永遠の在処 02
深夜のキッチン。
手の平には、白い錠剤が二粒乗っている。
医者にかかるのが嫌で購入した市販の睡眠導入剤は、所詮気休めにしかならない。
それでも今の私は、その気休めこそを必要としていた。
錠剤を口に放り込み、グラスの水で流し込む。
硬い異物が、冷たい水と共に喉を通り過ぎていく。
空になったグラスを置くと、私はそのままシンクに手をついて溜息をついた。
克哉の事故の日以来、私はあまり眠れなくなっていた。
正確に言えば、眠るのが恐ろしかった。
眠れば、必ずと言っていいほどに夢を見てしまう。
あの日の、夢だ。
大抵は何処だか分からない、暗い場所に立っていて、目の前には二つに別れた道が伸びている。
どちらの道も草や石ころだらけで荒れ果てているうえに、周囲には標識も無い。
目を凝らしても道の先は暗闇に包まれていて、その行く先は見えなかった。
どちらを選ぼうとも、自分の望む場所に辿り着けそうな気がしない。
呆然とその場に立ち尽くしていると、不意に後ろから誰かの声が聞こえてくる。
『やめてください……!』
聞き覚えのある声に、私は慌てて振り返る。
『ダメ……!』
そこには、克哉が立っていた。
私に背中を向け、大きく両手を広げて、近づいてくる眩しい光から、私を遮る―――いや、守るように。
『克哉……!』
私は総毛立つ。
急いで駆け寄ろうとするも間に合わず、耳を塞ぎたくなるような鈍い衝撃音が響く。
私の目の前で克哉の身体は宙に舞い上がり、それからどさりと音を立てて地面に落ちるのだ。
『克哉……っ!!』
私は克哉に慌てて駆け寄り、その身体を抱き起こす。
克哉。克哉。克哉。
叫ぶように彼の名を呼ぶ私の手を、生温かい血が濡らしていく。
やがて彼は私の呼びかけに応え、ゆっくりと瞼を開ける。
そして虚ろな瞳を私に向けて、言うのだ。
『……あなたは、誰ですか?』
「……っ!」
思い出すだけで身体が震え、悲鳴を上げたくなる。
二度と思い出したくないのに、悪夢は幾度でも繰り返す。
いったい私は、何度絶望すればいいのか。
時間が経てば薄れていくはずの記憶は、かえって鮮明になっているような気がした。
激しすぎる鼓動に、耳の奥がどくどくと鳴っている。
私は深呼吸し、なんとか自分を落ち着けようとした。
「克哉……」
私は焦っていた。
克哉の休職期限は、刻一刻と迫っている。
これまではその時のことを出来るだけ考えないようにしてきたが、そろそろ否が応にも意識せざるを得なくなっていた。
この部屋から出ることのない克哉は、少しずつ正気を手離しているように思う。
私は、そんな克哉が羨ましかった。
彼と二人でいるときには会社のことなど忘れられても、仕事に行けば嫌でも現実を見なくてはならなくなる。
私も彼のように、この生活に溺れてしまいたい。
ゆらゆらと揺れ続ける天秤のように、私は正気と狂気の間を行ったり来たりしている。
そして、それを止める為の選択肢は二つしかなかった。
このままの生活を選ぶか、以前の生活を取り戻すか。
けれどあの時の恐怖を思い出すと、とても後者を選び取れる自信は無かった。
克哉の声と同時に響いた、鈍い音。
地面に倒れていた克哉の姿。
流れ出る、赤黒い血液。
救急車とパトカーの赤い光。
病室の白。
そして―――。
『……あなたは、誰ですか?』
あのときの、絶望。
あんなことはドラマや映画の中だけのことだと思っていた。
それから克哉が記憶を取り戻すまでの時間、私は完全に抜け殻となっていたように思う。
もう、二度と。
もう二度と、あんな想いはしたくない。
私の人生から、克哉という存在が奪われることなど絶対にあってはならない。
寝室に戻ると、克哉を起こさぬようそっと隣りに身体を滑り込ませる。
裸の白い肩に布団を掛け、少し痩せた頬に触れた。
克哉はよく眠っている。
けれど、私はそれさえも不安になる。
この克哉は、本当に眠っているだけだろうか。
この瞳は、朝になれば再び開くのだろうか。
開いた瞳は、私のことをちゃんと覚えているだろうか。
そして、私は気づく。
克哉を失うかもしれないという恐怖から逃れたくてこんなことをしたというのに、
その恐怖は少しも消えてはいないということに。
「……復帰祝い?」
「はい」
会議室から一室へと戻る途中、藤田が微笑みながら頷いた。
「佐伯さん、もうすぐ戻ってきますよね? そうしたら一室の皆で、お祝いをしようって話になっているんです」
「……」
「まあ、ちょっとした飲み会程度になるとは思うんですけど……部長ももちろん」
「そういうことは、佐伯君が実際に戻ってきてから考えたほうがいいんじゃないか?」
延々と続きそうな浮かれた藤田の話を、私は苛立ちながら遮った。
「え、でも……休職期間は今月一杯でしたよね?」
「そうだ。だが、実際にどうなるかは分からないだろう」
「えっ」
明らかに慌てた様子の藤田を残して、私は先を急ごうとした。
しかし藤田はそんな私の後を追うべく、同じように足を速めてくる。
「佐伯さん、そんなに悪いんですか?」
「さぁな。そんなことより、早く仕事に戻りたまえ。私はオフィスに寄る」
まだ何か言いたげな藤田を切り捨て、私は自分の執務室へと向かった。
誰もかれも、克哉のことばかり口にする。
いっそ彼らの記憶の中から、克哉の存在を消してしまいたい。
誰にも克哉のことを考えてほしくない。
彼を想うのは、私だけでいい。
私が仕事に没頭したのも、会社の者達が克哉の不在を当然に感じてほしかったからだ。
私は執務室に戻るとデスクの前に座り、普段は鍵を掛けてある引き出しを開けた。
そこに入っている、一通の封筒。
私は来月、シカゴ本社への出張が決まっている。
たとえこのままの生活を選ぶとしても、克哉をあの部屋に置いていくことは出来ない。
復職させるにしても、やはり彼を一人日本に置いていくことはしたくなかった。
封筒の表に書かれた、『退職願』の文字を見つめる。
これは、最後の切り札だ。
私は再びそれを引き出しに仕舞い込むと、しっかりと鍵を掛けた。
- To be continued -
2009.09.14
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