鬼畜部長 20

雨の中を歩きだす。
打ちつける激しい雫が髪を、頬を、身体を、あっという間に濡らしていく。
けれど不思議なほどに冷たさを感じることはなかった。
もしかするとそれだけ冷静さを失っていたのかもしれない。
(……泣いているのか?)
克哉は俯き、両手を顔に押しつけていた。
大の男がまるで野良猫のように、こんな夜にこんな場所でずぶ濡れになって泣いているなんて。
確かに彼を貶めてやりたいとは思っていたけれど、今は少しも愉快な気持ちにはなれなかったし、そうなれないことにさらに不愉快になった。
御堂が近づいても、その足音は雨音に消されて聞こえていないのか克哉は一向に気づかない。
(私に会いに来たのではないのか?)
目当ての相手が目の前にいるというのに、顔を上げようとしない克哉に苛立つ。
その苛立ちに任せて、御堂は克哉の腕を掴んで乱暴に引っ張った。
克哉は驚きにびくりと跳ねて、ようやく顔を上げる。
「み、ど…さん……」
冷え切った身体ではうまく舌が動かないのか、わなわなと震える唇から零れた声はよく聞こえなかった。
克哉はまるで幽霊にでも出会ったかのように、目を見開いて御堂を見つめている。
彼の顔を見るのは十日ぶりぐらいだろうか。
会わずにいたのは、それほど長い期間ではないはずだ。
そもそも理由もなく会うような間柄でもないし、プロトファイバーの件が終われば会う必要自体がなくなる。
それなのに何故こんなにも心が揺れるのだろう。
青ざめた唇からも、頬に濡れて張り付いた薄茶色の髪からも目が離せない。
掴んでいる腕はぐっしょりと濡れたスーツの布越しにも、冷えているのが分かる。
思わずそのまま引き寄せ、腕の中に抱いていた。
「……冷たいな」
そのとき御堂は初めてこの雨の冷たさを知った。
何度も抱いたはずの身体から一切伝わってこない体温に微かな不安を覚えて、浚うように克哉を自分の部屋へと連れていった。

玄関を上がるとすぐにスーツの上着を脱がせ、自分のものとともに捨て置く。
部屋の床が濡れることなど、どうでもよかった。
バスルームへと向かい、シャワーを捻る。
勢いよく流れ出てきた熱い湯を、躊躇いもなく頭から克哉に浴びせ掛けた。
その間、克哉は一切抵抗せず、されるがままだった。
ワイシャツもスラックスも靴下もすべてびしょ濡れで、 当然、御堂自身も流れてくる湯に足元を濡らされ、跳ね返ったしぶきで全身がしっとりと湿っていく。
激しい水音が反響する中、御堂は尋ねた。
「……なぜ、あんなところにいた」
その問い掛けは克哉の耳にしっかりと届いているはずなのに、彼は何も答えようとしない。
もしや雨に打たれすぎたせいですでに体調をおかしくしているのではないかと思った御堂は、克哉の頬に手を伸ばした。
「……ッ」
触れた肌の、あまりの冷たさに驚く。
とにかく今は彼を温めることが先だ。
「早く、それも脱げ」
急かしたところで克哉はぴくりとも動かない。
仕方なく御堂は克哉のベルトに手を掛けて、スラックスを脱がしてやった。
ふと自分に服を脱がされることに嫌悪を感じてはいないのかと克哉の表情を伺ってみたものの、彼はぼんやりとバスルームの床を見つめているばかりだった。
苛立ちがますます募る。
克哉の心が見えない。
どうして。
何のために、お前はここにいる。
この十日ほど、顔を合わさずにいられてホッとしていたはずではないのか。
プロジェクトも終わりが見えてきて、もうすぐこの地獄のような日々から解放されるんだと、その日を心待ちにしていたのではないのか。
それなのに、なぜ自ら姿を現す。
憎んでいるはずの相手の前に、なぜわざわざ。
バスルームを満たす白い湯気の向こう側で、克哉の顔は霞んでいてよく見えなかった。
「……いつから、あそこにいた。いったい、なんのために。なにが目的だ」
一言、一言、噛んで含めるようにして問い詰める。
言葉にしてくれなければなにも分からない。
御堂がそれまで克哉の身体に向けていたシャワーヘッドを下すと、克哉は俯いていた顔をようやくゆっくりと上げた。
そして、御堂をまっすぐに見つめて言う。
「あなたに、会いに来ました」
御堂は思考を巡らせた。
「……会社の内情を誰かに聞いたのか」
無責任な噂ならいくらでもある。
だから、そのうちの幾つかが克哉の耳に入るのも時間の問題だとは思っていた。
さしずめそれを聞いてプロトファイバーの増産がうまくいかないかもしれないと不安になり、 その真相を確かめるためにやってきたのだろう……それが御堂の咄嗟の推測だった。
けれど克哉は御堂の言葉に苦笑すると、力無く首を横に振る。
「違います……。仕事のことは関係ありません。関係なく……ただ、あなたに会いにきました」
「……」
今度は御堂が黙り込む番だった。
仕事とは関係ないと断言されてしまえば、よけいに分からなくなる。
互いの間にあったのは仕事上の利害関係のみのはずだ。
それとは関係なく会う必要などあるはずもない。
御堂は克哉をじっと見つめた。
彼の表情から、瞳から、なにかを伺い知れるかもしれないと思ったからだ。
けれどそれは叶わず、そして克哉の言葉も続くことはなかった。
「どういうことだ……なにか企んで……」
吐き出す言葉に息苦しさを感じるのは、湿度が高いせいだろうか。
御堂の呟きに克哉の顔がくしゃりと歪む。
「なにも……なにも、企んでなんかいません……」
泣き出しそうな、けれど自嘲するような苦笑い。
「ただ、オレがそうしたかったから……あなたに、会いたかったから……」
「だから、なぜ……」
そこまで言われてもまだ分からない。
なぜ、会いたいなどと思ったのか。
会いたくない、の間違いではないのか。
けれど混乱する御堂にたいして、克哉はいつになく強い口調で答えた。
「なぜでしょうね……。でも、それならオレも聞きたいです。御堂さんこそなぜ、あんなことを続けていたんですか?」
「あんなこと……?」
「そうです」
克哉の瞳に力がこもる。
握りしめた拳が細かく震えていた。
「……あんなふうにオレを抱くことに、どんな意味があったんですか?  販売目標を達成してからも何度もオレを呼び出して、貴重な睡眠時間さえ削って……。 そこまでするメリットが、あなたには本当にありましたか? それとも、そんなにもオレが嫌いでしたか? 憎かったんですか? それほどまでに……」
最後はシャワーの水音に掻き消されて、聞こえなくなる。
克哉は唇を噛み、それから一度だけ深く息を吸い込むと、絞り出すような声で言った。
「オレは……あなたが…好き、なんです……」
「……!」
耳を疑った。
この男はなにを言っているのだろうか。
私を騙そうとしているのか。
それとも揶揄おうとしているのか。
けれど克哉の声は決して大きくはなかったのに、それはまるで叫びか悲鳴のように御堂には届いた。
「まさか……」
鼓動が速まっていく。
無意識に零れた御堂の言葉に、克哉がまた苦笑する。
「信じられませんよね……。自分でもどうしてこんな気持ちになったのか、よく分からないんです……」
呆然とする御堂の前で、克哉は堰を切ったように話し出した。
「あなたに会えない間、気づいたらあなたのことばかり考えていました……。 あなたにされたこと、あなたに言われたこと、嫌だったこともたくさんあって、でも、そうじゃないこともたくさんあって……」
確かにこの短い期間に、自分たちの間には今まで経験したことのないような出来事が次々と起こった。
憎悪と嫌悪、畏怖、劣等感……己の中にある醜悪なものを否応無しに見せつけられ、抱えきれないほどのマイナスの感情を自覚するはめになった。
それでもともに仕事をしなければならない環境の中、言葉を交わして、体を重ねて、そこには優しさも思いやりもなかったはずなのに、 いつからかどこかで相手を信頼しはじめていたのも事実だった。
誰にも見せたことのない自分を曝け出した相手として、歪な秘密を共有する相手として、親密さに似たものを感じはじめていたのかもしれない。
けれど、それだけで?
それだけで、あれほどの辱めを与えてきた相手を許すことが出来るものだろうか。
ましてや、好きになるなど―――。
「そんな……信じられん……」
「オレもです……」
しかし克哉の言葉にも表情にも嘘偽りは感じられなかった。
そもそも彼が人を騙せるような人間ではないことはよく知っている。
だからこそ、なおさら信じられなかった。
そして同時に、どこかでひどく納得している自分もいた。
ああ、あの感情は。
あの執着は。
「……御堂さん。あなたはオレをどう思っていますか?」
「……!」
ふとかけられた問いに、御堂はハッとした。
そうだ。
ずっと考えていた。
克哉が何を考えているのか分からない。
けれど、もっと分からなかったのは自分自身の気持ちだった。
何故。
克哉に向けていた疑問符が、今は自分に突き刺さる。

<接待>を要求したとき、本当に彼が応じるとはまったく思っていなかった。
それなのに彼は過剰な自己嫌悪と、馬鹿げた自己犠牲の精神をもって屈辱的な状況を受け入れたのだ。
そのことが無性に腹立たしく、許せなかった。
自分の能力を正しく認めることが出来ず、自分で自分を貶めている姿に苛立った。
なにも出来ないような顔をして、なにも望んでいないようなふりをして、自分を押し殺して。
そうじゃないだろう。
顔を上げろ。
私を見ろ。
本当の君を―――私に見せろ。

彼の卑屈な態度に、自分の中にあった嗜虐的な欲求が刺激されたのは間違いない。
けれど、果たしてそれだけだったのだろうか。
それだけが理由で彼を抱き続けたのだろうか。

「君は……」
御堂は克哉の頬に手を伸ばした。
僅かに温もりを取り戻した、滑らかな輪郭を指先で辿る。
「君はいつも私を混乱させ、苛立たせる」
初めて出会ったときから、そうだった。
無遠慮に乗り込んできて、こちらを見透かすようなことを言って、強引に仕事を奪っていった。
かと思えば怯えたように目を逸らし、こちらをまともに見ようともしない。
「……君の態度に無性に腹が立った。君を傷つけずにはいられなかった。君を泣かせ、服従させ、許しを請わせたかった。 そうすれば満足出来ると思っていた。それなのに……」
克哉の髪の先からぽたぽたと雫が落ち続け、御堂の指先を濡らす。
それは涙のようにも見えたけれど、克哉は泣いてはいなかった。
覗き込んだ瞳の奥にあるのは、強くてせつない光。
想いをぶつける、炎のような。
「けれど、いくら君を貶めても満たされることはなかった。苛立ちは増すばかりだった。それは、何故だ? 君は……私にとって、なんなんだ……?」
「御堂、さん……」
克哉の瞳が揺れる。
そこに映る自分の姿を見つめながら、御堂は己自身に問いかけていた。
克哉の言ったことはもっともだった。
なぜ、必要なくなってまで彼を抱き続けたのか。
当初の目的などとうに無意味なものとなっていたのにも関わらず、克哉が拒まないのをいいことに、それに気づいていないようなふりをしていた。
その理由を考えることさえ避けていたのだ。
「私には君が理解出来ない……」
「オレにも……分かりません……」
克哉が呟く。
「どうしてこんな気持ちになったのか、オレも分からないんです……。あれだけのことをされて、悔しくて、辛かったはずなのに……それなのに……」
「……」
「十日あなたに会えないだけで、苦しくて苦しくて仕方がありませんでした。 こんな気持ちになんて、なりたくなかった。こんな想い、あなたに伝えたくなかった。 でも、もう無理なんです……! オレはもう我慢出来ない……」
声が震えている。
それでも克哉は想いを吐き出すことを止めようとはしなかった。
「約束の三か月まで、まだあと少しあります……。でも、あなたがオレを好きでないなら、もうオレを抱くのはやめてもらえませんか?  オレはあなたを愛してしまいました。オレの負けです。だから、もう許してほしいんです。 どうせオレを捨てるなら、これ以上あなたのことを好きになる前に、今ここで捨ててください。お願いです……」
縋りつくような言葉とは裏腹に、克哉はもう覚悟を決めているのだと分かった。
これが最後になると、最後の対峙になるのだと。
「御堂さん……あなたの答えが、ほしいんです……」
克哉はすでに答えを出していた。
拒むことも逃げることも出来たはずなのに、そうしなかった自分への答えを。
そして今、御堂にも答えを出すことを求めている。
彼はそのために冷たい雨に打たれながら、御堂を待っていたのだ。

「……」
御堂はシャワーを止めると、シャワーヘッドを放り出した。
それから克哉の腕を掴み、彼を引きずるようにして足早にバスルームを出る。
「御堂さん?!」
床が濡れるのも構わずに寝室へとまっすぐに向かう。
そして放り投げるようにして克哉をベッドへと沈めた。
「御堂さん! オレの話を聞いていなかったんですか?! オレは……!」
御堂は克哉に覆いかぶさり、暴れる手首を掴んでシーツへと縫い留める。
分からない。
そう思っていた。
けれど、違った。
分からないのではなく、認めたくなかっただけ。
「……お前が言った」
「えっ……」
「お前が言ったんだ。……好きじゃないなら、抱くなと」
御堂の呟きに克哉が目を見張った。
蒼く潤んだ瞳が御堂を見つめる。
「御堂……さん…」
今すぐに、彼が欲しかった。
その理由を言葉に変換する前に、体が答えを出していた。
彼を手離したくない。
彼のすべてを手に入れたい。
嘘も、駆け引きも、なくていい。
ただ抱きしめて、くちづけて、繋がっていたい。
求めて、求められたい。
身体の奥から湧き上がる逃れようのない叫びに従って、御堂は服を脱ぐと、自身の猛りで克哉を貫いた。
「は…あぁッ……!」
少しも慣らさずに無理やり捻じ込んだ場所は、きつく引き攣れて御堂までをも痛みが襲う。
それでもやめる気はなかった。
克哉も全身で御堂を求めているのが分かったからだ。
「御堂、さん……!」
克哉の震える手が、御堂の頬へと伸びる。
触れた指先はもう冷たくはなく、熱が伝わる。
「気持ち、いい……」
「……!」
うっとりと呟く克哉の声と表情に、下肢がずんと重さを増す。
幾度も味わった身体はいまやしっくりと馴染んで、久々に得た快楽に悦んでいた。
克哉の中を満たす熱と、御堂を包み込む熱が溶けてひとつになる。
克哉はそのまま身を乗り出し、自ら御堂にくちづけた。
「御堂さん……あなたが、好きです……」
躊躇いも、恥じらいも、戸惑いも、なにもかもを捨てて、克哉の全身が御堂への想いを伝えてくる。
信じられないと言ったくせに、すべてが腑に落ちていた。
そうだったんだ。
もう、きっと、ずっと前からそうだったのだ。
醜い悪意も傲慢な欲望も、すべてを曝け出したそこに嘘偽りだけはなかった。
誰にも理解されなくてもいいと思っていたのに、本当は必要とされたくて、信じてほしくて、必要としたかったし、信じたかった。
御堂は正反対だと思っていた克哉の中に、受け入れ難い自分自身を見ていたのかもしれない。
酷い始まり方をしたにも関わらず、いつしか互いが互いを必要な存在としていた。
そして今はじめて御堂は克哉を得たと感じていた。
彼と自分が交わって、重なった。
今まで誰といても、こんなにも満ち足りた気持ちになったことはなかった。
この気持ちをまだ言葉にすることは出来なかったけれど、御堂もまた全身で克哉への想いを伝えているつもりだった。
これが私の答えだ。
もう迷わない。
もう揺るがない。
もう、離さない―――と。

- To be continued -
2023.06.30

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