永遠の在処 05
一瞬、目を閉じていたのかもしれない。
私はハンドルを固く握り、急ブレーキの反動で前のめりになった姿勢のまま、激しく鳴り続ける鼓動を耳の奥で感じていた。
もう少し車間距離が短かったら前の車に追突していたところだったが、それはどうにか免れたようだ。
見ると交差点の中央付近で、対抗車線を右折してきたらしい車が斜めに止まっている。
そのすぐ傍に、ついさっき私の左側を直進していったはずのバイクが運転手と共に倒れていた。
車から男が二人慌てた様子で降りてきて、バイクに駆け寄る。
それほどスピードは出ていなかったのか、バイクの運転手に意識はあるようで、僅かに身じろぎしているのが見えた。
どうやら双方、命に別状は無いらしいと分かって、私は他人事ながらほっと息を吐いた。
いや、他人事ではない。
あと少し早くアクセルを踏んでいたら、私自身も巻き込まれていたに違いないのだ。
とにかく、あとはあの車の男性達がなんとかするだろう。
やがて、しばらく麻痺していた交通機能が再びゆっくりと動き出す。
私もその流れに乗って、事故を起こした連中を横目に車を走らせた。
(冷静になれ―――)
逸る心を抑えてマンションに向かいながら、幾度も自分にそう言い聞かせる。
けれどさっき聞いた衝突音が、克哉のときのそれと重なって耳から離れない。
(違う―――)
その意味も、何に対するものなのかも分からず、私はただ全てを否定したかった。
違う。
そうじゃない。
あれは克哉ではない。
克哉は二度とあんな目には合わない。
私がそうしたのだ。
彼を失わない為に。
彼を傷つけさせない為に。
何故なら、克哉は永遠に私のものなのだから。
(それならば、何故私はこんなにも動揺している―――?)
違う。
私は動揺などしていない。
私と彼の関係を邪魔するものなど、もう何も無いのだ。
だから、違う。
違う。
違う。
しかし、どれだけ否定しても私の心は晴れなかった。
不安と焦燥感だけが後から後から湧いて出て、私はそれを振り払うようにただひたすらに車を走らせ続けた。
帰宅すると、私はカバンを放り出して寝室へと向かった。
早く克哉に会わなければと、その考えだけが私を動かしていた。
「克哉!」
眠っているかもしれないと思いやる余裕もなく、勢いよくドアを開けて彼の名を呼ぶ。
そこで、私が目にした光景は―――。
「か、つ……」
全身からざっと血の気の引く音が聞こえた気がした。
同時にがたがたと身体が震え出す。
克哉はベッドから落ちてしまったのか、床の上にうつ伏せに倒れていた。
「克哉……克哉!!!」
私は克哉に駆け寄った。
いったい何が起きたのか分からない。
こんなのは、嘘だ。
こんなこと、あるはずがない。
私は克哉を守るために、ここまでしたのではなかったのか。
それなのに、どうして。
「克哉……克哉……!」
パニックに陥りそうになりながら、なんとか抱き起こした身体はいつもより酷く冷たい。
じゃらりと鳴った鎖の音が、やけに大きく聞こえた。
まさか、という思いが頭を過ぎって、慌ててその口元に顔を近づけると、弱々しくも微かな吐息を感じる。
大丈夫、生きている―――。
そのことに僅かにだがほっとしながら、私は克哉のやつれた頬を擦った。
「克哉、目を覚ましてくれ、克哉」
何度呼びかけても、克哉の瞼が開くことはない。
ぐったりと脱力した身体が、腕に重く圧し掛かる。
「克哉……」
私は意味も無く、おろおろと周囲を見回した。
どうすればいい。
そうだ、救急車を呼ばなければ。
いや、私が直接医者に連れて行ったほうが早い。
医者―――四柳。
数十分前に話したばかりの友人が咄嗟に思い浮かんで、私は上着のポケットから携帯電話を取り出した。
指が震えてうまくボタンが押せないでいると、ふと克哉の首筋が目に入った。
腕の中、仰け反った克哉の白い首。
そこに巻かれた、白い首輪。
腕に、足に繋がれた、長い鎖。
私は電話を握り締めたまま、しばらくそれらをじっと見つめていた。
「……克哉」
携帯電話を置き、克哉をそっと床に横たわらせる。
克哉。
私にとって君がどれほどの存在なのか、君は本当に分かっているのだろうか。
どれだけ多くのものを手に入れたとしても、そこに君がいなければ全てのものは意味を失ってしまう。
君のいない世界など、私にとってはなんの価値も無い。
私が君を失うことをどれほど恐れているか。
私がどれだけ君のことを必要としているか。
克哉、君を愛している。
君は私の全てだ。
私はまだ君を愛し足りない。
君の全てを手に入れていない。
どうすれば君を繋ぎとめられる?
どうすれば君を永遠に私のものであり続けさせることが出来る?
「……」
この首輪を外せば、私はまたあの恐怖に怯えながら暮らさなければならなくなる。
いつか君が私を残して、何処かへ消えてしまうかもしれないと思いながら生きていくことになる。
少し前の私ならば、そんなことは絶対に有り得ないと言えたかもしれない。
けれど、もう無理だった。
君が私を忘れてしまった、あの瞬間を目の当たりにしてしまった今となっては、それはただの強がりにしかならない。
私はいつからこんなにも弱くなってしまったのだろう。
守るべきものがあれば人は強くなれるなどと聞くが、それは本気で人を愛したことのない人間が言った綺麗事だ。
愛すれば愛するほど、弱くなっていく。
不安に押し潰され、自分を見失っていく。
「克哉……すまない……」
私は愚かだ。
こうやって、また君を傷つけてしまう。
それでも君は笑って、そんな愚かな私を許してくれるのだろう。
私を責めることも、恨むこともなく、全てを受け入れてくれるのだろう。
―――だが、もういいんだ。
身体の震えは、いつの間にか治まっている。
私は確かに何かを失ってしまったことを自覚しながら、克哉の白い首にそっと手を掛けた。
- To be continued -
2009.11.11
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