暗夜情火 拾弐

軋んだ音を立てて蔵の扉が開いたのは、それから半刻ほど経って表の騒ぎもとうに収まった頃のことだった。
外は薄曇りだったけれど長らく蔵の中にいた克哉には射し込んできた光は充分眩しく、思わず目を眇める。
そこに立っていた人物は逆光でよくは見えなかったものの、きっと孝典であろうと疑いもしなかった。
「克哉……!」
しかし、懐かしいとさえ思えたその声の主は孝典ではなく同じ奉公人の宏明だった。
「宏明……どうして」
「どうしてもこうしてもないだろう! 大丈夫なのか?」
「えっ? あ、ああ……」
そういえば孝典以外の人間とは随分と顔を合わせていなかったのだ。
心配そうにしている宏明に何か言わなければと思うが、彼らが孝典からどう話を聞いているのかも分からない。
困惑したまま言葉を濁していると、宏明が自分の姿を不審な目で見ていることに気づく。
克哉は緩んでいた襟元を慌てて直しながら、作り笑いを浮かべてみせた。
「オレは別に大丈夫だよ。それよりも……」
気になるのは、さっきの騒ぎのことだ。
そもそもここに来たのが孝典ではなく宏明だったこともおかしい。
「なんだか言い争っているような声が聞こえたけど……店で何かあったのか?」
尋ねながら克哉が蔵の外に視線を送ると、宏明は沈鬱な面持ちで眉間の皺を深くした。
その深刻そうな表情に、克哉の胸を不吉な予感が過ぎる。
「……宏明?」
「実はさっき……突然、岡引と同心がやってきて、旦那様を連れていってしまった」
「えっ……?!」
思いも掛けない話を聞かされて克哉は凍りつく。
いったい、何があったというのか。
克哉は動転しながら宏明を問い詰めた。
「どうして?! 何故、旦那様が?!」
「落ち着け、克哉。正直、俺達にもよく分からない。ただ、最近妙な噂があったんだ」
「妙な噂……?」
「ああ。香沙草という名前を聞いたことはあるか?」
「コウシャソウ? いや……」
その名称から植物、恐らくは薬種の類なのであろうことは想像がつくが、少なくとも店で扱っている物の中で耳にしたことはない。
孝典に頼まれて清書をしていた帳面に似た名前があったような気もするが、それも定かではなかった。
「俺も実物を見ていないから詳しいことは知らないんだが、最近になって唐から入ってきた薬種らしい。 話によると阿片によく似た効果がありながら、阿片よりも安価なのが売りなんだそうだ。 しかし、まだ効能などに分からない点も多い為こちらには出回っていない……はずだった」
唐から持ち込まれた薬種の多くは長崎から大坂を経由して江戸に運ばれるが、 それらが生薬として売られるまでには学者や医者が真偽の吟味をしたり、薬効の検査をしたりする必要がある。
しかし、今回は事情が違っているようだ。
宏明は僅かに声を潜めて話を続ける。
「最近、この香沙草が密かに江戸でも売り買いされているらしい。 同心が言うには、どうも船頭達の間でこれの抜き荷が流行していて、それを裏で捌いているのがうちの店ではないかと……」
「まさか! そんな馬鹿なこと、あるわけがないじゃないか!」
克哉は思わず声を上げていた。
孝典がそんな犯罪に加担するはずがない。
どう考えても濡れ衣だ。
怒りを露わにする克哉に、宏明も同意する。
「勿論、俺達もそう言って抵抗したさ。だが連中は詳しい話を聞くだけだからとかなんとか言って、旦那様を番屋に連れて行ってしまった。 まったく、どうしてこんなことになったのか……」
「そのときの旦那様の様子は?」
「旦那様は香沙草について御存知だったようだ。だが、無論うちが裏で捌いているなどあるわけがない。 誤解が解ければすぐに戻れるはずだからと、落ち着いた様子で仰っていた。そのときに、この鍵を渡されて……」
「あ……」
宏明は手のひらに乗せた蔵の鍵を克哉に見せる。
「お前が蔵の中にいるから、後で出してやってくれと頼まれた。旦那様のことも心配だが、俺はお前のことも心配していたんだ。いったい、何があったんだ?」
「……」
再び自分の話に戻ってしまって、またしても克哉は口を噤む。
宏明は信用出来る友人だと思ってはいるが、それでも本城屋に騙されてかどわかされたなどと言いたくはなかったし、 孝典もそこまでは話していないだろうと思った。
いったい、どう説明するべきか。
(本城屋、か―――)
その名を心中で呟いたとき、克哉はふとある考えに思い至る。
もしや、これは彼の差し金なのではないだろうか。
阿片に似た効果があるという香沙草とは、あのとき自分に試した薬のことではなかったのか。
だとしたら本当にそれを裏で捌いているのは本城屋で、彼はその罪を孝典になすりつけようとしているのではないか―――。
証拠は無いが、そんな気がしてならない。
もし違っていたとしても、なんらかの形で本城屋が関わっていることだけは間違いないように思えた。
「宏明、ごめん。オレ……」
一度思ってしまえば、もう居ても立ってもいられなかった。
今すぐ本城に会って確かめたい。
すぐにでも孝典を助け出したい。
しかし宏明は何かを察したのか、克哉が全てを言い終える前にそれを遮って克哉を制した。
「旦那様は俺に、お前が勝手な行動をしないようよく見ておけと仰った。 もう一度聞くが、いったい何があったんだ? いなくなったお前を旦那様が連れ帰ってきてくださったことは知っている。 その後は、とにかくお前が落ち着くまでそっとしておくようにと言われただけだ。 お前の面倒は全て旦那様が見るからと」
「宏明……」
「本当に何があった? 何故、答えない? 俺にも話せないようなことなのか?」
宏明は克哉の肩を掴み、強い口調で尋ねる。
彼が自分を心から心配してくれているのはよく分かったし、それでも話さないことに対して苛立つのも最もだった。
けれど、やはり克哉は黙り込むことしか出来ない。
宏明はしばらく待ってくれていたが、どうしても口を開こうとしない克哉にとうとう諦めたのか肩に置いていた手を離すと大きな溜息をついた。
「……分かった。もう、何も聞かない。だが、俺は旦那様の言いつけを守らなければならない。 頼むから妙なことだけは考えないでくれ」
「……ごめん」
余計なことを話して、宏明を巻き込みたくはない。
その場での克哉はおとなしく頷くほかなかった。

その日はもう店を閉めるしかなかった。
孝典が岡引連中に連れて行かれたことはあっという間に広まってしまったらしく、 野次馬達が遠巻きに店を見にくるばかりで客も寄り付かない。
とても商売が出来るような状態ではなかった。
奉公人達はみな暗い顔で押し黙り、不安を隠せずにいる。
それでも何もせずにいるよりはましだと思うのか、それぞれが出来る仕事をして時間が過ぎるのだけを待った。
克哉もまた孝典の部屋で書き物の続きをしながら夜を待つ。
そうして皆が寝静まった頃、克哉はそっと部屋を抜け出した。
(ごめん、宏明……)
全ての準備を済ませると、夜も更けた町を小走りで本城屋へと向かう。
あれだけ心配してくれていた宏明を裏切ることになってしまうのは気が咎めるが、どうしてもこのままじっとしてはいられなかった。
本城は絶対にこの件に関わっている。
何がなんでも彼の口から真実を聞き出し、孝典を助け出さなければならない。
そうでなければ孝典は濡れ衣を着せられたまま処罰されてしまうかもしれないのだ。
(旦那様……)
この間は孝典に助けてもらった。
今度は自分が孝典を助ける番だ。
そうして孝典が無事に戻ってきたことを確認出来たなら、そのときは店を辞めよう。
これだけ主の命令に背いてしまった奉公人が、もうこれ以上勤め続けるべきではない。
それにこんなことになってしまったきっかけを作ったのは、きっと自分なのだ。
疫病神のような自分は孝典の傍から離れたほうがいい。
(旦那様、オレは―――)
克哉は固く心に決めて、懐に収めてあるものに手を当てる。
何がなんでも孝典を助け出す。
これが自分に出来る最後の恩返しになるのだから。
必ず―――この命に代えてでも。

- 続く -
2012.02.14

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