暗夜情火 拾四
そっと店に戻った後は、克哉も宏明も何事も無かったかのように振舞った。
本城に約束を取り付けたとはいえ一抹の不安はまだ残っていたし、いつ孝典が戻るかも分からなかったからだ。
その日も屋敷の中の空気は暗く沈みきっていて、閉めたままの店先では誰もが不安を口にすることさえ恐れているかのように、ただ無言で仕事を続けていた。
年末の大掃除のごとく隅々まで雑巾がけをしたり、薬包紙をひたすらに折り続けたり。
主のいない店では、ただ時間を潰すためだけの作業に没頭するしかなかった。
そうして、ようやく日も暮れ始めた頃―――。
「……ただいま」
前触れもなく戸が開いたと思うと、皆が心待ちにしていた声が聞こえた。
さっきまで下を向いてばかりいた奉公人達が一斉に顔を上げ、その表情を一瞬にして輝かせる。
「旦那様……!」
孝典が戻ってきた。
その場にいた全員がわっと孝典の周りに集まる。
藤田などは余程心配だったのか、涙ぐんでさえいた。
良かった、良かったと安堵の言葉を繰り返す奉公人達を見つめながら、孝典は穏やかに微笑んでいた。
「心配を掛けて済まなかったな。……私が留守の間、何か変わったことは?」
「いえ、特にはございませんでした」
傍にいた宏明が答える。
その光景をただ一人、克哉だけが少し離れた場所から見ていた。
(良かった……本城さん、約束守ってくれたんだ……)
涙が零れそうになるのを辛うじて堪える。
本当は克哉も孝典にすがりつきたかった。
番屋に連れて行かれたと聞いたときは心臓が止まるかと思ったのだ。
怖くて、不安で、けれどそれ以上に孝典を助け出さなければならないと思って無我夢中だった。
だからこそこうして孝典が戻ってきてくれた今、克哉は心の底から安堵していた。
そしてそれと同時に、もう何もかもを終わりにしなければならないのだという絶望のようなものが胸の内をじわじわと浸食していくのを感じていた。
「お前達、よくやってくれたな。明日からはいつもどおり店を開けよう。今日はゆっくり休むといい」
重苦しかった空気は既に無く、皆の顔には笑みが戻っている。
その中を孝典は克哉に向かって真っ直ぐに歩いてきた。
まさか逃げ出すわけにもいかず、けれどまともに顔を見ることも出来ず、克哉は視線を外して俯く。
「……夜、私の部屋に来るように」
「……!」
すれちがいざま克哉にだけ聞こえるよう囁いた後、孝典は奥の部屋へと立ち去った。
夜になってから克哉は言われた通り孝典の部屋を訪れた。
「……入れ」
障子を開けると、出迎えた孝典の髪が少し乱れている。
奥に見える布団が無造作に捲れているのも気になった。
「……もしや、お休みでしたか?」
「ああ……少しな」
お調べがきつかったのだろう、戻ったばかりではさすがの孝典も疲れていて当然だ。
本当ならばそのまま休んでいてほしかったが、呼びつけたのは孝典のほうなのだから仕方がない。
それに克哉は既に心を決めていたから、それほど時間は掛からないだろうと思った。
克哉は中に入ると、孝典と向かい合って正座した。
「……番屋に本城が来たそうだ」
少し間があってから、孝典が切り出す。
克哉はどう反応していいものか分からず、黙ったまま畳に目を落としていた。
孝典も端から返事は期待していなかったのか、そのまま話を続ける。
「直接会ったわけではないから、詳しいことは聞いていない。
だが、奴が来るのと入れ代わりに私が帰されたことを考えればおのずと想像はつく。
あいつが香沙草の件に関わっているであろうことは、以前からだいたい予想がついていた」
「……そうだったんですか?」
「ああ」
意外な話に克哉は思わず顔を上げる。
行灯の灯りに照らされた孝典の顔は、やはり酷く疲れているように見えた。
孝典の唇から微かな溜息が零れる。
「……本城屋の萬通散が評判になった頃からどうもおかしいと思い、密かに調べていたのだ。
あいつが時折出入りしている廻船問屋がどうも怪しいように思えたのだが、確たる証拠も根拠も無かったのでどうすることも出来なかった。
あいつは以前にも偽薬販売に関わりそうになったことがあってな。そのときは私が止めたのだが、今回は……」
そう言って、孝典は口惜しげに唇を噛む。
やはり友人を真の意味で救えなかったことを悔やんでいるのだろう。
つきあいが絶えてからも、孝典は心の片隅で本城のことをずっと気に掛けていたのだと思うと克哉の胸はますます痛んだ。
いくら孝典を助けるためとはいえ、その孝典自身が大切に思っていた友人を脅すような真似をしてしまったのだから。
「本城が全てを知っていながら一枚噛んでいたのか、それともあやつもまた騙されていたのかは分からない。
だが、私は……」
「……知らなかったんです!」
「……克哉?」
思わず声を上げると、孝典が訝しげに眉を寄せる。
もう、何もかもばれてしまっても構わなかった。
ただ孝典に自分を責めてほしくなかった。
「あの方は、何も知らなかったんです……。だから、旦那様が捕まったと聞いてすぐに番屋に行ってくださったんです。
本当に悪いのは、きっと別の人なんです」
「克哉、お前は……」
「あのっ……!」
克哉は何かを言おうとした孝典を遮って、畳に額をこすりつけた。
そして、一息に告げる。
「オレ……この店を、お暇させていただきたいと思います……!」
涙が零れないよう、きつく目を閉じながら言った。
「……オレは旦那様の命に背きました。旦那様にご迷惑ばかり掛けてしまいました。
もうこれ以上、ここに置いて頂くわけには参りません。長い間、お世話になりまして……本当にありがとうございました!」
「……」
最後は声が震えてしまったけれど、それでもきちんと伝えることが出来た。
これでいい。
孝典は無事に店に戻ってきてくれた。
本城がどれほどの罪に問われるかはまだ分からないが、首謀者が別にいるのなら軽い刑で済むだろう。
あとは自分が消えれば全てが丸く収まるはずだ。
そうすればもう孝典に迷惑を掛けずに済む。
孝典に不快な思いをさせずに済む。
そう思っているのに、克哉は背中を丸め、深く頭を下げたまま顔を上げられずにいた。
今、孝典の顔を見れば泣いてしまいそうだった。
だから、もう少しだけ。
克哉がなんとか気持ちを落ち着かせようとしていると、不意に孝典が立ち上がる気配がした。
それから、その気配がすぐ傍にまで近づいくる。
「……顔を上げろ」
低い声が聞こえ、恐る恐る目を開けると視界に孝典の手が見えた。
その指先がゆっくりとこちらに伸ばされてきて、克哉はそれを追うようにして顔を上げる。
そこには膝をつき、何処か傷ついたような目で克哉をじっと見下ろしている孝典の姿があった。
「……本当に辞めたいのか」
「えっ……」
「本当にこの店を辞めたいのかと聞いている」
「……」
はっきりと肯定しなければならないと分かっているのに、喉が詰まったようになって声が出ない。
思わず目を逸らし、辛うじて小さく頷くと孝典の指先が克哉の頬に触れた。
「……!」
克哉はびくりと身体を強張らせる。
孝典の指が頬から顎へゆっくりと滑っていく感触に、震える吐息が漏れた。
今までに触れられたときの記憶が頭の中にも体の奥にも蘇ってきて、その波に溺れそうになる。
決して強い力でそうされているわけではないのに、自然と顔が上がっていく。
それでも孝典の顔を見るのが怖くて、視線だけは交わらないようにしていた。
「これは……」
孝典が呟く。
その声に克哉ははっとして、露わになっていた首筋を手のひらで覆い隠した。
「何故、隠す? 見せてみろ」
「い、いえ、これは……」
「いいから、手を離せ!」
無理矢理に剥がされた手の下から現れたのは、ついたばかりの小さな痕だった。
本城の前で自ら小刀を宛がったときに出来た傷だ。
きちんと手当てをしなかったせいか、乾いた血がこびりついたままになっている。
「……本城にやられたのか」
思わぬことを言われて、克哉は慌てる。
「ちっ、違います! これは、自分で……!」
「自分で……?」
「……っ!」
余計なことを言ってしまったと気づいたときには遅かった。
一瞬、孝典が顔を歪めるのが見えたと思うやいなや乱暴に腕を引かれ、胸の内に抱きすくめられる。
その力の強さに、克哉はただ呆然と体を預けることしか出来なかった。
「馬鹿者が……」
耳元で苦しげに吐き出された孝典の声が聞こえる。
その声は、まるで自分自身が傷を負ったかのような痛みに満ちていた。
「あ、あの……これは、うっかり自分で引っ掻いてしまっただけで……」
「……」
「本当に……その……まったく、痛みもありませんし……」
「……」
「たいした傷ではなくて……あの……ですから、旦那様……」
「……黙れ」
「う……」
とにかく何か言わなければいけないような気がした克哉は必死で言い訳を口にしたが、
孝典にぴしゃりと諌められて黙り込むしかなくなってしまう。
そうしているうちに更にきつく抱き締められて、孝典の鼓動が聞こえるほどになる。
その規則的な音と体温の高さに包まれながら、克哉はこのまま時が止まってくれたらいいのになどとぼんやり思っていた。
「……本城からの言伝だ」
「え……」
「お前に感謝している……と」
ようやく孝典の腕が緩む。
克哉はゆっくりと顔を上げた。
本城からの言葉を聞いて、克哉の心がほんの少しだけ軽くなる。
けれど相変わらず孝典への罪悪感が消えることはなく、克哉は再び俯いた。
そんな克哉の頬に孝典の手が触れる。
「……お前が何を隠そうとしているのかは分かっている。お前が私の為に、何をしてくれたのかも……」
「あの、オレは……」
「店を辞めるなどということは認めない。お前はずっとここにいるのだ。……私の傍に」
「旦那様……!」
克哉は慌てて孝典から身を離した。
そして先ほどのように居住まいを正すと、もう一度頭を下げて畳に額を擦りつける。
「……こんなオレを置いてくださって、本当にありがとうございます。ですが、もう……もう、これ以上は……」
自分で辞めると決めたはずなのに、孝典が引き止めてくれたことがこんなにも嬉しい。
嬉しいけれど、それに甘えてはいけないと思った。
それになにより、もうこれ以上は耐えられそうになかったのだ。
孝典の傍にいることにも、想いが通い合ってもいないのに抱かれることにも、それでも膨らみ続ける孝典への思慕にも。
このままでは押し潰され、心が粉々に壊れてしまう。
だから、もう逃げ出したかった。
孝典から遠く離れた場所へ逃げて、全てを忘れたかった。
けれど逃げることを赦してほしいと願う克哉の思いをよそに、孝典の冷たい声が降ってくる。
「……駄目だ」
「旦那様……!」
すがるような克哉の悲鳴にも、孝典は揺るがない。
「そんなにも嫌なのか」
「え……」
「私の傍にいるのが、そんなにも嫌なのかと聞いている」
「オ、オレは……」
そんな問いにどう答えれば良いというのだろう。
いっそ嫌なのだと肯定してしまえればいいのに、それも出来ない。
口ごもる克哉に、孝典の眼差しは一層鋭さを増す。
「お前が私を拒絶するのであれば、私はまたお前を閉じ込めておかなければならなくなる」
「どうして……どうして、そんな……」
「……分からないのか?」
孝典の腕が伸びてくる。
克哉が思わず怯えたように身を硬くすると、さきほどの荒々しさとは打って変わって壊れ物を包み込むかのように柔らかく抱き締められた。
それから耳朶に唇が触れるほどの距離で囁かれる。
「お前を……愛しているからだ」
その告白は白昼夢のように現実味が無かった。
頭の中が真っ白になって、周囲の景色が消えていく。
孝典の唇が耳から頬、髪へと幾度も触れているのに何も感じない。
克哉は呆然と孝典を見返した。
「旦那、様……?」
「私はお前を手離す気はない。お前はそれでも私を拒むのか」
「だって……そんな……い、いけません、オレなんて……」
克哉はほとんど反射的にふるふると首を振りながら、孝典の腕から逃れようとした。
そんな克哉を孝典は尚更愛しそうに抱き締める。
「何がいけない。番屋にいる間、またお前が無茶をするのではないかと気が気では無かった。
だから、決めたのだ。ここを出られたら、そのときはお前にきちんと話をしようと」
「旦那様……」
「お前にはいろいろと辛い思いをさせてしまったと思う。今更こんなことを言うのは虫がいい話かもしれない。
だが……私はお前に傍にいてほしい」
少しずつ、少しずつ孝典の言葉が克哉の中に染み込んでくる。
それにつられるように鼓動が速くなって、息をするのも苦しくなってきた。
克哉は途切れ途切れに想いを吐き出す。
「でも……オレは旦那様に、ご迷惑しか掛けられなくて……」
「……それで?」
「オレは……旦那様の命令にも背いてしまって……」
「そうだな」
「だから、オレは……もうここには居られないと……」
「そんなことは勝手に決めるな。私が聞きたいのは、お前の気持ちだ」
「オ、オレは……」
本当に言ってもいいのだろうか。
口にしてしまえばきっともう二度と戻れなくなる。
歯止めが効かなくなる。
分かっていても、溢れ始めた想いを止めることは出来なかった。
「オレ……オレは……旦那様を、お慕いしております……」
もう、ずっと。
ずっと、ずっと、好きだった。
克哉の目尻から涙が一筋流れる。
それを指先で拭いながら、孝典は嬉しそうに微笑んだ。
「克哉……」
唇が重なる。
いつもの虚しさが付き纏うような接吻ではなく、互いの気持ちを確かめ合うための、言葉に出来ない想いを伝えようとする深いくちづけ。
心の内に遮るもののなくなった今、克哉は素直に孝典を求めていた。
唇を重ねたまま忙しなく帯を解き合い、着物を肌蹴ると、熱い肌を重ね合わせる。
畳の上に仰向けに倒され、燃えるような孝典の瞳に見下ろされるとそれだけで肌が汗ばんだ。
「私の克哉に、こんな傷をつけて……」
忌々しげに呟きながら、孝典は克哉の首筋に顔を埋める。
舌の先が傷の上を這うと、克哉はくすぐったさと快感に身を捩った。
「んっ……」
痛みは無く、ただじわりとそこから熱が広がる。
克哉は無意識に孝典の下肢に足を絡め、その身体を引き寄せていた。
もっと激しく。
自分の全部を奪ってほしい。
孝典の舌はやがて胸の上に滑り落ちてくる。
既に硬くなっている尖りを舐められると、全身に痺れるような快感が走った。
「あぁっ……は、ぁ……」
もう幾度もされたはずのことなのに、まるで初めてのように感じる。
孝典の唇が触れた場所、全てが熱くて溶けてしまいそうだ。
あんな薬に頼るよりも余程気持ちがいい。
次第に身を捩るたび下帯越しに屹立が擦れ合い、早く繋がりたくてたまらなくなってきた。
それは孝典も同様だったのか、胸への愛撫もそこそこに手は克哉の下肢へと伸びていた。
「克哉……」
何処か心もとないような孝典の顔を克哉は見つめかえす。
克哉が恐々手を伸ばすと、その指先を孝典が捉えた。
そして自らの頬にそっと添える。
もう、孝典に触れてもいいのだ。
もう我慢しなくていいのだ。
克哉は喜びでいっぱいになって微笑んだ。
「来て、ください……」
うっとりと呟くと、孝典が克哉の足を抱え上げた。
それからゆっくり孝典自身が克哉の中を穿っていく。
身体も心も愛する人で満たされていく感覚に克哉は恍惚の表情を浮かべた。
ずっとこんな風に抱かれたかった。
ずっとこんな風に求めたかった。
克哉が孝典の首に両腕を回して引き寄せると、熱の塊が一息に克哉の中を貫く。
克哉は孝典の腰に足を絡め、自らも貪欲に快楽を求めた。
「あっ……旦那、様……! あぁ、は、んぁっ……」
「克哉……」
恥も理性ももう既に無い。
声と吐息が漏れるに任せて、克哉は喘いだ。
もっと奥まで来てほしくて腰を浮かせると、それに応えるように孝典もまた激しく中を打ちつける。
やがて孝典が大きく身を揺らしながら克哉に囁いた。
「克哉……私の名を呼べ」
「えっ……」
「私の名を呼べ」
克哉は少し躊躇って、孝典の顔を見た。
いつも何か苦しげに克哉を抱いていた孝典の表情は、今は全く違っている。
きっと孝典も自分と同じように幸福を感じてくれているのかもしれない。
そう思うと、克哉の口からは自然とその名が零れた。
「た、か……孝典……さん……。孝典さん、好きです……!」
「克哉……」
その瞬間、自分の中で更に大きくなる孝典自身を感じた。
何も考えられなくなって、何を言っているのかも分からなくなって、ただ喘ぎ続ける。
幸せで、幸せすぎて胸が苦しい。
この幸せを二度と離したくない。
克哉は全身全霊で孝典を求め、また受け入れた。
やがてその欲望が放たれ、注がれたものをも受け止めながら、克哉は生まれて初めてと言っていいほどに自分が心から満たされているのを感じていた。
- 続く -
2012.05.16
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