暗夜情火 七
部屋は意識を取り戻す前のような、真の暗闇で満たされていた。
僅かな光も入ってこないくせに、何処からか隙間風が吹き込んでいるのだけは分かる。
人の声も、物音も外からは入ってこない。
ただ耳の奥では血液が全身を掻け巡るどくどくという低い音がずっと鳴り響いていた。
それに混じるのは自分の吐き出す掠れた呼吸音と、時折ごくりと喉が鳴る音。
それから逃れようのない激しい欲求に身を捩るときに起きる、乾いた摩擦音だけだった。
「くっ……」
何も見えず、何も出来ない所為で、意識は下肢ばかりに集中してしまう。
克哉は自分でも気づかぬうちに腰を揺らし、解放の為の僅かな刺激をつい求めては、はっと我に返りその欲望をなんとか抑え留めることを繰り返していた。
こんなところで果ててしまいたくない。
本城の思い通りになりたくない。
心ではそう思っていても、身体は言うことを聞こうとしない。
硬くそそり立った屹立からは、透明な蜜が止め処なく溢れて下帯を濡らしはじめていた。
(旦那様……)
泣き出しそうになりながら、頭に思い浮かぶのはやはり孝典のことだった。
本城が戻ってこないところを見ると、彼はきっとまだこの家の中にいるに違いない。
助けてもらえなくて構わないと思っていたはずなのに、やはり孝典が探しに来てくれたことに安堵している自分がいた。
本城はどうする気なのだろうか。
本当に自分は帰してもらえるのだろうか。
しかしたとえここから出られたとして、もう一度あの店で働けるのだろうか。
自分勝手なことをして、こんな迷惑を掛けてしまったのだ、許してはもらえないかもしれない。
いや、許してもらえたとしても、もうあそこには居られないだろう。
あの店で働けなくなることを考えるだけで辛くなる。
孝典の傍にいたいのに。
ずっと、ずっと、いたいのに。
「…っ……は……」
孝典のことを想ううちに、またしても克哉は無意識に腰を揺らしていた。
屹立が緩んだ下帯の布地に擦れて、その僅かな刺激にさえ肌が粟立つ。
どうしたらいいか分からず悶えるように腰を捻ると、冷たく硬い床板に下肢が触れた。
「はッ……! ん……あ、あぁ……」
思わず声が上がり、全身がびくびくと波打つ。
もう、我慢出来ない。
薬によって攻めたてられた身体は、もはや理性では制御出来ないところにまできていた。
腰は重く痺れ、陽物は今にも弾けそうになっている。
「あぁ……く…ぅ……」
いつしか克哉はうつ伏せになり、みっともなく下肢を床に押し付けて腰を振っていた。
しかし思うように与えられない刺激がもどかしくて涙が滲んでくる。
もっと、強くしたい。
両手できつく握り締めて、激しく扱いてしまいたい。
けれど両手両足を戒める縄は少しも緩みそうになかった。
湿った衣擦れのような音は止むことを知らず、吐く息はますます荒くなる。
ここが何処なのか、今がどんな状況なのか、そんなことさえ考えられなくなってきたとき―――。
「……ッ!!」
ごとりと音がして、暗闇に薄明かりが差し込んだ。
その光にはたいした明るさもなかったけれど、真っ暗闇にいた克哉には眩しささえ感じられるほどだった。
思わず動きが止まり、呼吸が止まり、腹の奥がすうっと冷えるのを感じる。
「……克哉?」
「あ……」
名を呼ばれ、我に返ったときには既に手遅れだった。
「克哉!」
孝典が駆け寄ってくる。
助けられて嬉しいはずが、克哉は心の底から絶望していた。
―――見られてしまった。
今の克哉は着物の前が全てだらしなく開かれ、下帯さえも緩められている。
その奥にはすっかり勃起した陽物があり、しかもそれを床に擦りつけているところを見られてしまったのだ。
冷静に考えれば、暗くて孝典にはそこまで見えなかったかもしれない。
それでもこんな姿をしていれば明らかに異常だということぐらいは分かるだろう。
孝典はどう思うだろうか。
何が起きたのかと尋ねられたなら、なんと答えればいいのだろうか。
いやだ。
答えたくない。
孝典が手足の縄を解いてくれている間も、克哉は今すぐここから消えてしまいたい気持ちでいっぱいだった。
「大丈夫か?」
「旦那、様……」
けれど孝典は何も尋ねてはこなかった。
謝らなければいけなかったし、礼も言いたかったけれど、恥ずかしくて情けなくて口惜しくて声が出ない。
克哉は孝典の目を見ることも、身体の震えを止めることさえも出来ずにただ俯いていた。
「……」
縄を解き終わると、孝典は改めて克哉の姿をまじまじと見つめる。
そして一瞬、躊躇うように手を止めたものの、すぐに着物の前を合わせてくれた。
それから立ち上がり、ゆっくりと本城を振り返る。
「貴様……克哉に何をした?」
「……さっき話した薬だよ。効果が本物だってことを、お前にも見てもらわなくちゃと思ってね。どうだい? ちゃんと効いているだろう?」
「こ、の……!」
孝典は怒りに任せて本城に掴みかかったが、本城は怯みもせずされるがままになっている。
二人はしばし睨み合っていたが、やがて孝典が押し殺したような声で呟いた。
「……阿片か」
「……さあね。同業者としては、さすがに成分は秘密にさせてもらいたいね」
「これは、正規の手段で入手したものなんだろうな?」
「……何が言いたい?」
「何が言いたいのか分からないのか?」
「……」
突然本城の顔つきが険しいものになる。
その顔を見て孝典は掴んでいた本城の襟元から手を離すと、彼の身体を突き飛ばした。
本城はよろめき、壁に背中を打ちつける。
「痛っ……何を……」
「……さっきの金はくれてやる」
「は……?」
「その代わり、二度と私に……私と私の店の者に近づくな。金輪際、貴様とは関わらん」
これほどまでに冷ややかな孝典の声を、克哉は初めて聞いたような気がした。
孝典は袂から紙切れを取り出すと、それをびりびりと破いて床に撒き散らす。
本城はそれを見ながら言葉を失ったように呆然としていたが、孝典はそんな本城を無視して背中を向けると、再び克哉の傍に跪いた。
「……行くぞ。立てるか?」
「は、はい……」
腕を引かれ、克哉はいまだ震える膝でなんとか立ち上がる。
そしてそのまま孝典に支えられながらゆっくりと歩き出した。
孝典も克哉も本城にそれ以上声を掛けることもせず、彼を振り返ることさえしなかった。
外はまだ暗かった。
身を切るほどに寒いはずが、克哉の身体は解放出来なかった熱を抱えたままの所為か寒さを感じない。
ただ孝典は克哉を支えたまま本当にゆっくり歩いてくれたが、薬の効果が残っている克哉は足に力が入らず、幾度も転びそうになった。
「すみませ、ん……旦那様……」
「……謝るな。お前が謝ることではない」
「……」
互いにもっと言うべき言葉があるような気がしたが、頭がうまく働かない。
ただ今はとにかく早く歩かなければと思っていた。
引きずるようにして必死に足を運んでいると、不意に孝典が克哉の前に背中を向けてしゃがみ込む。
「旦那、様……?」
「おぶされ」
「えっ……!」
驚いて、治まりかけていた鼓動がまた強く鳴る。
しかし突然そんなことを言われても、素直に甘えられるはずがなかった。
戸惑ったままおろおろしていると、孝典が肩越しにこちらを振り返る。
「どうした。早くしろ」
「あ、あの、でも……」
「その調子では朝まで掛かっても帰れるか分からぬから言っているのだ。いいから、早くしろ。寒くて凍えそうだ」
「う……」
確かに自分の歩く速さにつき合わせて、孝典に長く寒い思いをさせてしまうのは嫌だった。
かと云って、やはり幾らなんでも孝典に背負ってもらうわけにはいかない。
自分は重いし、もう大丈夫だから置いていってもらえればそれでいい。
時間は掛かっても必ず店に戻りますから。
克哉がそう申し出ると、孝典は酷く怒った顔をした。
「……いい加減にしろ。もとはといえば私の所為でこんなことになったと言うのに、お前は私をそれほどまでに人非人にしたいのか」
「い、いえ、オレはそんなつもりじゃ……」
「だったら、早くしろ。これは命令だ」
そこまで言われては遠慮するほうが悪いようだ。
しかし、本当にいいのだろうか。
克哉が恐る恐る孝典の肩に手を伸ばすと、その指先を孝典がぐいと掴んで引いた。
「あっ……!」
克哉はよろめき、孝典の背中に覆い被さるように倒れ掛かる。
すかさずもう両の手が後ろに廻ってきて、結局克哉は孝典に背負われてしまった。
「申し訳、ありません……」
「……いいから、しっかり捕まっていろ。離れられると、かえって背負いづらい」
「は、はい、分かりました……」
つい身体を密着させまいとしてしまうが、それがいけなかったらしい。
克哉は言われた通り、孝典にしっかりと腕を回してしがみついた。
(あ……)
すっと伸びた首筋から、孝典の匂いがした。
克哉は胸を満たす幸福感に思わず目を閉じる。
(―――信じられない)
こんな幸せがあってもいいのだろうか。
これほどまでに近くで孝典を感じられる日が来るなんて思いもしなかった。
孝典の背中はとても暖かく、頬に触れる髪はとても柔らかい。
ずっと夢見ていた温もりが、今ここにある。
心臓が早鐘を打つ。
また身体が熱くなる。
(……ッ!)
愛する人と触れ合っていれば、それは当然とも思える現象だった。
萎えかけていた克哉の陽物が、再び硬さを増して頭をもたげはじめる。
さきほど解放出来ないままになっていた欲望がまた目を覚ましてしまった。
(どうしよう……!)
これだけ密着しているのだ、孝典が気づいていないはずがない。
大きく足を開いて背負われている克哉の陽物は、ちょうど孝典の腰の辺りに押し付けられていた。
しかも孝典が歩くごとに、その振動が腰に響いて快楽をもたらす。
それを堪えようとして孝典に強く掴まれば、尚更身体は昂ぶるばかりだった。
「……気にするな」
「え……」
「我慢しなくてもよい」
「あ、あの、オレ……」
やはり気づいているのだ。
今にも弾けそうになっていることを孝典に知られているのだと思うと、恥ずかしくて死にたくなる。
けれどそれで快楽が遠のくわけでもなく、むしろそれは近づいてくるばかりだった。
「―――ッ!」
そのとき、孝典が勢いをつけて克哉を背負いなおした。
その振動は今までで最も大きく、孝典の腰で布地越しに擦られた屹立は先端から蜜を少し漏らしてしまった。
咄嗟に克哉は孝典の首にしがみつき、果てそうになるのを堪える。
はぁはぁと吐き出す荒い息が孝典の首筋に掛かってしまっているのは分かっていたが、これ以上どうすることも出来なかった。
「や……やめて、ください……旦那様……」
おぶってもらっておきながら、つい恨み言のようなことを言ってしまう。
けれどそれほどまでに今の克哉は追い詰められていた。
開いた足の内腿がぶるぶると震えている。
「……我慢しなくてもよいと言った」
「でも……オレ……」
「出してしまえばいい」
「そ、そんな……っ」
そんなこと出来るはずがない。
孝典の背中でなど、そんな。
想像するだけで羞恥に狂いそうになりながらも、一方ではこの苦しみから早く解放されたいと願っている。
我慢のしすぎか下肢は鈍く痛み、頭の中は欲望を解き放つ瞬間の快楽だけを思って朦朧としてくる。
―――もう、駄目かもしれない。
克哉がふとそう思ったとき、孝典が再び克哉を背負いなおした。
抱えられた足がぐいと引き寄せられ、限界まで張り詰めた陽物が孝典の腰に強く押し付けられる。
「あっ……や……ぁ…ッ……!」
克哉は一層強く孝典にしがみついた。
それでもなお射精を堪えようと強張った身体が、抵抗も虚しく孝典の背中でぶるりと大きく震える。
熱く猛った欲望は堰を切ったように溢れ出し、屹立の小孔から勢いよく噴き出した。
「あ、ッ……! あぁっ! あ、んっ……ふ……う、っ……」
どろりとした白濁が噴き出るたびに克哉の腰はびくびくと痙攣し、喉の奥からは堪えきれない喘ぎ声が漏れる。
目の前が白くなるほどの快感。
それは羞恥も屈辱も理性も、何もかもを意味の無いものにしてしまった。
僅かに汗ばんでいるような孝典の首筋に顔を埋めながら、克哉はただその底無しの快感に深く深く溺れていた。
- 続く -
2011.08.11
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