永遠の在処 04
頭が重い。
瞼を上げるのも、指一本動かすのさえも億劫だ。
最近は倦怠感がますます強くなっていて、手足が痺れているようなことも多かった。
今日はそれが特にひどい。
おかげで今朝も孝典さんに呼ばれているのは気づいていたのに、起きることが出来なかった。
起きたとしても、ちゃんと笑って送り出せる自信がなかった。
だから眠ったままのふりをして、心の中だけでいってらっしゃいを告げた。
孝典さんに心配を掛けたくはなかった。
「……」
オレは目だけを動かして部屋の中を見回す。
視界が暗いのは天気が悪い所為なのか、それとももう夜になってしまったのか。
どちらでもいい。
今日が何月何日で、世間で何が起こっているのか、分からないし興味も無い。
オレはこの生活にすっかり満足していた。
ずっとここで、孝典さんのことだけを想っていられれば、それで良かった。
なんだか少しだけ部屋が寒いような気がしたけど、孝典さんはいつもオレが快適に過ごせるように空調を調節してくれているから、きっとそれは気の所為なのだろう。
もう一度目を閉じると、自然と耳を澄ませるようになる。
雨は降っていないようだ。
完璧に静かな部屋の中に、人の気配は無い。
孝典さんがいれば、それが別の部屋であってもオレには分かる。
孝典さんは今、何処にいるのだろうか。
まだ仕事中だろうか。
「……」
自分で思い浮かべた『仕事』という単語に、オレの気持ちは暗く落ち込む。
不安は無いはずだった。
けれど孝典さんの中に微かなそれが顔を出し始めたのは、いつ頃からだったろう。
オレ達は互いに最も望んだ状況にあるはずなのに、孝典さんは少しずつ苛立ちと焦りを見せるようになっていた。
オレに触れる孝典さんの指先から、オレを見つめる孝典さんの瞳から、その不安が伝染する。
愛する人と二人きりでいられる幸福に影を落とす。
―――何がそんなに不安なんですか?
孝典さんに、そう尋ねることは出来なかった。
答えを聞きたくなかったから。
今日がいつだかは分からないけれど、確かに時間が流れていることだけは疑いようもない。
狂気に支配されかけては、その事実がもたらす些細で緩やかな変化が、オレを現実へと引き戻す。
そして、少しずつ弱っていく身体。
死ぬことは怖くない。
このまま死ねたらどんなにか幸せだろうと思う。
けれどそう考えるたび、胸の中の何処かがちくりと痛んだ。
オレはあの人を幸せにしたかった。
自分よりも、誰よりも幸せにしたかった。
オレの死は、孝典さんを幸せに出来ることなのだろうか。
この場所で、鎖で繋がれて、他の誰でもない孝典さんだけの物として死んでいくことは、あの人を満たしてくれるだろうか。
あの人は、喜んでくれるだろうか?
「……か、のり……さ……」
声がうまく出ない。
ぞくりと寒気がして、毛布を引っ張りたいのに腕が動かなかった。
「たか……」
孝典さんはいつ帰ってくるのだろう。
早く会いたい。
あの人に触れられて、あの人に見つめられたい。
そしてオレを暖めてほしい。
孝典さんが帰ってくるまではせめて生きていたいと、ひとりぼっちの部屋でオレは時々考えるようになった。
不意に、遠くから甲高いサイレンの音が聞こえてくる。
もう一度襲ってきた寒気に、ぶるっと身体が震えた。
あれは救急車だ。
まるで焦っているかのようなサイレンは次第に近づき大きくなって、やがて遠ざかり消えていった。
「……」
何故だろう、胸の中がざわめく。
オレはきつく目を閉じて、その胸騒ぎをやり過ごそうとした。
けれど、出来ない。
濁った汚泥のような意識の中でもがいているうち、ふと誰かがオレに囁いた。
―――あいつは、本当に帰ってくるのか?
その声に、オレの神経は逆撫でされる。
お前は誰だ。
いったい何が言いたいんだ。
半ば腹を立てながら、オレは心の中で答えた。
当たり前じゃないか。
オレをこうしたのは、あの人なんだから。
あの人は必ずオレのところに帰ってきてくれる。
―――本当に?
けれどその声は諦めなかった。
嘲笑うような問い掛けに、オレはまた答える。
ああ、勿論。
きっと、もうすぐだ。
―――何故、そう言い切れる?
―――お前があいつを忘れたように、あいつがお前を忘れることはないと?
―――お前に起きたのと同じ出来事が、あいつに起きることは絶対にないと?
―――お前より先に、あいつが死んだら?
「……!!」
しつこく畳みかけてくる声に耳を塞ぎたいのに、両腕は相変わらず動かない。
オレはただきつく目を閉じて、唇を噛んでそれに抵抗した。
やめてくれ。
オレは何も考えたくないんだ。
無理矢理に押し付けられた疑念を、なんとか掻き消そうとする。
分かっている。
全てのことは、いつか終わる。
そんなことは充分過ぎるほどに分かっているからこそ、それまでの僅かな時間を独占したかった。
首輪をつけ、鎖で繋がれ、孝典さん以外の全てのものを遮断して。
これでいい。
このままずっと繋がれていたい。
今のオレは満たされている。
満ち足りているんだ。
―――本当に?
まだ続く問い掛けに、オレは泣きたくなる。
どうして孝典さんはここにいないのだろう。
孝典さんがいてくれたら、きっとこんな声だって聞こえなくなるはずなのに、孝典さんはいない。
オレはずっと待っているのに。
何処にも行かず、あなたのことだけを想っているのに。
けれど今、あなたはいない。
あなたは毎日のように、オレをひとり置いていってしまう。
ずっとオレから離れないでほしいのに。
傍にいて、抱き締めていてほしいのに。
オレ以外のことなんて見ないで、考えないで。
オレを愛すること以外、何もしないで。
だって、オレは。
『もっと、あなたが欲しい』
そう思ってしまった瞬間、すうっと身体から力が抜けていった。
それから自分の欲深さに呆れて苦笑が漏れる。
オレはまだ足りないのか。
この首輪を嵌められたとき、オレは自分が心から満たされたと思った。
孝典さんもきっとそうだったと思う。
互いを失うかもしれないという恐怖と不安から、これで逃れられると思った。
けれどそれはオレ達を決して見逃してはくれない。
オレ達だけが特別に免れることは出来ない。
分かっている。
分かっていた。
欲望が消えない限り、本当に満たされることなど無い。
その欲望こそがあの人を愛しているという気持ちならば、それを消すことなど絶対に出来ないのだと。
「た、か……」
考えたくなかったのに。
気づきたくなかったのに。
オレにそれを囁いたのは、きっと。
「くっ……」
オレは腕に力を込めて、それを動かそうとした。
じゃら、と鎖が鳴ってベッドが僅かにきしむ。
足もずらすようにして少しずつ動かす。
孝典さん。
孝典さん。
起き上がろうとしても叶わず、オレはシーツの上を無様に這い蹲った。
今すぐに、孝典さんに会いたい。
ただ待っているだけじゃ我慢出来ない。
オレにはまだ、あなたが足りないんです。
どうしたらいいですか?
孝典さん。
「孝典、さ……」
視界がぼやけて、ぐらぐらと揺れる。
吐き気がして、指先が震える。
自分の身体が自分の思い通りにならないことに苛立ちながら、それでもようやくベッドの端まで移動出来たところで、オレの意識は途切れた。
- To be continued -
2009.10.18
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