永遠の在処 03
シカゴ本社との打ち合わせを終えたのは、夜の11時を過ぎた頃だった。
どれだけ通信手段が便利になっても、この時差の問題だけはどうすることも出来ないのが忌々しい。
手早くデスクの上を片付け、帰宅の準備を始める。
私は家に残してきた克哉の様子が、いつも以上に気になっていた。
普段ならば出勤時に声を掛ければ目を覚ますはずの克哉が、今朝は眠ったままだったからだ。
何度も声を掛けるのも可哀想に思ってそのままにしてきたが、あの後きちんと目を覚ましただろうか。
額に触れた限りでは熱も無いようだったし、呼吸も安定はしていた。
けれど、ただでさえ最近の克哉は殊更体力も気力も落ちてきている。
口数が減り、笑みが弱々しくなり、欲情の色を湛えていないにも関わらず、熱に浮かされたようなぼんやりとした視線を向けてくることが増えた。
念のため食事の傍に薬を置いてはきたが、何かあったとしても彼が自らそれを口にするとは思えない。
早く、帰らなければ。
やや乱暴にファイルを引き出しに仕舞い込んだとき、ポケットの中で携帯電話が震えた。
「……っ」
咄嗟に、克哉に何かあったのではないかと不安が過ぎる。
しかしディスプレイに表示されていたのは克哉ではない、別の友人の名前だった。
ほっとした拍子にうっかり電話に出てしまったことを、私はすぐに後悔した。
「はい」
『御堂か? 僕だ』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、四柳の声だった。
ここ二週間ほど彼からは何度か連絡を受けていたが、私はそのほとんどを無視で通してきた。
何故なら彼が何を聞こうとしているのか分かっていたし、それに私が答えられないことも分かっていたからだ。
なにより、彼が最も話したがっているであろう用件をどうしても聞きたくなかった。
『ようやく捕まったな。そんなに忙しかったのか?』
私が意図的に連絡を断っていたことに気づいていたのだろう、何処かからかうように四柳は言う。
「ああ、忙しいさ。今もまだ会社だ」
『そうか。それは、すまない』
四柳は一転して、真面目な声色になった。
何も悪くない友人に謝罪させてしまったことに、私はやや罪悪感を覚える。
刺々しい調子を僅かにだが和らげることにして、だが帰り支度をする手を止めることだけはしなかった。
「いや、ちょうど終わったところだから構わない。それで、何の用だ?」
『ああ……佐伯君の具合はどうかと思ってな。確か、まだ仕事には復帰していないんだろう?』
「大丈夫だ。心配には及ばない」
『そうか……検診にも来なかったから心配していたんだが、御堂が大丈夫だと言うんだから大丈夫なんだろうな』
退院してから一週間後に予定されていた検査にも、私は克哉を行かせなかった。
克哉の身体のことを考えたら行かせるべきだったのだろうが、それすら出来ないほどに私は追い詰められていた。
あの首輪を外すことだけは、どうしても出来なかったのだ。
「……用件は、それだけか?」
これ以上克哉のことを尋ねられるのも、話を続けられるのも嫌だった私は素っ気無く言った。
さすが友人だけあって、私の拒絶の気配を声から読み取ったのかもしれない。
四柳は少し黙って、それからやはり躊躇いがちに切り出した。
『……本城の、ことなんだが』
「……」
恐らく彼には、電話の向こうで私が顔を顰めたのが手に取るように分かったことだろう。
一番、聞きたくなかった名前。
私は自分の声が再び険しくなるのを感じた。
「あいつの話などしたくもない。他に用が無いのなら切るぞ」
『待ってくれ、御堂。あいつも心から反省しているんだ。だから』
「そんなのは、私の知ったことではない」
『みど……』
四柳の呼びかけを遮って、私は電話を切った。
もうたくさんだ。
克哉。克哉。克哉。
周囲から彼の名前を出されるたびに、早く克哉を返せと急かされているような気分になる。
冗談じゃない。
あれは私のものだ。
何にも、誰にも邪魔はさせない。
早く克哉の元に帰りたい。
私はカバンを掴むと、足早にオフィスを後にした。
マンションに向かって、車を走らせる。
苛立ちに加えて気が急いている所為か、つい運転が荒くなった。
(反省だと……?)
私はさっきの電話を思い出して、小さく舌打ちした。
本城を許す気には到底なれない。
昔、あいつが流した嘘八百の中傷など、私にとっては既にどうでもいいことになっていた。
あのまま私の前から姿を消してさえいれば良かったのに、今更ぬけぬけとよく顔を出せたものだ。
挙句、あいつは私の克哉を傷つけた。
あの出来事が私にとってどれほどのことだったか、あいつはきっと微塵も分かっていない。
克哉の記憶から一瞬でも私の存在が消え失せたことが、どれほど耐え難いものだったかなど。
私にとって佐伯克哉という存在が、どれほど大切なものかなど。
あいつには分からない、分かるはずもない。
あんな奴を友人だと思っていた自分に吐き気がする。
私が甘かったから、だから克哉まで傷つけることになってしまったのだ。
「クソッ……」
本城のことも、自分自身のことも許せず、私はハンドルを強く握り締めた。
早く克哉に会いたい。
あのしなやかで優しく、激しい腕の中に溺れたい。
けれど瞼の裏に浮かんでくる克哉は、この異常な生活が始まる前の姿よりも明らかに衰弱していた。
「克哉……」
虫の知らせとでも言えばいいのか、次第に胸騒ぎが強くなってくる。
大丈夫だ。
私が彼を繋ぎ止めたのだから。
もう二度と失わないように、誰にも傷つけさせないように、彼を閉じ込めた。
きっと彼は、帰宅した私に手を伸ばしてくれる。
微笑みを浮かべて、私の名を呼んでくれる。
焦る気持ちを抑えこんで、私はそう自分に言い聞かせた。
目の前に迫る交差点の信号が、黄色く点灯している。
前を走る車が邪魔だ。
赤に変わる前に渡ってしまいたくて、私はアクセルを踏もうとした。
「……―――!!」
瞬間、甲高いブレーキ音と、何かが壊れるような音が同時に響く。
脳裏にあの日の悪夢がまざまざと蘇って、私の心臓は凍りついた。
- To be continued -
2009.09.29
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