Classical

永遠の在処 06

何もかも、終わった。
力の入らない身体を固いソファに預けたまま、私はぼんやりとそんな風に思っていた。
消灯時間を過ぎた病棟の暗い廊下に、自動販売機の低いモーター音だけがやけに大きく響いている。
私の中には、なんの感情も無かった。
ただ、全ては終わったのだと。
絶望でも悲しみでもなく、真っ暗な底無しの虚無だけがそこに残されていた。
「……御堂」
冷たい床を叩く足音が近づいてきて、私の傍で止まる。
聞き慣れたはずの友人の声さえも、それが自分に向けられたものだと気づくまで数秒掛かった。
顔も上げられずにいると、四柳は溜息をついて私の隣りに少し距離を置いて座った。
「……もう、大丈夫だ。少々衰弱はしているが、二、三日もすれば退院出来るだろう。彼に基礎体力があって良かったよ。 もう少しすれば、意識も戻るはずだ」
「……そうか。ありがとう」
克哉が無事だと聞いて安堵しながら、私にはそれだけ答えるのが精一杯だった。
診察をした四柳なら、私がこの一ヶ月近く、克哉に何をしてきたか気づいているはずだ。
彼の首に、手足に、身体中に残る痕を見れば、すぐに分かる。
それでも四柳はそれ以上私に何かを言うことはなかった。
「……克哉のこと、宜しく頼む」
私はやはり四柳を顔を見ないままにそう告げて、なんとかソファから立ち上がった。
そしてエレベーターに向かおうとする私を、彼は慌てた様子で引き留める。
「御堂、佐伯君に会わないつもりなのか?」
「……」
会いたいに決まっている。
しかし、どんな顔をして克哉に会えばいいというのだ。
私のしたことは、結局彼を更に苦しめただけだった。
彼がベッドから落ちていたことが、それを証明している。
克哉はきっとあそこから逃げ出そうとしていたのだろう。
私が幸福だと錯覚していた日々は、まるで意味の無い、現実逃避に過ぎなかったのだ。
そして、また私は恐れている。
彼が目覚め、あの日と同じことが繰り返されるのを。
「……すまない」
しかし、四柳にそれを説明しても仕方が無い。
私はそのまま立ち去ろうとしたが、四柳は素早く私の腕を捕らえた。
「御堂、待て」
「離せ。……私に、克哉に会う資格は無い」
胸の内の澱を吐き捨てるように、私は答えた。
これ以上、私は克哉の傍にいるべきではない。
きっとまた私は彼を傷つける。
四柳の手がゆっくりと離れ、私の腕は力無く落ちた。
「……お前に資格があるかどうか、僕が判断すべきことではないのだろう。 でも、このまま佐伯君の前から消えるのはあまりに無責任じゃないか?  資格は無くとも、お前には責任があるはずだ。それぐらいは、僕にも分かる」
四柳の静かに、しかし確かに憤っている声が私に突き刺さる。
彼が怒るのも無理はない。
私はそれだけのことをしたのだから。
「ちゃんと佐伯君と話せ。それからどうするか決めろ」
「分かっている……!」
自分の不甲斐無さに、私もまた怒りが込み上げてくる。
同時にあのときの恐怖が再び蘇ってきて、握り締めた拳が震えるのを止められなかった。
「分かっている……だが、私は……」
「御堂……」
克哉に恨まれても、憎まれても構わない。
どんな報いも受け入れる覚悟はある。
けれど、私の存在が彼の中から消え去ってしまうことだけには耐えられない。
四柳は何かを察したのか、私の肩にそっと手を置いてきた。
「……大丈夫だ。佐伯君はお前を忘れてなどいないよ」
その言葉に、私はようやく四柳の顔を見ることが出来た。
「……それは、本当か?」
「ああ。うわ言で、お前の名前を言っていた。だから、傍にいてやれ」
「……」
そのとき、私がどれほど安堵したことか。
意識のない間にも、克哉の中に私が存在している。
その事実だけで私には充分心強かった。
「……分かった。ありがとう」
友人の気遣いに小さく感謝を告げて、私は克哉のいる病室へと向かった。

四柳はああ言ったものの、病室の前に立つとやはり恐怖に足がすくんだ。
あのときの、克哉の私を見る目。
驚きと戸惑いと、申し訳無さが入り混じった表情で、私に言った言葉。
『あなたは……誰ですか……?』
もう一度同じことが起こったら、今度こそ私は耐えられないだろう。
そのとき、私はきっと―――。
「……」
私は息を飲み、出来るだけ音を立てないように扉を開けた。
暗い廊下とは正反対の真っ白な明るさが眩しくて、壁のスイッチを押して灯りを消す。
それから恐る恐る克哉のベッドに近づいていった。
克哉は目を閉じている。
すっと伸びた白い首に、あの首輪はない。
残されているのは、薄紫をした痛々しい痕だけだ。
「克哉……」
首輪を外したときの感触が、指先に蘇る。
二度と外すことはないと思っていた。
外してやれる日は来ないだろうと思っていた。
それなのに気がつけば私は克哉の首輪を、手足の枷を外していた。
そして四柳に連絡を取り、克哉をここまで運んでいた。
いっそ彼と共に消えてしまおうかという考えが過ぎらなかったと言えば嘘になる。
けれど私のエゴで彼の命を奪うことまではどうしても出来なかった。
そして私は、何かを諦めた。
今、克哉は確かに私の目の前にいるというのに、酷く遠くに感じる。
もう彼は、私の手には届かないところに行ってしまったような気がしていた。
克哉は助かったけれど、私は克哉を失ったのだと。
「克哉……私は、どうすれば良かったのだろうな……?」
私は跪き、克哉の柔らかな髪に触れる。
克哉。
君は気づいていないだろうが、君の強さはいつでも私の憧れだった。
私は自分自身の弱さから君を束縛し、君は君自身の強さからそれを受け入れた。
それが、そもそもの間違いだったのだろう。
あそこまでしても私は理性を捨てきれず、恐怖と不安から逃げきることが出来なかった。
そうして私の弱さは君の覚悟を無駄にし、こんなにも中途半端な結果に終わらせてしまったのだ。
克哉、私は本当にどうすれば良かったのだ?
教えてくれ、克哉。
「ん……」
私の声無き問い掛けに応えようとするかのように、克哉が微かに呻いた。
瞼を縁取る長い睫毛が震え、それがゆっくりと開いていく。
スローモーションのように少しずつ少しずつ、克哉が目を覚ましていくのを私はじっと見つめていた。
「克哉……」
思わず呟くと、克哉の蒼い瞳がこちらに向けられた。
ぼんやりと焦点の合っていなかった視線が、確かに私を捉える。
「……か、のり……さん……」
乾いた薄い唇が動き、掠れた声が零れる。
それが私の名前であったことを理解した瞬間、不覚にも目の奥が熱くなった。
「克哉っ……」
私は克哉の身体をきつく抱き締めたい衝動を堪えて、ただ彼の頬に触れた。
彼が私の名を呼んだというそれだけで、空っぽだった胸の内に小さな光が射す。
しかしそれ以上何も言葉に出来ずにいると、克哉は不意に自分の首筋に指先を伸ばした。
「……外して……しまったんですね……」
何も無いそこを撫でながら、克哉が泣き出しそうな微笑を浮かべて呟く。
私はやはり何も答えてやることが出来なかった。
もう、いいんだ。
もう、終わったのだ。
克哉を誰の目にも、誰の手に触れさせず、私だけのものであり続けさせた日々は。
克哉は少し遠い目になると、ぽつりぽつりと話し始めた。
「オレ……この一ヶ月、本当に幸せでした……。これで、ようやくオレは全部あなたのものになれたんだって…… そう思うことが出来たから……。でも……」
そこで微笑みが消え、代わりに克哉が苦しそうな表情になったのが暗闇の中でも分かった。
「あなたのことだけを考えて過ごすことは、やっぱりオレには出来ませんでした。 仕事のこととか、これからのこととか、ふとした瞬間に思い出しては、どうなるんだろうと考えてしまって……。 だから、あなたが不安になったのはオレの所為なんです。 あなたにあんなことをさせたのも、それをこうして終わらせたのも、きっと全部オレの所為です」
「克哉……」
彼もまた私と同じように、理性を捨てきれずに苦しんでいたのだ。
克哉は首筋に置いていた手を今度は私に伸ばすと、弱々しい力で私の指先を握り締めた。
「ごめんなさい、孝典さん……」
「克哉、それは違う」
私は克哉の手をきつく握り返した。
「本当は、分かっていたんだ。あんなことをしても、何にもならないのだということは……。 君を鎖で繋いだところで、君を絶対に失わずに済むことにはならない。 現にこうして、私は君をまた失いかけた。君を永遠に失わずに済む方法など、ありはしないのに……」
「孝典さん……」
それを認めるまでに、随分と掛かってしまった。
やはり私達は綱渡りのように、足元に大きく口を開けた絶望の淵を見下ろしながら歩いていくしかないのだ。
そこに飛び込んでしまうほどの諦めも、全てを消してしまうほどの勇気も無いのなら、いったい他にどんな方法があるというのか。
(しかし……)
私にそれが出来るかどうか、それさえも自信が無い。
また何をきっかけにしてバランスを失うか分からない。
そのとき、私はまた克哉を傷つけるのではないのか。
私が黙り込むと、克哉がもう片方の手を出して、私の手を両手で包んだ。
その手には再び力が蘇り始めているような気がして、私はハッとして克哉を見つめた。
「オレは……まだ、あなたが欲しいです」
「克哉……」
克哉は真剣な眼差しで私を見つめ返す。
「オレは、もっと、もっとあなたが欲しい……。あそこまでされてもまだ、ぜんぜん足りないということに気づいてしまった。 だからオレは、やっぱりあなたを追いかけたいと思ったんです。でも、身体がうまく動かなくて……」
「では……君は逃げ出そうとしたわけではなかったのか……?」
「オレがあなたから逃げるはずないじゃないですか」
そう言って、克哉は笑った。
私もつられて苦笑した。
「私だって同じだ……まだ、君が足りない。君を縛りつけても、君の全てが手に入ったようには思えなかった。 いつまた君を失うのかと怯えてばかりいた……。なら、どうすればいい? 私は、これからどうすれば……」
「……孝典さん」
こんな弱音を吐くなど、我ながら情けないということは分かっている。
けれど今の私にはどうすることも出来なかった。
克哉はそんな私の手を握ったまま、静かに言った。
「孝典さん……。永遠がどこにも無いのなら……オレ達で作りませんか?」
「作る……?」
克哉の言う意味が分からず、私は聞き返す。
「はい……。きっと永遠なんて、そんなもの何処にも無いんだと思います。だったら、作りませんか?  オレ達がずっと、ずっと傍にいられたら、きっとそれが永遠なんだと思います。 オレとあなたなら作れると……オレは思います」
「克哉……」
存在しないのなら、作り出せばいい。
克哉の言葉に、私はまるで今目覚めたばかりの赤子のように目を見張った。
「克哉、君は……」
思わず、笑いが漏れる。
その言葉は力強く、私の中にある絶望という暗闇を僅かにだが照らしてくれた。
行く先が見えないことにばかり囚われていた私に、進む足跡こそが道を作っていくのだと彼は教えてくれる。
永遠は、ずっと私達の傍にあったのだと気づかせてくれる。
今日が昨日になるように、明日が今日になるように、それは今この瞬間と等しいものだったのだと。
笑い続ける私を見ながら、克哉は少し照れ臭そうに頬を染めていた。
「……オレ、かっこつけすぎですか?」
「いや……私は君の強さを侮っていたようだ」
やはり、君は強い。
諦めが悪くて、頑固で、突拍子も無くて、私は驚かされてばかりいる。
言うほどに簡単なことではないだろうけれど、君と一緒なら何でも出来るような気がしてくる。
私は憑き物が落ちたような気持ちになって、大きく深呼吸してから答えた。
「そう、だな……。何処にも無いのなら、作ればいいんだな……」
「……はい」
私達は微笑みあった。
彼を鎖に繋いでいた間も、こんな風に笑ったことはなかった。
―――まだ、諦めなくてもいいのだ。
今回、克哉が私を忘れなかったように。
全てを諦めてしまうにはまだ早い。
恐怖も不安も完全に消えたわけではなかったが、彼とならきっとそれが出来ると思えた。
「克哉……ありがとう」
私はそう呟いて、克哉の指先にそっとキスをする。
しかし克哉は不満そうに眉尻を下げた。
「あの……孝典さん」
「……分かっている。君は本当に欲張りだな」
「……はい」
お互い、クスクスと笑いが漏れる。
そして私は克哉のほうに身を乗り出すと、今度こそ彼の唇にくちづけた。





「じゃあ、ここで失礼します」
幹事の藤田はアルコールで赤くなった顔で言うと、元気よく頭を下げた。
「うん。藤田君、今日は本当にありがとう」
「いえ! じゃあ、お疲れ様でした。御堂部長もありがとうございました!」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「はい!」
克哉の復帰祝いが行われた店の前で、皆は口々に挨拶を交わし解散する。
彼らが全員私達に背中を向けると、私と克哉はどちらともなく微笑み合った。
「では、私達も帰るとするか」
「はい。……あ」
タクシーを止めようと通りに目を向けた私のスーツの裾を克哉が引いた。
「ん?」
「あの……少し歩きませんか? 酔い覚ましに」
「ああ、そうしようか」
春から初夏へと移りゆく心地好い夜の空気の中、私達は歩道を歩き出した。
克哉が会社へ復帰してから、もう二週間が経つ。
一室は彼が休職をする前と同じように彼を受け入れ、私達の生活もまた元の形へと戻っていった。
こうしているとあの日々がまるで夢だったかのように思えて、私はビルの合間の黒い空を見上げた。
「なんだか、不思議ですね……」
克哉も同じことを思っていたのか、隣りで不意に呟く。
「……そうだな」
日常と非日常。
正気と狂気。
その境界線は酷く曖昧で、今、頭上に見えている星のようにおぼろげだ。
克哉に与えた束縛の痕が薄れるほどに、あの記憶からも現実味が遠のいていく。
けれどあの日々があったからこそ、今もこうしてここにいられるのだということも感じていた。
「……孝典さん」
「なんだ?」
「あの……本城さんの、ことなんですけど……」
突然克哉が口にした名前に、顔が一瞬にして強張る。
何故、今そんな話を。
克哉は私が不機嫌になったのを察したのか、言い訳をするかのように口調を速めてきた。
「すみません、でも、やっぱり話しておきたくて……。 孝典さん、本城さんと仲直りしてくれませんか? 少なくともオレは、あの人を恨んではいません」
「……」
それはそうだろう。
克哉は誰かを恨むようなことはしない。
だが私には、もう一度あいつと昔のような友人に戻れるとは到底思えなかった。
私が答えずにいると、克哉は俯く。
「……オレ、あの人の気持ちが分かります。自分なりに頑張っているつもりなのに、どうしても空回りしてしまって、 つい上手くやっている友人を羨んでしまう……。羨めば羨むほど、自分が辛くなるだけなのに」
克哉が誰のことを思い浮かべながら話しているのか、私には分かった。
確かに以前の克哉はいつも自信が無さそうに、全てに対しておどおどとしていた。
そんな彼に苛立つこともしょっちゅうだったが、今は違う。
彼は変わったのだ。
そして克哉は私の前を塞ぐようにして立ち止まると、私を真正面から見つめて言った。
「今すぐには無理でも、いつか仲直りしてほしいんです。きっと本城さんも、四柳さん達も、それを望んでいます。 孝典さんだって、本当は……」
その先は、克哉は言わなかった。
そうなのかもしれない。
MGNで自分が昇進することに決まったあのときから、私はずっと本城に罪悪感を抱いていた。
完全には元に戻れないだろうけれど、それでも歩み寄ることは出来るだろうか。
そうすれば、この蟠りもいつかは消えるのだろうか。
私もまた変われるのだろうか。
私は溜息をついて、答えた。
「……結果がどうなるかは分からないが、近いうちにあいつに会いに行こう」
「……本当、ですか?」
「会うだけだ。それ以上は約束出来ない」
「は、はい! ありがとうございます!」
「君が礼を言うことではないだろう?」
「はい……でも、オレ、嬉しくて」
克哉は本当に嬉しそうに笑う。
いつも他人のことばかり気に掛けて、彼は本当にお人好しだ。
私達が再び並んでゆっくりと歩き出した、そのときだった。
「オレも……いつか……」
それは聞き逃してしまいそうなほど、酷く小さな呟きだった。
見ると、克哉は胸のポケットに手を当てて微笑んでいる。
「どうしたんだ?」
「いえ、なんでもありません」
意味ありげな仕草が気になったが、それ以上は聞かないことにする。
彼が話したくなったときに、話してくれればいいことだ。
克哉は真っ直ぐに背筋を伸ばして、夜空を見上げる。
その横顔は何処か清々しかった。
「孝典さん、来週から出張でしたよね」
「ああ。私の留守中、頼んだぞ」
「はい、任せてください! ……自信は、ありませんけど」
克哉ははにかんだが、私は心配していなかった。
彼になら充分留守を任せられる。
他の心配事はあったが、それは言い出せばきりがないと私も今回のことで学んでいた。
だから私は退職願を破り捨て、出張の準備を始めていた。
「今回、君は留守番だが、次回は君も連れていくからそのつもりでいるように」
「そうなんですか?」
「ああ、専務からもそう言われている。一度君にも本社で研修を受けてもらいたいそうだ」
「……はい。ありがとうございます」
そう答えた克哉の声には、確かに仄かな自信が感じられた。
私もまた克哉に負けぬよう、強くならなければならない。
まだ、大丈夫。
まだ私達は進んでいける。
二人なら。
「……オレ、これからも孝典さんといろんなことがしたいです。まだ孝典さんとしていないこと、見ていないもの、行ってない場所……。 たくさん、ありますから」
「ああ……そうだな」
永遠も絶望も、それは今も私達の足元にある。
どうせ逃れることが出来ないのなら、みっともなく足掻き続けてでも彼と共に生きていこう。
行く先にばかり探していたものが、いつか振り返ったとき、そこにあるように。

- end -
2009.12.01

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