暗夜情火 九
泥沼からようやく這い上がれたような目覚めだった。
身体中が怠く、鈍痛がする。
重い瞼を細く開けると、薄暗い木の天井がぼんやりと見えた。
―――ここは何処だろう。
確かめたわけではなかったけれど、なんとなく自分の部屋ではないような気がしたのだ。
遠くから微かに人の声がする。
けれど部屋の中はしんと静まり返っていて、誰の気配も無い。
視線を動かしただけで見える範囲は狭かったが、やはり見覚えのない部屋だった。
―――本当に何処なのだろう。
頭の中は霞がかかったようにはっきりとしなかったが、不思議と不安は無かった。
起き上がろうと身体に力を入れた途端、腰の辺りに激痛が走って克哉は顔を顰める。
その痛みに驚きさえしながら起きることを諦めて再び布団に横になったとき、昨夜の記憶が急激に蘇ってきた。
昨日、本城に騙されて連れ去られたこと。
妙な薬を飲まされたこと。
そして、孝典が助けに来てくれて―――。
「……ッ!!」
思い出して、身体中がかっと熱くなる。
孝典に背負われているときに起きたことも、その後部屋に戻ってから孝典にされたことも、何もかも悪い夢にしてしまいたかった。
けれどよく見れば着ているのは自分の着物ではなく、下帯すら着けていない。
なによりこの身体を苛む酷い痛みが、全ては現実に起きたことなのだと告げていた。
「……っ……く……」
克哉は勢いよく布団を被ると、歯を食いしばって漏れそうになる嗚咽を堪えた。
頭の中が混乱している。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ほんの少しでいいから、孝典の役に立ちたかっただけなのに。
いや、そんな風に願うこと自体が思い上がりだったのかもしれない。
きっと孝典は出過ぎた真似をして迷惑を掛けた自分に腹が立ったのだ。
だから、あんな―――。
「……!」
駄目だ、思い出すな。
克哉は何かを堪えるようにきつく目を閉じ、唇を噛んだ。
思い出したくない。
思い出したくないのに、その記憶はまざまざと脳裏に蘇る。
そのとき、誰かの足音が近づいてきたかと思うと襖がすうっと開く音がした。
「……?」
「……ようやく目が覚めたのか」
「!!!」
恐る恐る布団から覗き見ると、そこに立っていたのは孝典だった。
克哉はつい先ほどの痛みも忘れて慌てて起き上がろうとしたが、やはり同じことを繰り返しただけだった。
「無理をするな。休んでいろ」
言いながら孝典は克哉の傍に腰を下ろし、持っていた盆を畳の上に置いた。
怖い―――。
昨夜感じたのと同じ恐怖が襲ってきて、克哉は震え出した。
しかし孝典はいつも通り、何処までも冷静で落ち着き払っている。
まるで昨夜のことなど無かったかのように。
けれど克哉は孝典と目を合わせることすら出来ず、横になったままただ視線を彷徨わせていた。
「……随分と長く眠っていたな。もう夕刻だ」
しばらくの沈黙の後、孝典が思いのほか優しい声でそう言った。
その声に、克哉の緊張がほんの少し緩む。
「あ、あの……申し訳、ありません……」
「気にするな。お前は具合が悪いから休ませると他の者達には伝えてある。……そもそも、お前が詫びることではない」
克哉の謝罪に孝典は僅かに気まずそうな顔をした。
それが何故か少しだけ嬉しくて、克哉は孝典への恐怖心が薄らいでいくのを感じた。
「あの……すみません、ここは……」
「ここは私の部屋だが」
「えっ」
克哉は改めて周囲を見回す。
どうやらここは孝典が普段寝起きをしている部屋のようだった。
屋敷内の掃除は下働きの仕事のひとつだが、この部屋だけは孝典自身がやることになっているので奉公人が出入りすることは無い。
それはこの部屋に重要な帳簿や店の金が保管してあるからだろうと、克哉達は暗黙のうちに了解しあっていた。
だから克哉も襖の向こうにある書き物などをする部屋からここがちらりと見えたことはあっても、実際にこうして足を踏み入れたのは初めてだった。
(旦那様の……部屋……)
恐らくここは孝典の唯一個人的な空間なのだろう。
他の者が入った話を聞いたことがないし、寧ろ決して立ち入らないよう言われている。
そんな場所にこうして布団を敷いて寝ているなど、あまりに立場を弁えていないことではないか。
「あの、オレ……」
「駄目だ」
再度起き上がろうとした克哉の肩を、孝典は押さえつけて布団に戻す。
その断固とした物言いと態度には、さきほどまでのような優しさは微塵も感じられなかった。
「……私がいいと言うまで、しばらくこの部屋から出ることを禁じる」
「えっ……?」
突然の命令に、克哉は絶句する。
「店の者達には適当に言っておく。食事は私がここに運ぶ、厠はそのときに行け。禁を破ったなら……仕置きを与える」
「あ、あの、でも……」
「反論は認めない。……食べられるようならば食え」
枕元に置いた握り飯を顎で示すと、孝典は立ち上がる。
「とにかく今はゆっくり休め」
「あ……」
そうして孝典が克哉に有無を言わせぬままに部屋を出て行くと、克哉は再び薄暗い部屋に一人取り残された。
いったいどういうことなのだろうか。
いずれにせよ今の身体の状態では仕事に出ても使い物にはならないだろうけれど、
それでも回復までには幾日も掛からないだろう。
それに部屋から出るなと命じてきたときの孝典の表情は冷たく、身体を労わってくれているのとは少し違っているような気がした。
やはり孝典は怒っているのだろうか。
それとも。
「……」
考えても答えは出そうになかった。
何もかも分からない。
頭が痛い。
克哉は疲れきって目を閉じた。
また、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
今度は人の声もしない、完全なる静寂だ。
部屋は暗かったが、襖の隙間から灯りが細く漏れている。
向こうの部屋では孝典がまだ起きているようだった。
「……」
今度はゆっくりと身体を起こしてみる。
まだ多少の痛みは残っていたけれど、起き上がれないほどではなかった。
ふと枕元に置かれたままになっている握り飯が目に入る。
あまり空腹は感じていなかったけれど、食べなければ勿体無いと思い手に取った。
一口齧ったところで、しばらく何も口に入れていなかった所為か克哉は咳き込んでしまった。
「……大丈夫か」
襖が開き、孝典が入ってくる。
孝典は克哉の傍に膝をつくと、背中を擦りながら湯呑みに注いだ水を差し出した。
克哉はそれを急いで喉に流し込み、なんとか事無きを得る。
ようやく呼吸が落ち着くと、克哉は孝典に頭を下げた。
「あ……ありがとう、ございます。旦那様……」
「いや……」
向こうの部屋にある行灯の淡い光で、こちらの部屋もほんの少し明るくなる。
不意にそういえば孝典は何処で眠るつもりなのだろうかと、克哉は疑問に思った。
(まさか……同じ部屋で……?)
そう考えた途端、鼓動が僅かに跳ね上がる。
孝典への恐怖心は確かにまだあったけれど、長い間温めてきた恋心はそれだけで消えたりはしなかった。
さっき背中を擦られたときも嫌悪などは感じなかった。
なんだか急に恥ずかしくなって俯いていると、孝典が低い声で言った。
「……まだ、身体は痛むか」
「は、はい……少し……」
「そうか」
克哉の答えを聞くと孝典は立ち上がり、部屋の隅にある物入れの引き出しから何か小さな容器を持ち出してきた。
普段、店で薬を入れる為に使っているものに似ている。
孝典は元の場所に戻ると、容器の蓋を開けた。
甘い香りが仄かに鼻先を漂う。
「……そこに四つん這いになれ」
「え?」
「手当てをしてやる」
克哉は戸惑い、身を硬くした。
せっかく薄らいできた孝典への恐怖心が再び蘇ってくる。
怯えながら上目遣いに孝典の顔を見ると、彼は何処までも冷たい視線をこちらに向けていた。
「聞こえなかったか? 手当てをしてやるから、四つん這いになれ。早く」
「……」
さっきと同じだ。
この部屋から出るなと告げられたとき。
あのときと同じく一切の反論を許さない口調に、克哉は従うほかなかった。
おずおずとうつ伏せになると、尻を突き出すようにして四つん這いの格好になる。
孝典は克哉の足元のほうに移動すると、いきなり着物を捲くり上げた。
「ひっ……!」
昨夜の出来事を思い出して、克哉は身を竦める。
下帯さえ着けていない尻を剥き出しにされて、羞恥と寒さに鳥肌が立った。
「……心配するな。軟膏を塗るだけだ」
「う……」
孝典はあっさりと言うが、それだけでも充分に羞恥の極みである。
恥ずかしさで震える身体を抑えきれない。
そのとき後孔にぬるりと冷たい感覚がして、克哉の身体が跳ね上がった。
「ひゃっ……!」
「……力を抜いていろ」
「っ……くッ……」
克哉は布団についた両手に額を押し付けて、その羞恥と異物感に耐えようとした。
孝典の指は克哉の後孔の周囲をなぞるように動き、それからほんの少し中へと入り込む。
薬でぬめる指先は抵抗もなくそこへ埋められたが、傷ついた箇所に触れられるとぴりりと痺れるような痛みが走った。
昨夜、その場所は確かに孝典を受け入れたのだ。
焼けるような熱に裂かれ、突き上げられ、成す術もなく揺さぶられた。
あんな風に肌を重ねたくなどなかったのに。
想いも告げぬうちに、繋がりたくなどなかった。
けれど孝典の形に穿たれたそこは初めて味わった衝撃的なまでの感覚をどうしようもなく覚えてしまっていた。
孝典の指がゆっくりと探るように蠢くたび、恐怖や痛みとは別のものが身体の中に産まれ始めるのを克哉は確かに感じていた。
「……う……あ……」
指先はときに浅く、ときに深く、敏感な皮膚を撫でていく。
もどかしいほどの切なさが下肢に広がりだし、布団についた腕ががくがくと震えた。
「……なんだ、感じているのか」
「……!! ち、ちがっ……」
否定した声は、まるで泣いているようだった。
恥ずかしくて、情けなくて、克哉はただひたすらふるふると首を振る。
けれど、孝典からはすっかり硬く勃起した克哉の陽物がしっかりと見えていた。
「これでも、違うのか?」
「は、あっ……!」
無遠慮に屹立に触れられ、びくんと背中が反りかえる。
相変わらず後孔に指を差し入れられたまま、陽物の先端をも扱かれて、どうしようもないほどの快楽が押し寄せてくる。
「や、やめ……やめて、ください……!」
「そう言いながら、後ろも前も随分とひくついているが」
「旦那、様……!」
懇願しても孝典の手は止まらない。
ぬるぬると孔を出入りする指先、屹立を扱く冷たい手のひら、先端からは透明な雫がだらだらと溢れて布団の上に糸を引いて落ちる。
口ではやめてほしいと言いながら、克哉はまるで強請るかのように腰を揺らし、尻を突き出していた。
「あっ……ダメ、です……出て、しまいます……旦那様……!」
「出せばいい。昨夜のように」
「!!!」
不意に孝典が克哉の耳元に唇を寄せる。
暖かく、湿った吐息が頬に掛かった。
「……昨夜のように乱れながら果てればいい。お前は淫乱なのだから、仕方あるまい」
「そん、な……」
「誰に触れられても、お前はこうして欲情するのだろう? 我慢することはない。……さあ」
「あ……ん、あぁッ……!!」
一際強く扱かれ、耳朶を甘噛みされた瞬間に克哉は限界に達した。
後孔で孝典の指先をきつく食みながら、その手の中に精を吐き出す。
犬のような格好をしたままびくびくと身体を震わせている克哉を、孝典はいつしか燃えるような目で見つめていた。
「……克哉」
「んっ……」
絶頂の余韻で朦朧としている中、孝典に唇を奪われる。
初めての接吻かと思ったが、この感触に克哉は覚えがあった。
(ああ、昨夜も―――)
意識が途切れる前、何か柔らかなものが触れたと思ったのは唇だったのか。
そんなことを考えているうちに孝典の舌が忍び込んでくる。
克哉もまた無意識にそれに応え、二人は舌を絡め合った。
(どうして、くちづけなんて―――)
嫌われたのではないのだろうか。
軽蔑されたのではないのだろうか。
孝典と唇を重ねているにも関わらず、喜びの感情は少しも湧いてこない。
あるのはたくさんの疑問符と、虚しさだけ。
克哉はただしっかりと目を閉じて、この空虚な時間が早く過ぎてくれることだけを祈っていた。
- 続く -
2011.11.06
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