いつかの君へ 前編
そろそろ夕飯の支度をしますね、と言って克哉がキッチンに向かったのはほんの五分ほど前のことだった。
せっかくの休日なのだから外食で済ませようと御堂は提案したが、
休みの日だからこそ時間を掛けてゆっくり料理が出来るんですよと克哉は笑った。
ただでさえ平日は外食が多いから、克哉なりに御堂の体を気遣ってのことなのだろう。
御堂も手伝えることは手伝うよう心掛けてはいるが、結局は邪魔になるだけだと気づいてからは後片付け専門になっている。
だから今日もまずはリビングで待機するのが自分の仕事だと理解して、御堂はソファに座って雑誌を捲っていた。
ガシャーンという派手な物音がキッチンから響いてきたのは、それからすぐのことだった。
御堂は驚き、手にしていた雑誌を放り出すと克哉のもとへと急いだ。
「克哉、どうした?!」
キッチンの光景を目にした途端、あの忌まわしい記憶が蘇ってきて、さあっと血の気が引く。
床には幾つかの鍋やボウルが散乱していて、その中に克哉がうつ伏せに倒れていた。
御堂はまだガタガタと振動を続けている鍋を乱暴に避けると、克哉の身体を抱き起こす。
「克哉?! 大丈夫か、克哉!」
指先で頬を叩いてみるが、反応はない。
ふと見上げると、上の棚の扉が開いたままになっていた。
どうやらあそこにしまってあった鍋を取ろうとして、他の物と一緒に落ちてきたらしい。
気を失っているということは頭を打ったのだろう。
薄茶色の髪を掻き分けて頭のあちこちに触れてみるが、幸い出血をしている様子はない。
しかし念のため救急車を呼ぶべきだろうかと考えたとき、ようやく腕の中の克哉が小さく呻いた。
「ん……うぅ……」
「克哉! 克哉!」
「……い、って……」
克哉が顔をしかめながら、ゆっくりと目を開ける。
とりあえずは意識が戻ったことに御堂はほっと息を吐いて、克哉の頬を撫でた。
「大丈夫か? どこか痛むか?」
「……」
「克哉?」
克哉はもうすっかり目を開けているものの、御堂の顔をじっと見つめたまま何も答えない。
御堂が嫌な予感を覚えたとき、克哉の唇が動いて―――。
「……おじさん、誰?」
「?!」
「いってぇ……」
克哉は頭をさすりながら身体を起こすと、呆然としている御堂の腕から離れて辺りを見回す。
しばらく無言のまま部屋中に不審げな視線を巡らせた後、それはまた御堂の顔に戻ってきてぴたりと止まった。
「おじさん……誰? ここ、どこ?」
「か、克哉……」
何が起きているのか分からない。
御堂の思考は混乱を極めていたが、それは克哉も同様だったのだろう。
事態を把握する間もなく、目の前の克哉はみるみる怯えた表情になっていった。
「俺……家に帰る。帰りたい……」
「克哉、ちょっと待ってく」
「いや、だ……いやだぁあああ!!!」
「克哉!」
怯えきった克哉はじりじりと後ずさりしながら大声で叫んだ。
その様子と声の大きさに、御堂もまたどうしていいか分からず、慌てて克哉の足を掴む。
しかしそれがかえって良くなかったのか、克哉は御堂の手から逃れようと滅茶苦茶に暴れ出した。
「いやだ! 離せ!! 離せぇーっ!!」
「克哉、待て!! 話を聞いてくれ!!」
「離せ!! やめろ!! 殺さないで!!!」
「克哉!! 落ち着け!!」
パニックになっている克哉をなんとか抑えつけようとして、激しい揉み合いになる。
体格も力も互角なせいで、なかなか決着はつきそうになかった。
それでも克哉が相手だと思うとあまり乱暴は出来ない御堂に対して、
こちらが誰だか分かっていない克哉は手加減無しだ。
殴られ蹴られしながらも、御堂は必死で克哉に食らいついていく。
「克哉!! いいから、落ち着け!! 私が分からないのか?!」
「いやだ!! 離せ!!!」
「私は君を殺したりしない!! 何もしないから、話を聞くんだ!! 克哉!!」
「いやだ!!!」
「克哉!!!」
「ううーっ!!」
御堂は無理矢理、克哉の身体を抱き締めた。
腕の中で暴れ続ける克哉を決して離すまいとして渾身の力を込める。
やがて克哉も抵抗することに疲れたのか、それとも逃げるのを諦めたのか、少しずつおとなしくなっていった。
息を荒げ、額に汗を浮かばせながら抱き締めあっている姿はさぞかし滑稽だったことだろう。
克哉が落ち着いてきたことを確認すると、御堂はほんの少し腕の力を緩め、宥めるように克哉の背中を撫でた。
「克哉……君は、佐伯克哉だろう?」
「そう、だけど……おじさん、誰……? 俺、誘拐されたんじゃ……」
「誘拐?!」
その言葉に驚いて、御堂は身体を離すと克哉の顔をまじまじと見つめる。
一方、克哉はまだ警戒心を解いていない眼差しで御堂を睨みつけていた。
「私が君を誘拐するはずがないだろう……。ここは、」
「……?」
君の家じゃないか、と言おうとして御堂は口を噤む。
この話し方といい、さっきの反応といい、何か違和感があった。
いつもの克哉とは違う―――そう、まるで子どもに戻ってしまったような。
まさか、と思いながらも御堂は克哉に問い掛ける。
「……克哉。君は今、いくつだ?」
「……十一。小六だけど……」
「……」
やはり、そうだったのだ。
不貞腐れたように返ってきた答えに、御堂は愕然とした。
恐らくは頭を打った衝撃で、記憶が退行してしまったらしい。
しかし事故などで一時的な記憶障害に陥るという話はよく聞くが、
それは大抵事故の前後やそれまでの記憶を失うだけで、こんな風に大幅に記憶が遡るなど聞いたことがない。
やはり病院に連れて行くべきかと御堂が考え込んでいると、克哉は不安の中にも憤りの混じった口調で言った。
「……それで、おじさんは誰なの? 俺にばっかり聞いて、ちっとも答えてくれない……」
「あ、ああ。そうだったな」
御堂は思考をフル回転させて言い訳を考える。
とにかく今は克哉の不安を取り除くことを優先するべきなのかもしれない。
事実をそのまま告げても、きっと今の彼には受け入れられないだろうし、その状態で病院に連れて行こうとしてもまた抵抗されるだけだろう。
これ以上暴れられて、殴られたり蹴られたりするのは御免だった。
とりあえずはしばらく様子を見て、彼が落ち着いたら話をすればいい。
(その間に、元に戻ってくれれば一番いいんだが……)
御堂は当面、その僅かな希望にすがることにして口を開いた。
「あー……その、私は君のお父さんの知り合いで、御堂孝典という。
君のご両親は週末用事で留守にしなければならなくなって、その間君を預かってほしいと頼まれたんだ」
「留守? どこに行ったの? 用事ってなに? どうして俺を連れて行けなかったの?」
「そ、それは……」
矢継ぎ早に出される質問に御堂はたじろぐ。
やはり苦しい言い訳だっただろうか。
克哉はますます険しい表情になって、御堂を疑うような目で見ていた。
こういうときは、多少強引に言い切ってしまうに限る。
「……私にも詳しいことは分からない。部外者の私が聞いていいものなのか判断出来なかったからな。
だが、とにかく私は怪しい者ではない。君に危害を加えたりもしない」
「でも……一人でも留守番ぐらい出来たのに……」
「そういうわけにはいかない。君はまだ小学生なんだろう? ご両親も心配する」
「……」
それでも克哉はまだ納得出来ないのか、不満そうに唇を尖らせて御堂からぷいと目を逸らした。
両親に置いていかれたようで、本当は心細いのだろう。
普段の克哉なら滅多に見せないような表情に、非常事態であることも忘れてつい頬が緩みそうになる。
御堂が克哉の頭を撫でてやろうとすると、克哉はまた警戒心を剥き出しにしてその手を払い除けた。
「……いつ、戻ってくるの」
「さあな。二、三日で済むとは言っていたが」
「……」
「とにかく、そういうことだからしばらく君にはここに泊まってもらう。いいな?」
「……分かり、ました……」
渋々といった様子で、克哉が答える。
けれど敬語になったところをみると、少しは今の状況を受け入れることが出来たのかもしれない。
緊張に張り詰めていた空気がようやく緩んだと思ったとき、克哉の腹の虫が盛大に鳴ったのが聞こえた。
「……!」
「ああ、そういえば腹が減ったな。何か頼もう。何が食べたい? 君の好きなものでいいぞ」
「……じゃあ、お寿司」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、ちゃっかり答える克哉に御堂は思わず笑う。
しかも寿司だというのだから、やはりこれは間違いなく克哉なんだなと、当たり前のことながら御堂はなんだかほっとしていた。
「分かった。すぐに手配しよう。それから……」
御堂はすっくと立ち上がり、仁王立ちして克哉を威圧的に見下ろす。
「……な、なんですか?」
「私は、おじさんではない。御堂、だ」
有無を言わせぬ冷たい声が克哉に突き刺さる。
克哉はその凄まじい迫力に射竦められたように、身を縮ませて答えた。
「……はい。御堂さん」
その返事に満足して、御堂は深く頷いた。
- To be continued -
2010.07.08
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