鬼畜部長 06
ミーティングから戻って執務室で一人きりになると、御堂は込み上げてきた笑いを堪え切れずにとうとう肩を震わせた。
あの数字を見たときの、彼らの顔を思い返す。
呆然とする者、怒りを露わにする者、焦って目を泳がせる者。
その中でも最も驚き、慌て、顔色を変えていた、あの男―――。
奴はこの恐るべき事態を招いたのがまさに自分であることに改めて気づかされ、そして絶望したことだろう。
御堂は口元を緩ませたまま、デスクの上の売上報告書に目を落とす。
実際のところ、彼らの働きは御堂の予想を遙かに上回るものだった。
早々に泣きを入れてくるであろうと思って立てた目標だったが、少し彼らを見くびっていたのかもしれない。
それゆえに御堂は更にその数値を上げてやることにした。
売上報告書の隣りにあるのは、目標予算表。
そこに並んでいるのは、非常識と言っていいほどの数字だった。
しかし勿論これはキクチの連中に見せる為だけに作成したダミーだ。
上に提出している本来の目標予算は、これよりも少し低い数字になっている。
それでも通常よりかなり高いものではあったが。
「―――御堂部長。佐伯です」
そのとき執務室の扉をノックする音と共に、今まさに思い浮かべていた男の声が聞こえてきた。
「御堂部長。お願いします、話を聞いてください」
いったい、どんな話があるというのか。
今度こそ泣いて土下座をする用意があるのか。
なんにせよいよいよ奴に止めを刺せるかもしれないと思うと、御堂は初めて心から克哉を招き入れる気になった。
「……入れ」
返事の後、ゆっくりと執務室の扉が開いた。
克哉はまさに決死の覚悟といった表情で御堂のデスクの前に立つと、深々と頭を下げた。
「お願いです、さきほど提示された売り上げ目標を撤回して頂けないでしょうか……?!」
身体を強張らせ、拳を握り締め、声を震わせながら。
その姿は酷く惨めで情けないものだったが、御堂はただ冷ややかな視線を向けるばかりだった。
「話にならないな」
吐き捨てると、彼は泣き出しそうな目で御堂を見つめる。
「君達は私が最初に提示した目標を見事に達成した。だから私は更に上の目標を設定した。何か問題があるか?」
「それは……」
「それとも君達は最初の目標さえ達成すれば、あとはもう仕事をする必要がないとでも思っていたのか?
普通は更に上を目指すものだと思うが……。さすがお荷物部署の人間は考えが甘いようだな」
「そっ…そういう、わけでは……」
「そういうわけでなければ、どういうわけだ? 最初の目標は達成した。そのことについては私も君達を誉めよう。
しかし次の目標に対してはやる前から無理だ、達成出来そうにないから撤回してくれと言う。
君達はいったい何を望んでいる? 私に『君達はもう目標を達成したのだから、あとは好きにのびのびやってくれ』とでも言われたかったのか?
やはり君達は仕事というものを舐めているのではないか?」
「っ……」
次々に罵倒の言葉を浴びせてやると、克哉は苦しげに俯く。
歯を食いしばり、きつい痛みに耐えているかのように。
そんな克哉を目の前にしても、御堂はまだ満足出来なかった。
無茶な要求に黙って従うことを良しとせず、一人でここまで交渉に来た度胸だけは買ってやってもいい。
しかし、この程度で許されると思ったら大間違いだ。
昨日のワインバーで御堂が多少なりとも鬱憤を晴らすことが出来ていれば、ここまですることもなかったかもしれない。
しかし、克哉はかえって御堂の怒りを煽ってしまった。
そのことを身をもって後悔させてやりたい。
己の愚かさの所為で同僚が、上司が、職を失って路頭に迷うかもしれない恐怖に慄かせたい。
そして泣いて、土下座して、許しを請う彼の姿を嘲笑ってやりたい。
それまで克哉を苦しめる手を緩める気はなかった。
「とにかく、一度決定した数値を撤回することは出来ない。分かったら、さっさと仕事に戻りたまえ。これ以上は時間の無駄だ」
言い捨てて、御堂はデスクの上の書類を束ねた。
ここまで言えばさすがの克哉も諦めるのではないかと思ったのだが、しかし今日の彼は違っていた。
「で、ですが……! 幾らなんでも、あんな数字無理です! MGNさんでもこれほどの数字、今までなかったんじゃありませんか?!」
「……!」
「お願いします! 失礼なことばかり言って本当に申し訳ありませんが、どうか考え直してください! お願いします……!!」
克哉はほとんどうなじが見えんばかりに頭を下げながら、しつこく食い下がる。
クビになるかどうかの瀬戸際だ、当然だろう。
しかし、彼の余計な一言はまたしても御堂の怒りを買ってしまった。
そう、確かにこれはMGNが今までに達成したことのない数字だ。
非現実的なものであるがゆえに、実際は上に提出していないぐらいなのだから。
しかし、だからなんだと言うのか。
こちらの出した指示に対して文句を言う権利が、お前達にあるとでも思っているのか。
まるでこちらに非があるかのように言われた気がして猛烈に腹が立つ。
それでも克哉は繰り返し頭を下げ続けていた。
「どうかお願いします! 他にオレが出来ることなら、なんでもしますから! ですから……!!」
「……なんでも?」
その言葉が引っかかった。
なんでもするなどと簡単に言う人間に、ろくな奴はいない。
覚悟も思慮も無い、浅はかな人間が使う言葉だ。
御堂は思わず舌打ちしたが―――すぐに考えを変えた。
「なんでもする……と、言ったな?」
「は、はいっ……!」
己が発した言葉の意味も重みもまだ分かっていないのだろう。
克哉は交渉の余地が生まれたのかもしれないと勘違いの期待をして、御堂の問い掛けを肯定する。
僅かに身を乗り出し、瞳を見開き、頬を紅潮させている克哉は餌を待つ犬のようで、哀れですらあった。
―――なんでもする、か。
そんなものはどうせ口先だけだと分かっている。
しかし、実際御堂の中にさっきまであった苛立ちはいつの間にか霧散していて、反対に興奮にも似た感情が湧き起こっていた。
子供の頃、クリスマスや誕生日に何が欲しい? なんでも買ってあげる、と言われたときのように心が躍る。
もしかするとこの言葉をこそ、待っていたのかもしれないとさえ思えるほどに。
さて、どんな要求を突きつけてやろうか。
御堂は考える。
どうせならば突拍子も無いものがいい。
それこそ克哉には絶対に実行出来ないようなものが。
(……少しからかってやるか)
そして御堂は薄笑いを浮かべながら言った。
「そうだな……ならば、接待でもしてもらおうか」
「接待……ですか……?」
「ああ、そうだ。だが、宴席を用意してもらいたいわけではない。君にそんなものは期待出来ないだろうからな」
「それでは、どのような……」
そのとき、御堂は昔のことを思い出していた。
あの酷く馬鹿馬鹿しく、くだらない、下劣な出来事を。
御堂にとっては取るに足らない、思い出すにも値しないようなつまらない出来事ではあったが、だからこそこの目の前にいる卑しい小者に味わわせるには相応しく思えた。
御堂は困惑している克哉に平然と言い放った。
「セックスの相手でもしてもらおうか」
「……は?」
そのときの彼の顔はといえば、声を上げて笑いたくなるほどに間抜けだった。
ぽかんと口を開け、目を丸くしている。
「あの、すみません……今、なんて……」
「聞こえなかったのか? セックスの相手をしろと言ったんだが」
「……」
克哉は信じられないといった表情でしばらく御堂を見つめ、それから顔を赤らめながら目を逸らした。
まさかこんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう。
御堂にしてもさすがに克哉がこんな戯言を本気にするとは思っていない。
ただ、思いついた限りの中でもっとも下品極まりないものを選んだだけだ。
実際、俯いたまま震えながら立ち尽くしている克哉の姿は滑稽そのもので、御堂は腹を抱えて笑いたいのを必死に我慢していた。
「……なんだ、出来ないのか? だったら、なんでもするなどと簡単に言うな。さあ、諦めて仕事に戻りたまえ。私は忙しいんだ」
それにしても、口にしてみればやはりくだらなかった。
それでもこんな提案を飲むぐらいなら、あの無茶な数字を達成すべく努力するほうがよほどましだと思えただろう。
どうせそれしか選択肢はないのだから、おとなしく受け入れればいいのだ。
御堂は仕事の続きを始めるべく引き出しから出した別の書類を手に取った。
しかし、何故か克哉はその場を動こうとしない。
そして―――。
「……わかり……ました……」
震える声で、彼は確かにそう言ったのだ。
今度は御堂が耳を疑う羽目になった。
「君は……」
「っ……」
克哉は首や耳まで赤く染めながら、きつく目を閉じ、拳を握りしめている。
この男は、自分が何を言っているのか本当に分かっているのだろうか。
仕事の為なら、同僚の為ならば、その身を差し出すと?
そこまで愚かだったのか?
御堂は半信半疑で尋ねる。
「……本気で言っているのか?」
「はい……」
「……」
なるほど、受けて立つということらしい。
それならばこちらも手加減はすまい。
御堂はメモ用紙にホテルの名前と時間を書くと、克哉の目の前の床に放り投げた。
「拾え」
克哉は言われたとおり、そのメモを拾い上げる。
「今夜、その時間にその場所で。君の本気とやらを見せてもらおうじゃないか」
「は、はい……」
彼はメモを握り締め、ふらふらと執務室を後にした。
馬鹿馬鹿しい。
あまりにも馬鹿馬鹿しかった。
あの意気地なしは、どうせ来るはずがない。
そのときの御堂はそう確信していた。
※
MGNに入社したばかりの頃は、顔繋ぎと称した接待の場に連れていかれることも多かった。
立場的にはこちらのほうが上であっても、御堂個人はまだ新入社員のひよっこ。
酌をして回るのも、お世辞や愛想笑いをするのも重要な仕事のうちだと思っていた。
あれは赤坂の和食会席の店だった。
当時、開発部の中でも有能でエース扱いされていた先輩社員に連れられて、御堂は取引先との間に設けられた酒席に参加していた。
相手の会社とは次のプロジェクトで生産協力をすることになっており、御堂もそのプロジェクトの末席に名を連ねることになっていたからだ。
会は何事も無く進んでいった。
しばらくすると御堂は相手会社の製造部の部長である男性に手招きをされ、そちらに席を移った。
四十代前半ぐらいと思われる、体格のいいその男は、御堂に隣りに座って酌をするように命じた。
『御堂くん、だよね? 君、随分と優秀らしいね。噂は聞いてるよ』
『とんでもございません。まだまだ勉強中の身ですから』
『いやいや。入社してすぐに開発部に配属されているんだ、謙遜することはないよ』
『恐れ入ります』
ニコニコと人懐こい笑みを浮かべながら、男は機嫌良く話し続ける。
御堂もまたいつものことと愛想笑いを浮かべながら、男に酌を続けた。
しかし時間が経つにつれ、次第に場の様子はおかしくなっていった。
『ところで御堂くん。この後、時間あるかな?』
『は……この後、ですか?』
『うん、そう』
男はやはりニコニコと笑い続けている。
御堂はてっきり二軒目に行こうと誘われているのだと思った。
『そう、ですね。次はどういったお店が宜しいでしょうか? ご希望があれば探して……』
『違う違う。そうじゃなくて』
膝が触れるほどの距離ににじり寄られる。
男の手が腰に回り、酒臭い息が顔に掛かった。
『……聞いてるよ。君、どちらもイケるらしいね』
『何が、でしょうか……? どちらもとは……』
『惚けなくても大丈夫だよ。実は私もそうなんだ。だから……是非、君に相手をしてもらいたくてね』
『……』
小声で囁かれ、さすがに彼の言わんとしていることが分かった。
御堂は困惑し、助けを求めるように、少し離れたところで別の者に酌をしていた先輩社員に視線を送った。
一瞬、彼と目が合った。
そのとき彼は確かに―――笑ったのだ。
『……大変失礼ですが、それは恐らく私のことではないかと思います』
助け舟は期待出来ない。
御堂は自力でその場を切り抜けるしかなかった。
『なんだ、そうなのか……?』
訝しげに顔を顰めた男に、御堂は笑顔で畳みかける。
『はい、本当に申し訳御座いません。ですが、私の友人に同じ趣味の者がおります。
その者が大変良い店を知っておりますので、今度そちらをご紹介させて頂くということでどうでしょうか?』
『うーん、だが私は君が……』
『私のような若輩者では、到底ご満足頂ける自信がございません。その点、そちらの店は会員制になっており、管理も行き届いていると聞いております。
やはりこういったことには、気をつけなけばならない要素も多いと思いますので……ですよね?』
『む……』
わざと含みのある言い方をしてやると、男はたじろいだ。
取引先の新人にちょっかいは出せても、さほど遊び慣れてはいないようだ。
『どうでしょうか? そのほうが、必ずご満足頂けると思いますが』
『ふぅん……そうか。分かった。じゃあ、楽しみにしているよ』
男はようやく納得して、引き下がった。
彼が再び笑顔になったのを確認してから、御堂はその場を中座させてもらった。
店のトイレで手を洗いながら、御堂は心底うんざりしていた。
なにもかも先輩社員によって仕組まれていたことだったのだ。
あの男にそういう趣味があることを知って、わざと嘘を吹き込み、今日の宴席に御堂を同席させた。
そういう意味では、あの男もまた被害者のようなものだった。
相手の会社にとってMGNは重要な取引先であり、妙な揉め事を起こすことなど望んでいるはずもない。
だから今回のことも彼にしてみればパワハラやセクハラのつもりはなく、単に同じ趣味の人間と出会えた嬉しさから声を掛けてみたに過ぎなかったのだ。
そして先輩はそれらを全て分かっていながら、ただ御堂に嫌な思いをさせる為、御堂を困らせる為だけにこんなことを仕掛けてきたのだ。
(馬鹿馬鹿しい……)
そんなくだらないことをしてくる先輩にも、それを真に受けて言い寄ってくるエロ親父にも、呆れ果てていた。
確かに入社と同時にMGNの花形部署である企画開発部に配属された御堂には、妬みの声も多かった。
しかも早々にプロジェクト参加が決まったことで、先輩は殊更御堂の存在を不愉快に感じていたに違いない。
幼稚すぎるやり口に腹立たしさを覚えながらも、新人だった御堂にはせいぜい学ぶべき先輩に恵まれなかった不運を心中で嘆くことぐらいしか出来なかった。
御堂はこのときのことを誰にも話さず、また当の先輩に対しても一切のリアクションをしなかったが、それでもプロジェクトが終わるまで小さな嫌がらせが止むことは無かった。
それから今に至るまで、御堂は数々の陰口や誹謗中傷、嫌がらせに合ってきた。
開発部の部長になると決まったときが一番酷かったかもしれない。
しかしこのときの出来事こそが、御堂が社会人になって初めて味わわされた屈辱だった。
ちなみに後日、あの部長には約束通り彼が喜びそうな店をしっかり紹介させてもらった。
大学時代の交友関係から、幸か不幸か御堂はそういう伝手を持っていた。
またプロジェクトは見事な成功を収めたにも関わらず、リーダーを務めていた先輩社員は間もなくMGNを退社した。
開発部のエースと言われていたはずの彼に何があったのか、御堂は知らないし興味も無かった。
※
御堂は自らが指定したホテルの部屋で、持ってきた仕事を片付けていた。
メモに書いた時間まで、あと5分。
―――あいつは本当に来るのだろうか。
もしも来たとして、仕事の為とはいえ本気でなんでもするつもりがあるのか。
本当にセックスの相手をするつもりなのか。
(……まさか、な)
御堂が克哉に対してしていることは、御堂自身が過去に受けたことのあるどんな嫌がらせよりも酷いものであると自覚している。
それでも不思議と罪悪感は無かった。
普段見せる卑屈な態度にも、唐突に見せる傲慢な態度にも、どうしようもなく苛立った。
だから御堂の中にあったのは寧ろ、幾らでも嗜虐的になれそうな自分をコントロール出来ないことへの戸惑いだった。
私はいったいどうしてしまったのか。
私は何がしたいのか。
本当に克哉が現れたら、どうするつもりなのか。
(……あいつが、悪い)
全ては佐伯克哉の所為だ。
あの男は私は狂わせる。
「チッ……」
一向に進まない仕事に嫌気が差してペンを放り出したとき、部屋のチャイムが鳴った。
- To be continued -
2014.12.03
2016.06.21 修正
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