いつかの君へ 中編
届いた寿司を見ると、克哉はようやく不安を忘れたかのようにキラキラと目を輝かせた。
「すごい……ウニがいっぱい……」
「好きなだけ食べるといい。腹が減っているんだろう?」
「はい、いただきます!」
礼儀正しく手を合わせてから、待ちきれないとばかりに箸を伸ばした克哉に、御堂はくすりと笑う。
そういえば初めて行きつけの寿司屋に連れて行ってやったときにも、
克哉はこんな風に嬉しそうにしていたことを思い出した。
これなら特別に彼の好きなネタばかりを揃えてもらった甲斐があるというものだ。
素直に食事を始めた克哉を見て、御堂もまた箸を手に取る。
こうしていると普段と変わりなく見えるが、やはり少し印象が違っていた。
いつもの遠慮がちな、常に何かに臆するような色はどこにも無く、ひたすらに快活で真っ直ぐな少年がそこにはいる。
ただ頑固なまでの意志の強さが垣間見える瞳だけは、それが同じ佐伯克哉という人間であることを物語っていた。
(それにしても……)
克哉が戻ってしまったのが、よりによって『小学六年生』なのが気に掛かる。
確か以前、克哉は小学校の卒業式の日に親友だと思っていた少年から酷い裏切りにあったのだと話していた。
だとすると、やはりこの年齢は克哉の人生において重要な意味を持つ時期であり、
だからこそ記憶の退行がそこに至ってしまったのかもしれない。
そう思うと、御堂は酷く興味が湧いた。
この頃の克哉が何を考え、どんな気持ちで過ごしていたのか。
今の克哉を形作るきっかけがそこにあったのなら、覗いてみたい。
踏み込むことで克哉を傷つけるかもしれないと思いながらも、
自分ならばそれを救うことが出来るのではないだろうかという自負も少なからずあった。
それに、なによりこんな機会は二度と無いだろう。
だから御堂はいかにも食事中の無意味な雑談を装って、美味そうにウニを頬張っている克哉に話しかけてみた。
「学校は楽しいか?」
「……」
ぴたり、と克哉の動きが止まる。
さっきまでその顔に浮かんでいた僅かな微笑みは静かに姿を消し、代わりに全てを拒絶するような強張った表情が現れた。
克哉は答えず、ただ寿司を咀嚼するためだけに口を動かしている。
「……つまらない、と言いたげな顔だな」
御堂が方向を変えてもう一度言ってみると、克哉はちらりと上目遣いにこちらを見てようやく答えた。
「……つまらないというか、くだらないだけです」
そう吐き捨てた克哉の声には、明らかな憎悪が滲んでいる。
御堂は寿司に箸を伸ばし、敢えて克哉の顔を見ないようにして話を続けた。
「くだらない、か。君は頭が良さそうだからな。同級生が幼く見えるのも仕方あるまい」
「……そんなんじゃありません」
「では、なんだ?」
「……」
克哉は箸を置くと、少し俯く。
その様子は、本当のことを話すべきか否か迷っているように見えた。
「……言いたくなければ言わなくてもいい。無理に聞くつもりはない」
「別に……たいしたことじゃありません。向こうが勝手に態度を変えてきただけなんで」
「ほう……」
御堂の言葉はかえって克哉の自尊心を刺激したらしい。
いかにも自分にとっては瑣末な事なのだとアピールしたかったのか、
克哉は顔を上げると皮肉っぽい笑みさえ見せながら御堂に言った。
「俺は何もしていないのに、いきなり無視したり、上履きを隠したり……バカみたいなことばかりするようになったんです。
文句があるなら、はっきり言えばいいのに」
恐らくは両親にも話せなかったであろうことを、克哉はここぞとばかりに吐き出す。
御堂は複雑な気持ちになりながらも、克哉の話に耳を傾け続けた。
「けど、どうせ卒業までのつきあいだからどうでもいいんです。一人だけだけど、味方してくれてる奴もいるし」
「……」
その一人こそが真の裏切り者であることを、この克哉はまだ知らないのだ。
クラスメイトからの理不尽なイジメに耐えてこられたのは、きっと彼の存在があったからなのだろう。
けれど、彼は克哉を裏切る。
自分こそがイジメの首謀者であることを明かし、そうさせたのは克哉自身なのだと責めるのだ。
だから克哉は自分を変えることにした。
誰からも妬まれず、誰からも羨まれぬよう、自分は何も出来ない無能な人間であると自分に言い聞かせ、平凡な人生を送ることだけを望むようになる。
そんな克哉に苛立ち、酷い仕打ちをしたことを忘れた日はない。
そして、いつの間にか惹かれていたことも―――。
今となっては、克哉のいない人生など考えられなかった。
本来の彼が持つ聡明さも、今の彼が持つ謙虚さも、全てが愛しくて堪らない存在だ。
自分だけは絶対に彼を裏切ることはない。
しばらく二人の間には沈黙が流れ、それから御堂はきっぱりと言い切った。
「……君は大丈夫だ」
「え?」
顔を上げた克哉に、御堂は自信たっぷりの笑みを見せつける。
「君は頭もいいし、実力も人望もある。将来は仕事で成功を治め、否応無しに周囲からも認められるようになる。
何があっても決して君を裏切らない友人や、恋人も出来る。私が保証する」
「な、なんで、そんなこと……」
「間違いない。私を信用しろ」
「……」
あまりにも強く断言されたせいか、克哉は反論の余地を失ってしまったように黙り込む。
けれどさっきまでその目にあった憎悪や諦めの暗い光が薄れているところをみると、満更でもなかったらしい。
その子どもらしい単純さに御堂は微笑んで、克哉の顔を覗き込んだ。
「君は今、好きな子や気になっている子はいないのか?」
「なっ……?!」
途端に克哉は顔を真っ赤にする。
見慣れた反応に思わず吹き出しそうになったが、ここで笑ってしまっては答えてもらえないだろうとなんとか真顔を保った。
御堂の真剣な眼差しに、克哉は口ごもりつつ答える。
「そ、そんなの……いません……」
「ふうん? そうなのか。それはつまらないな」
つまらないと言われたのが癪に障ったらしく、克哉は唇を尖らせた。
「じゃあ、おじさ……御堂さんは、いるんですか?」
「何がだ?」
「だから、その……恋人、とか」
「ああ、もちろん」
反撃のつもりだったのが臆面も無く肯定されて、克哉はまた黙り込む。
御堂はそんな克哉の目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「素晴らしい恋人だ。その人に出会って、私の人生は変わった。その人のいない生活など考えられない。
全身全霊を掛けて愛している。これからも、ずっとだ」
克哉はまるで自分が告白でもされたかのように―――いや、実際そうなのだが、さっきよりも更に顔を赤くして硬直してしまう。
小学生には少し刺激が強すぎただろうかと考えてから、
恐らくは今の克哉であっても反応はさほど変わらないだろうと気がついて、御堂は心の中で笑った。
「とにかく、君もいずれそういう相手に必ず出会える。
君を心から必要とし、心から愛してくれる存在だ。そのとき、世界は変わる。だから、何も心配しなくていい。
君は君の心が求めるままに生きていけ。いいな?」
「……」
御堂の言葉に克哉は何を感じたのか、僅かに目を伏せる。
今、彼に告げた全てのことが、幼い克哉と本当の克哉の二つの心に届くことを御堂は願っていた。
- To be continued -
2010.07.13
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