鬼畜部長 14
定例ミーティングのため御堂が会議室に入ると、すでにいつものメンバーがいつもの席に座っていた。
(……来たか)
御堂もまたいつもの席に着きながら、さりげなく克哉の様子を伺う。
キクチ側の資料を受け取り、MGN側の資料を配りつつ盗み見る克哉の顔色は決して良いものではなかった。
もちろんあんなことがあった翌朝だ、元気溌剌とはいかないだろうが、それにしてもだ。
青ざめた顔をしているだけではなく、目つきもどこか虚ろでぼんやりとしている。
今朝、ホテルの部屋で別れたときよりもずっと調子が悪くなっているように見えた。
(……あのあとに体調が崩れたのか? 考えられなくはないが……)
時間が経つにつれて昨夜の出来事が更に彼にダメージを与えたのかもしれない。
そのせいで心身共に不安定さが増してもおかしくはなかったけれど、しかしその考えに御堂は違和感を拭えなかった。
(あのとき……)
バスルームから出てきた御堂と視線が合ったときの克哉の表情。
そこに浮かんでいたのは確かに怯えでも嫌悪でもなかった。
シャワーを終えてからも、何か言いたげにしながら何も言わずにただ立ち尽くして―――。
「……っ」
御堂は軽く咳払いして、己の意識を切り換える。
今はこれ以上、考えるべきではなかった。
このままではあのスーツの下には御堂自身がつけた幾つもの所有の証が隠されていることや、縋るように絡められた指先の強さまでも思い出してしまいそうだった。
予定通り、一時間ほどでミーティングは終了した。
現在の状況はかなり良かった。
当初の予想を遥かに上回るスピードと数字を叩き出しながら、まだ伸びしろが残っている。
幾つかの懸念事項はあるものの、恐らくMGNの商品としてはトップの売り上げとなるだろう。
しかし―――克哉は最悪の状態だった。
会議中、こちらから質問をされていることにも気づかず隣りの本多に小突かれる。
慌てて闇雲に資料を漁るも、内容がまったく頭に入ってこないのかただ口ごもるばかり。
何を聞いても、何を言っても上の空といった調子で、まったくお話にならなかった。
彼の頭の中には、少なくとも自分が担当している店の数字ならすべて入っていることを御堂は知っている。
だからこそいつもの彼ならば今日のように御堂の指摘に対して曖昧な返答しか出来ないはずがないのに。
(仕方がない、と思うべきか……)
御堂は溜息を吐く。
今回ばかりはさすがに肉体的な負担も軽くはなかっただろうし、
克哉をそんなふうにした原因が自分にあることを考えると、あまりきつく注意する気にもなれなかった。
(とはいえ、解放してやる気もないが)
仕事に影響が出るのは問題だが、今日だけは不問にしてやってもいい。
そう思いながら会議室を出ようとした御堂を引き留めたのはむしろ克哉のほうだった。
「すみません、御堂部長。あの……」
「……なんだ」
いつも以上に怯え、避けてきてもおかしくはない状況でまさか自ら声を掛けてくるとは思わなかった。
御堂が立ち止まると、克哉はおずおずと口を開く。
「実は、その……少しご相談したいことがありまして……」
「相談?」
気づけば片桐と本多はすでに退室していて、この場には二人きりだ。
となると克哉が相談と称して御堂に持ち掛けてくる話題などひとつしかない。
御堂は口角を吊り上げた。
「君の<接待>の件なら、交渉に応じる気はまったく無いが」
克哉自身も気づいているはずだ。
このままの調子でいけば、いずれ8課はこちらが以前に提示した数値を達成出来る。
それは同時に克哉の今までの自己犠牲が、すべて無駄なものになることを意味していた。
御堂は恐らく克哉がそのことを盾に契約を反故にしようとしていると判断して先手を打った気でいたが、しかし克哉の返答はまったく違っていた。
「ち、違うんです。そんなことではなくて……」
「……そんなこと?」
克哉の言い方に御堂は敏感に反応する。
そんなこと。
まるで自分の存在が軽んじられたように感じて、御堂は苛立ちを露わにした。
「……では、なんだ」
「あの……聞いていただけるんですか?」
「私は忙しい。話したければ早くしたまえ」
「あ、ありがとうございます。実は……」
克哉に例の件を「そんなこと」と言わしめるほどの相談事というのが、いったいどれだけのものなのか聞いてやろうではないか。
不機嫌を隠そうともしない御堂に対して、克哉は躊躇いがちに話し始めた。
「……それで終わりか?」
「は、はい。終わりです……」
「……」
時間にして10分も掛からなかっただろうが、聞いた話の内容はあまりにも馬鹿げていた。
ある日の晩、公園で出会った怪しい男にもらった眼鏡。
その眼鏡を掛けると、自分が別人のようになってしまうのだそうだ。
なんの能力も無い、情けないいつもの自分ではなく、強気で有能な人間になれるのだという。
今日、克哉の様子がおかしかったのは、昨日自宅に置いてきたはずのその眼鏡がカバンの中に入っていたからだそうだ。
ホテルから直接キクチへ出社し、それからこちらに出向いたのだから間違って入っているはずもないと。
そんなマンガかゲームの世界でしか有り得ないような話を、克哉は大真面目に聞かせてくるのだった。
(……まさか、とうとうおかしくなったのか?)
御堂は克哉をまじまじと見つめた。
彼に負わせた<接待>というストレスが、いよいよ克哉の精神を蝕み始めたのだろうか?
幻覚や幻聴が現れ、現実と妄想の区別がつかなくなってしまった?
しかし克哉の話は突拍子も無い内容ではあったものの、時系列や言動に大きな矛盾はなく、またこちらの質問にも彼はきちんと答えることが出来た。
なにより目つきや表情からも、その可能性は低そうに思える。
だとしたら考えられる要因はひとつしかなかった。
「自己暗示だな」
御堂は溜息混じりに答えた。
その眼鏡を渡してきた男というのは、恐らく胡散臭い自己啓発系の団体にでも所属しているのだろう。
そこで彼はたまたま出会った克哉に対して暗示をかけた。
自分に自信の無い克哉はまんまとその暗示にかかり、眼鏡をトリガーにして「いつもとは違う自分」、要するに「理想とする自分」を手に入れることが出来たのだ。
それは彼のような人間にとって、ある意味非常に有効な手段といえた。
人は誰しも無意識に自己暗示をかけることがある。
強い不安や緊張を感じたときに、自分なら出来る、やれる、大丈夫、と己を奮い立たせたり、良い結果を出せる過程を想像、つまりイメージトレーニングをしたりするのがそれだ。
極端に自己肯定感の低い克哉は、眼鏡という具体的なツールを提示されたことによってそれを容易に行うことが出来るようになったのだろうと御堂は推測した。
そしてその「眼鏡をかける」イコール「理想の自分になれる」というパターンが定着した頃を見計らって、その男から団体への加入や寄付という名目の支払いを要求されるに違いない。
(まったく、簡単に騙されすぎだ……)
御堂は半ば呆れながらそう指摘したが、克哉は必死に否定する。
「違うんです、そうじゃないんです」
「なにが違うんだ」
「自己暗示で能力を発揮出来るということは、もともとその能力が備わっているということですよね?」
確かにそのとおりだ。
自己暗示に掛かりやすくなる手段として催眠術というものがあるが、あれとて不可能を可能に変えられるような類のものではない。
しかし、だからこそ御堂は「自己暗示」なのだろうと言った。
無意識に抱いていた「今の自分から変わりたい」という思いが暗示によって解放され、本来の能力が発揮出来るようになったのだろうと。
けれど、克哉はそれを頑なに認めようとはしない。
「でも、オレにはそんな能力はありませんから……。眼鏡をかけたオレは本当に仕事が出来るんです。
大口の契約を取ってくるし、事務仕事も早いし、容量が悪くて失敗ばかりしているオレとはまったくの別人なんです。だからこそ、怖くて……」
「……いい加減にしろ」
「……!」
御堂が低い声で告げると、克哉は怯えたように身を竦ませた。
御堂は眉間に皺を寄せながら、ミーティングに使っていた資料の束で苛立たしげに机を叩く。
繰り返される自虐的な言葉に、もう我慢ならなかった。
「さっきから聞いていれば、君は自分に能力がないだのなんだのと……。ならば、この数字を出したのは誰だというんだ」
「で、ですが、それはオレだけでやったことではありませんし……」
「だが、君の出した結果でもあるだろう。それとも君は本当はこの中の一件分の数字も出しておらず、ただウロウロしていただけなのか?
他人の営業成績を自分の成果であるかのように、虚偽の報告をしていたとでも?」
「まさか、そんなことはしません……!」
「ならば、何故自分の能力を認めない? これだけ誰もが見て分かる結果を出しておきながら、そこまで自分を卑下することは、君よりも成績の悪い人間や、
君に仕事を任せると決めた人間をも侮辱していることになるんだぞ。それを分かっているのか」
「あ……」
克哉が8課の足を引っ張るどころかこの数字を牽引している存在であることは一目瞭然だった。
これは純然たる事実であり、そこに私情が挟まる余地はない。
それに克哉に能力があることを認めているのは御堂だけではなかった。
「ショップや取引先からも、君は有能で信頼出来る営業マンだと聞いている。だが君の言い分が正しいなら、彼らは嘘をついているということになってしまう。
そんな嘘をつくメリットが何処にある?」
「えっ……」
「このプロジェクトに関わっている私の部下達も君の作る資料を褒めていたし、取引先から君の良い評判を聞いているそうだ。
そういったことすべてを君は否定するのか? それが君の本意なのか?」
「そ、それは……」
克哉は俯き、黙り込む。
彼の中にあるコンプレックスと自己肯定感の低さ、それらを生み出した原因がなんであるのかは知らない。
それでも彼が常に強い自己嫌悪を感じていることぐらいは分かる。
それはすなわち彼が今の自分自身を変えたいと思っていることの証ではないのか。
「君は責任を負いたくないがために自分の能力を認めることを恐れ、逃げている。それは謙虚とは違う。卑怯で傲慢なことだ」
「オレの……能力……」
「出来もしないものを出来ると嘯く人間を私は信用しない。しかし出来るくせにやらない人間にはもっと腹が立つ」
「御堂さん……」
もちろん持っている能力を発揮するもしないも本人の自由だ。
それでどんな評価を得ようとも、責任を負うよりはましだと考えるやつもいるのだろう。
それはそれで構わない。
けれど御堂はそんな人間と共に仕事をしたいとは思わないし、恐らく克哉は本来そういう人間ではないはずだと確信もしていた。
だからこそ克哉の話が現実逃避にしか聞こえず、苛立った。
そしてそんな話を自分に大真面目に聞かせてきたことにも。
「だいたい、そんな馬鹿げた話は君のお仲間にでもすればいい。君の望む言葉で、君を慰めてくれるだろう」
「で、でも……!」
克哉が勢いよく顔を上げる。
そして彼は思いもかけないことを言った。
「でも、オレは御堂さんに聞いていただきたかったんです! 御堂部長に……」
御堂は呆気に取られる。
「……私に? 何故」
「……」
克哉は答えない。
克哉自身もまたその理由が分からず、困惑しているようだった。
「君は私になにを望んでいるんだ……?」
それは無意識に零れた御堂の素直な気持ちだった。
普通に考えれば本多や片桐のほうが相談相手としては相応しいはず。
彼らのほうが御堂よりもずっと克哉との付き合いも長く、それゆえに彼の性格もよく分かっているだろう。
きっともっと優しい言葉で克哉を安心させ、気を紛らわせてくれるに違いない。
それなのに、彼は御堂を選んだ。
決して良好な関係を築けているとはいえない間柄であるはずの御堂に。
「……まあ、いい」
奇妙に落ち着かない空気に耐えきれず、御堂は話を切り上げる。
机上にばらまいた資料を再びまとめ直すと、ちらりと時計を確認した。
「とにかく、私はそんなオカルトまがいの話を信じる気はない。
君がなんと言おうと、私は君の能力を認めているからこそ仕事を任せているのだから、逃げることは許さない。さっさと仕事に戻りたまえ」
「あ……」
「なんだ、まだ何かあるのか」
「いえ……その……ありがとう、ございます……御堂部長にそんな風に思っていただけてるとは思わなくて……」
「……!」
御堂はそこではじめて自分が克哉を褒めていたことに気づいた。
「……馬鹿らしい」
資料を抱え、足早に会議室を後にする。
何かが少しずつ変わり始めている気配に、御堂は気まずさと焦りのようなものを感じていた。
- To be continued -
2020.04.28
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