TWISTED 02
それからしばらくの間、孝典が克哉の部屋を訪れることはなかった。
孝典は相変わらず日付が変わる頃に帰宅しては、そのまま克哉の部屋の前を素通りしていってしまう。
そんな日が続くごとに、あれこれと余計なことを考えては空が白み始めるまで眠れなくなっていた克哉は、その日も目が覚めたのは午前十時を過ぎていた。
まだぼうっとしたままの状態でリビングに下りていくと、キッチンで洗い物をしている母の姿が目に入った。
「おはよ……」
「おはようじゃないわよ。今、何時だと思ってるの」
開けた冷蔵庫の扉の陰から、呆れたような声が返ってくる。
克哉はスポーツドリンクの入ったペットボトルを手に取り、リビングへと向かった。
ソファに身を投げ出し、ペットボトルの中身を喉に流し込むと、テーブルの上に置かれた新聞を見るともなくただぼんやりと眺める。
「夏休みだからって、だらしがないわねえ。何か食べる?」
「うーん……」
生返事をしながら、更にペットボトルに口をつける。
目の前にあるテレビは何も映していなかったが、つける気にもならなかった。
「パンでも焼く?」
「うーん……」
「もう、はっきりしてよ。そんなんで大丈夫なの? 宿題とか、孝典がいるうちにやっちゃいなさいよ。これからは見てもらえないんだから」
「……え?」
克哉は一瞬きょとんとした。
母親の言葉はいつも容赦無く、そして脈絡なく次々と飛んでくるのでうっかりすると聞き流してしまうのだが、こればかりはそうもいかなかった。
克哉はソファから身を乗り出して、キッチンにいる母親の方を見る。
「見てもらえないって何? どうして?」
「だって、来月からいなくなるじゃない」
「え?」
血の気が引いていく。
心臓がばくばくと音を立て始める。
何を言われているのか分からない。
「いなくなる、って……なんで?」
息苦しい。
声が上擦る。
克哉が尋ねると、母親はようやく手を止めてこちらを振り返った。
「聞いてないの?」
「何を……?」
「孝典、部屋借りたんだって。来月にはここ出て、一人暮らしするのよ。言ってなかった?」
「言って、な……」
口の中がからからに乾いて、声がうまく出なくて、最後まで言うことは出来なかった。
兄さんが家を出る?
一人暮らしをする?
どうして。
どうして。
頭の中が真っ白になって、克哉はふらふらとソファから立ちあがった。
「それで、どうするの? パンでいい?」
「いらない……」
食欲なんか一気に無くなってしまった。
その後も母親は何か言っていたようだが何も耳に入らず、克哉は呆然としたままリビングを後にした。
再び自分の部屋に戻った克哉は、さっきようやく抜け出したばかりのベッドにまたしても倒れ込んでいた。
うつ伏せになっていると、心臓の音が強く聞こえてくる。
それは今尚、いつもより速いスピードで鳴っていた。
「どうして……」
さっきから幾度もそう呟いていたけれど、自分がいったい何に対して答えを求めているのか分からなかった。
孝典は社会人だ。
しかも勤め先は大手製薬会社のMGNで、一人で暮らしていくには充分な収入がある。
年齢的にも自活するのに不思議はないどころか、むしろ遅いぐらいだろう。
それなら、きっと。
(どうして……オレには何も……)
こんなにも動揺しているのは、孝典が自分には何も教えてくれなかったからだ。
けれどそれこそ考えるまでもなく、理由ははっきりしていた。
教える必要が無かったから。
兄はずっと自分に無関心だった。
勉強を教えてくれるようになったのは母に頼まれたからで、あんなことをするようになったのも単に面白がっていただけなのだろう。
それともずっと嫌われていて、嫌がらせとしてされていたのかもしれない。
暇潰しか、気紛れか。
いずれにせよ遊ぶのに飽きた玩具を放置したからといって、責められるようなこととも思えなかった。
「は……ははは……」
感情の薄い、乾いた笑いが漏れる。
考えれば考えるほど疑問に思うことなど何も無く、孝典に非はひとつも無かった。
いつかはこうなるのが当然であり、むしろ自分は喜ぶべきなのだろう。
もう、あんな恥ずかしい思いをしなくて済む。
両親に対して後ろめたい思いを抱かなくて済む。
けれど胸の中には塵ほどの喜びもなく、何も無い空間に突然ひとり放り出されたかのような寂しさだけがあった。
(バカだな、オレ……)
孝典が勉強を教えてくれるようになったとき、本当は嬉しかった。
ずっと恐れてはいたけれど、自分とあまりにも違い過ぎる兄に怯えてはいたけれど、心の何処かで憧れてもいた。
自分はあんな風にはなれないと分かっていたからこそ、近づきたかった。
一番身近で、一番遠い存在。
誉められたくて、認めてほしくて、勉強も頑張った。
傍にいるとどうしようもなく緊張したけれど、あの胸の高鳴りに別の意味があったことにも気づいていた。
教科書を捲る指先、時折触れる肩、自分の名を呼ぶ声、仄かな香り。
もっと近づきたいと思った。
もっと近づいてほしいと思った。
決して手の届かない人だと分かっていても、手を伸ばしてみたかった。
「兄さん……」
克哉は無意識に腰を揺らし、知らぬ間に膨らみ始めていた自身をシーツに押し付けていた。
あのときも同じだった。
机に座ると、いつも隣りにいるようになった孝典の存在を思い出して、胸が苦しくなった。
そして、今のようにそこに触れていた。
「ふ……」
下着の奥で窮屈になっているものを出して、直に握り込む。
克哉は目を閉じて、孝典の指先を思い出していた。
ずっと、あの手に触れてほしかった。
孝典に恋人がいるかもしれないと考えただけで、堪らなかった。
あの指が、唇が、誰か知らない女性に触れているのかと思うと気が狂いそうになった。
オレに触れて。
オレだけを見て。
克哉は先端を指で擦り、それからゆっくりと手を動かす。
腰の辺りにじわじわと疼きが湧き起こってきて、呼吸は少しずつ乱れていった。
また、こんな風にしてほしい。
あの綺麗な指で。
あの柔らかな唇で。
今思えば、あのとき突然口でしてくれたのも最後のつもりだったからかもしれない。
孝典の様子はいつもと少し違っていた。
じわりと先端から雫が滲んで、指先を濡らす。
半開きのままになった唇からは、ハァハァと荒い息が漏れた。
克哉はきつく閉じた瞼の裏に、今度は孝典の顔を思い浮かべる。
あのとき―――孝典に自慰を目撃されてしまったとき。
見られている、と気づいたにも関わらず手を止めることが出来なかった。
いつも感情の見えない、冷めた視線しか向けてくれなかった兄が、何処か熱を帯びたような目でじっと自分を見つめていた。
その瞳に犯されているとさえ感じて、そのまま射精してしまったのだ。
「兄さん……兄さん……」
克哉は呟きながら、夢中で手を動かしていた。
けれど、あと少しのところで射精することが出来ない。
イきたいのにイけなくて、苦しさに視界が涙で滲む。
「兄さん……イきたいっ……イかせて……」
震える声で懇願するも、その願いは叶わない。
だって、ここにあの人はいないから。
この手はあの人の手ではないから。
もう孝典以外の存在で昇りつめることなど出来なくなっているのに、孝典は自分を置いていくつもりなのだ。
「いや、だ……置いて……いかないで……」
孝典に置いていかれる。
もう触れてもらえない。
もう二度と届かない。
「兄……さん……」
いつしか屹立は力無く萎え、克哉は諦めて手を止めていた。
本当はとうに気づいていた。
ただ、認めたくなかっただけだ。
認めてしまえば、後戻りは出来ない。
絶対に手の届かない人。
いつかは自分を置いていく人。
それでも―――。
「兄さん……好き……」
無意識に零れたのは、許されない言葉と抑えきれない涙だった。
- To be continued -
2010.09.28
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