこられるのか。
その思いはときにわくわくするような期待感となり、ときに曇り空のような不安となって心の中に広がる。
せめて勤務時間中はそんな動揺が起こらないようにと目の前の仕事に没頭していたのが、根を詰めているように見えたのだろう。
克哉は素直に藤田の気遣いが嬉しいと思った。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
「そうですか? 何か手伝えることがあったら、なんでも言ってくださいね!」
「うん、そうさせてもらうよ。藤田君は優しいね」
「えっ?! いやっ、そんな、それほどでも……」
藤田は照れ臭そうに笑いながら頭を掻く。
克哉も一緒になって笑っているとき、近くにいた女性社員から声を掛けられた。
「佐伯さん、3番にお電話です。秋田商事の澤口さんという方からです」
「はい……?」
克哉は首を傾げた。
伝えられた社名にも人名にも聞き覚えがなかったからだ。
それでも単に忘れているだけなのかもしれないと記憶を手繰り寄せながら席を立つと、受話器を取って点滅している3のボタンを押した。
「お待たせ致しました。お電話代わりました、佐伯ですが」
『……佐伯克哉さん?』
「はい、そうですが……」
『先日、カフェで頂いた名刺を見てお電話しました。クリーニング代のことでご連絡したんですが』
「……!」
克哉の心臓がドキリと鳴る。
電話の主は一週間ほど前、カフェでぶつかってスーツを汚してしまった男だった。
あれきり連絡が無かったせいですっかり忘れていた。
克哉はあのとき自分に向けられた眼鏡の奥の冷たい視線を思い出して、顔を強張らせた。
「そ、その節は大変申し訳ありませんでした」
『いえいえ。たいしたことはなかったんですがね。ただ、けじめだけはつけて頂きたいなと思いまして』
「はい、それは勿論です……」
何故だろう。
先日の高圧的な態度とは違って男の言葉遣いは丁寧だし、口調も明るい。
その声音からは寧ろ馴れ馴れしささえ感じるほどだった。
けれど、それがかえって嫌な感じがする。
頭の何処かから警告音が聞こえてくるようで、克哉はすぐにでも電話を切ってしまいたい衝動に駆られていた。
『今夜、時間は空いてますか?』
「え? あ、は、はい」
しかし、そんな克哉の不安を逆撫でするように男は話を進めてくる。
『それは良かった。お仕事は何時までです?』
「ええと、八時ぐらいにはあがれるかと思います」
『そうですか。それじゃあ……』
受話器の向こうから流れてくる声を聞きながら、克哉の気持ちは次第に落ち込んでいく。
良くない予感ばかりが胸の内をじわじわと浸食していくようだった。



男と約束した時間通りに、克哉は指定された場所に辿り着いた。
とあるビルの地下にあるそのバーは、御堂とよく行くワインバーからそれほど遠くないところにあった。
既に店のドアの前まで来ておきながら、克哉はそのドアを開けることをまだ躊躇っている。
クリーニング代を渡すだけならばわざわざこんなところで待ち合わせずとも良かったのでは?という疑問が消えないからだった。
あの電話の段階でそれが言えれば良かったのだが、迷惑を掛けた側の立場としては相手の要求に従うしかなかったのだ。
(孝典さん……)
帰り際、克哉は御堂の執務室に立ち寄ってこの話をした。
例の男から電話が来たこと、店を指定されてこれからそこへ行かなければならないこと。
御堂は心配して同行を申し出てくれたが、さすがにそこまでしてもらうのは過保護な気がして断った。
その代わり、何かあったらすぐに連絡をするようにと念を押された。
(……大丈夫。用が済んだらすぐに帰ればいいんだから)
自分でも何故これほどまでに不安を感じているのか分からない。
ただ、どうしても嫌な予感が拭えなかった。
それでも意を決して店のドアを開けると店員の男性が克哉を迎えてくれる。
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」
「あ、すみません、待ち合わせをしていて……」
克哉は店内に視線を泳がせてみたものの、中は薄暗くて客の顔はよく見えない。
すると既に向こうは到着していたらしく、名前を確認されたのちそのまま席へと案内された。
奥のテーブル席には確かにカフェで出会った眼鏡の男が座っていて、克哉を見ると軽く手を挙げて挨拶してきた。
「やあ、すみませんね。こんなところまで呼び出してしまって」
「い、いえ。その節は本当に……」
頭を下げようとする克哉を男が制する。
「まあ、いいから座ってくださいよ。何、飲みます?」
「いえ、あの、申し訳ありませんが……」
「一杯ぐらいつきあってくれてもいいでしょう? 僕はワインなんだけど、君はワインは好き?」
「ええ、まあ……」
「そう。良かった」
男は近くにいた店員を呼ぶと、勝手に注文をしてしまう。
お金を渡して改めて謝罪をしたらすぐに立ち去るつもりだったというのに、事態は完全に相手のペースで進んでしまっていた。
戸惑ったまま立ち尽くしている克哉に、男はにっこりと笑う。
「さあ、座ってよ。僕は別に怪しい者じゃないよ? 取って食ったりしないからさ」
「はい……」
その笑顔さえも胡散臭く見えたけれど、どうにも引き下がりそうにないことを察した克哉は諦めて向かいの椅子に腰を下ろした。
すぐにグラスが運ばれてきて、そこにワインが注がれる。
「乾杯しようよ」
「乾杯……ですか?」
「そう。僕たちの再会に」
「……」
いつの間にか相手の口調からは敬語が消えている。
この男と再会したことは嬉しくもなんともなかったが、ある程度までは向こうに合わせておくべきだろう。
仕方なくグラスを掲げると、ガラスのぶつかりあう音が小さく響いた。
男はワインに口をつけたが、しかし克哉はどうしても飲む気になれずそのままグラスをテーブルに置いた。
「あの、それで」
「本当に佐伯克哉くんだよね?」
「……はい? そうですけど……あの、それよりクリーニング代を」
克哉はなんとか本題に入ろうとするが、男は一向に興味を示さない。
これでは何の為に来たのか分からないではないか。
男がずっと口元に浮かべている薄ら笑いが次第に克哉を苛立たせる。
こうなったら適当な金額を置いて強引にでも席を立つしかないかとカバンの中の財布を取り出そうとしたとき、男が不意にこちらに身を乗り出してきて意味有りげに言った。
「ねえ。僕のこと、分からない?」
「……何がですか?」
「だからさ。僕のことだよ」
「確か……澤口さん、ですよね……?」
電話で自分からそう名乗ったくせに、この男はいったいこれ以上なにを言わせたいのだろう。
二人はしばらく互いの思惑を探るかのようにじっと見つめ合っていたが、克哉の反応が望んでいたものと違っていたのか、男は初めて薄ら笑いを消して真顔になった。
機嫌を損ねてしまったのかもしれないとは思ったものの、さすがの克哉ももうつきあいきれない。
先に視線を外したのは男のほうだった。
つまらなさそうにフンと鼻を鳴らして、またワインを口にする。
「……ふうん。やっぱり分からないか。まあ、僕もあのときに君だとは分からなかったからお互い様かな」
「あの……何処かでお会いしたことがあったんでしょうか?」
「そうだね。あるよ」
まさか仕事関係だろうか。
だとしたら、大変な失礼をしてしまったことになる。
克哉が不安になっていると男は胸ポケットから名刺入れを取り出して、その一枚を克哉に差し出した。
そこに書かれている文字を克哉はゆっくりと読み上げる。
「クリスタルトラスト日本支社、調査部……澤村……紀次……。澤村……」
その名前を口にしたとき、克哉の脳裏に閃光が走った。
澤村紀次―――。
克哉は顔を上げ、向かいに座る男の顔を見る。
男は頬杖をついて、満面の笑みを克哉に向けていた。
「思い出してくれた? 克哉くん」
「……」
声が出なかった。
さっきの乾杯はそういう意味だったのか。
そんな克哉の反応がよほど愉快だったのか、澤村は声を上げて笑い出す。
「アハハハハッ! びっくりした? そういう顔が見たくて電話では偽名を使ったんだよ。それにしてもそんなに驚くなんてね。それほど変わったかな、僕は」
澤村はすっかり上機嫌になって捲くし立ててくるが、克哉はまだ返事を出来ずにいた。
よく見れば確かに彼は澤村だった。
小学生の頃の面影は今もしっかりと残っている。
克哉は彼の名前も、顔も、過去に彼にされたことも少し前に全てを思い出していた。
しかし実際にこうして彼を目の前にすると、その記憶はまるで別の誰かのものであるかのように遠いものになってしまう。
過去に自分に起きた事実として把握はしているけれど、それを実際に経験したという実感が薄いというか。
例えて言うなら、昔見た映画やドラマのシーンを覚えているだけという感覚に近かった。
けれど、それもそのはずだと気づく。
何故なら今ここにいる佐伯克哉は、あの卒業式の日、Mr.Rから貰った眼鏡を掛けた瞬間に産まれたものなのだから。
いじめられたのも、澤村に裏切られたのも、<オレ>ではない、もう一人の<俺>。
だからなのか、彼に対しても特別な感情は湧いてこない。
懐かしさもなければ、裏切られたことへの怒りや憎しみもなかった。
ただ、じわりと広がる不安の正体はこれだったのだなと理解する。
克哉はふと、もしもここに座っているのがもう一人の<俺>だったらどうするのだろうかと考えた。
怒りを露わにするだろうか、それとも平然としているのだろうか。
あいつのことだから、きっと後者に違いない。
たとえ内心では動揺していても、絶対にそれを悟られるような真似はしないはずだ。
そんなことを考えながら黙り込んだままでいる克哉を、澤村はなにか勘違いしたようだった。
克哉の顔を覗き込むと、声のトーンを一段落として言う。
「もしかして……あのときのこと、まだ怒ってるのかい?」
「そ、それは……」
怒ってはいない。
けれどそれは彼の裏切りを自分がされたこととして認識していないせいだろう。
眼鏡を掛けた自分も、今ここにいる自分も同じ佐伯克哉だ。
それでも、今の自分にはその質問に答える資格が無いような気がした。
はっきりしない態度の克哉に呆れたのか、澤村はカフェで出会ったときのような哀れみの視線を向けてくる。
「やっぱり、まだ怒ってるんだね。じゃあ、謝るよ。悪かった。ごめん。あのときは僕も子どもだったからさ。子どもって正直で残酷なものだろう? だから、ついね」
「……っ」
彼の謝罪が上辺だけのものであることは、その投げ遣りな口調からも明らかだった。
あのとき佐伯克哉がどれほど傷つき、絶望したと思っているのだろう。
それは「子どもだったから」「つい」で済まされるようなものではない。
人ひとりの人生を変えてしまうほどの出来事だったというのに。
けれど澤村はまったく悪びれる様子も無く、続けて言ってのける。
「とにかく、せっかくこうして再会出来たんだ。また友人として付き合おうよ。僕としては罪滅ぼしっていうか、やりなおしたいんだよね。今になって偶然君と出会えたのも、神様がその機会を与えてくれたんじゃないかって思うんだ」
「……」
澤村の言葉からはほんの僅かな誠意も真心も感じられなかった。
もうこの男とは関わるべきではない。
それは彼を信用出来ないこと以上に、彼の前にいると自分の存在そのものが曖昧になっていくような不安を覚えたからだった。
さっきから彼が話しかけている相手はいったい誰なのだろう。
たいした努力もしていないのに勉強でもスポーツでも常に一番で、いつもたくさんの友達に囲まれ、その中心になって笑っていた佐伯克哉。
そして突然クラスメイト達からいじめられ、それでも優しくしてくれたたった一人の親友を心から信じ、けれど本当はその親友にこそずっと裏切られ続けていた佐伯克哉。
澤村が謝罪したのも、もう一度友人としてつきあいたいと思っているのも、その頃の佐伯克哉であって<オレ>じゃない。
彼と話していると、今の自分の存在を否定されてしまいそうで怖かった。
(ダメだ……)
気持ちが不安定になっていく。
早く。
早くこの場から立ち去らないと。
目の前の澤村の顔が僅かに歪み始める。
「それに……」
しかし、澤村は続ける。
「君も僕も、いつまでも過去のことを引きずっているのは良くないだろう? 蟠りを失くすためにも、仲直りするのはいいことだと思わない? どうかな、克哉くん」
そうなのだろうか。
もう一度彼と友達になれたなら、全ての蟠りを失くすことが出来るのだろうか。
こんな風にすぐ不安定になる自分から解放されるのだろうか。
分からない。
眩暈がする。
分からない。
「―――ねえ、克哉くん」
澤村が笑っている。
その笑顔が、あの頃の笑顔と重なって見えた。



ふらつく足取りでなんとかマンションまで帰りつくと、すぐに御堂が出迎えてくれた。
「おかえり、克哉。大丈夫だったのか? ……克哉?」
「孝典さん……」
克哉は倒れ込むようにして御堂の胸に身体を預けると、その背中に手を回してきつくしがみついた。
帰り道、とにかく早く御堂に会いたくて堪らなかった。
御堂の香りと温度に包まれて、ようやくここに帰ってこられたと克哉は心底安堵する。
「克哉? どうした? やはり、何かあったのか?」
しかし御堂のほうは心配でたまらなかったらしく、もっとよく克哉の顔を見るため身体を離そうとする。
けれど克哉は御堂の肩先に顔を埋めたまま、決して離れようとはしなかった。
「克哉」
「……大丈夫ですよ。何もなかったです」
「本当に?」
「はい、本当です。クリーニング代にプラスして五千円渡して、それで帰ってきました」
「そうか。なら、いいが……。何事もなく終わったんだな? もう連絡が来ることもないんだな?」
「……はい。来ないと思いますよ。来ても関係ないですし……」
「そうだな。……しかし、それにしては様子がおかしいじゃないか。どうしたんだ? 具合でも悪くなったのか?」
「いいえ。ただ、やっぱり緊張していたのかもしれません。ちょっと疲れてしまっただけです」
「……そうか。それなら、いい」
御堂もようやく安心したのか、そう呟くと克哉をぎゅっと抱き締める。
その腕の力強さが、今の克哉には泣きたくなるほど嬉しかった。
「孝典さん……」
克哉が顔を上げ、二人は自然と唇を重ねる。
こうして御堂と抱き締め合ってキスをしていると、さっきまであれほど不安定だった気持ちが驚くほど静かに落ち着いていくのが分かった。
大丈夫。
佐伯克哉は確かにここにいる。
今ここにいる自分こそが佐伯克哉だ。
御堂は<オレ>を必要としてくれている。
御堂が傍にいてくれれば、<オレ>は<オレ>でいられる。
<オレ>は佐伯克哉として存在していていいんだと思える。
今までも、これからも、ずっと。
「孝典さん、もっと……」
克哉の呟きにくちづけは更に深くなり、抱き締め合う手にも力がこもる。
今はただ何も考えず、御堂を感じていたかった。
そして御堂を感じることで、自分自身の存在を確かめていたかった。

- To be continued -
2013.04.24

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