暗夜情火 六

泥沼にずぶずぶと沈んでいく。
ねっとりとした何かが身体中にまとわりついて身動きが取れない。
手も、足も、指一本すら思い通りにはならなかった。
ここにあるのは、それ自体が重さを持っているかのような暗闇だけ。
自分が目を開けているのか閉じているのかさえも分からない。
苦しい。
苦しくて苦しくて、死んでしまいそうだ。
今すぐに息をしなければ、きっと二度と目覚めることは出来ないのだろう。
死にたく、ない―――。
そう思ったとき、乾いて貼りついた唇を誰かが無理矢理に抉じ開けた。
咄嗟に息を吸おうと喘いだ口に、しかし空気以外の何かがどっと流れ込んでくる。
「―――ッ!」
酷く苦いそれは、喉を焼きながら否応無しに身体の奥へと落ちていってしまった。
克哉は反射的にえづき、咳き込む。
息苦しさはますます酷くなり、自由にならない手足のまま、陸に打ち上げられた魚のようにのたうちまわった。
そうして頬に硬い床が擦れるのを感じて、初めて自分が泥の沼ではなく地面の上にいるのだと気がついた。
「……おやおや、大丈夫かい?」
聞き覚えのある柔らかな声がして、恐らくはその声の主が背中をさすってくれている。
その温もりは徐々に克哉の身体と心を落ち着かせ、意識をはっきりとしたものにさせてくれた。
ああ、生きている―――。
実感した克哉は恐る恐る目を開けた。
しかし咳き込んだときに涙が出たせいか、ただでさえ薄暗くてよく見えない視界は更にぼんやりと滲んでいる。
何処かの部屋の中。
いっとう間近に見えたのは、まだ背中をさすってくれているらしい誰かの着物の縞模様。
その向こうには小さな橙色の灯火がちらちらと揺れていた。
「う……」
声を出そうとしたものの、喉と頭の後ろが鈍く痛んで、掠れた呻き声のようになってしまう。
ここは何処だろうか。
いったい自分は何をしているのだろうか。
この人は誰なのだろうか。
必死で思考を手繰り寄せようとしている克哉の顔を、その男が覗き込んだ。
「……気がついた?」
「っ……!!」
男の顔を見た瞬間、叫び声を上げようとした克哉はまた激しく咳き込んでしまう。
「ああ、大丈夫かい? 落ち着いて」
もう一度背中をさすろうと伸びてきた男の手に、克哉は身体を捻じ曲げて全力で拒絶の意を示した。
薄暗い路地の奥にいた彼。
文を受け取ろうとしたとき突然後頭部に強い痛みを感じて、それから後の記憶が無い。
そして今、自分は見知らぬ場所にいる。
手足が自由にならないのは、それぞれをきつく縄で縛られているからだった。
「ほ、ん……じょう……」
憎々しげに名を呟くと、その顔が息が掛かりそうな距離まで近づく。
「……そうだよ。俺だよ」
本城屋の若旦那はそう答えて、少し笑った。
「どう、して……」
騙されたのだ。
暮れ六つの鐘が鳴り、約束どおり克哉は店を出て本城の元へ向かった。
しかし本城は初めから孝典に文を渡す気など無かったのだろう。
そうして孝典を餌に自分を呼び出し、連れ去ったのだ。
―――馬鹿だった。
どうしてこんなよく知らぬ男の言葉を容易く信じてしまったのか。
噂はあくまで噂に過ぎないが、火の無いところに煙は立たないとも言うではないか。
なにより孝典の本城に対する態度を見れば、この男が信用出来る人物かどうか予想はついたはずなのに。
しかし、いったい何の目的があってこんなことをするのか分からない。
自分を連れ去ることにどんな意味があり、なんの必要があったのか。
これから、何が起きるのか。
己の愚かさを呪いながらも決して屈服だけはするまいと鋭い視線を送ってくる克哉に、本城はほんの僅か申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「ごめんよ、君を巻き添えにしてしまって。まだ頭は痛むかい? あまり強くしないように言っておいたんだけど……やっぱり金で雇ったゴロツキなんてあてにはならないよね」
「……ここは、何処なんですか」
「俺の家だよ。だから安心して」
こんな状況でどう安心しろと言うのか。
睨みつけてくる克哉に対し、やれやれと肩を竦める仕草が白々しい。
その口先だけの謝罪に、克哉は怒りを露わにした。
「そんなに怖い顔をしないでくれよ」
しかし身体の自由を奪われている克哉に本城を圧する力は無く、彼はむしろ克哉を哀れむような目つきで見下ろしていた。
「別に俺は君に恨みがあるわけじゃないからね。あいつがここに来るまでの間、少しだけつきあってくれればそれでいいんだ。 あいつのことだから、すぐに見つけてくれるんじゃないかなぁ。多少時間が掛かっても……それはそれで俺は構わないけどね」
「あいつ……」
「もちろん、御堂のことだよ。文ぐらいで動いてくれるわけがないんだ」
すました顔でそう言って、本城は立てた膝の上に頬杖をつく。
まるで観察されているような視線に居心地の悪さを感じて身じろぎするも、無理に動けば手足に縄が食い込んで痛むばかりだった。
苦痛に顔を歪める克哉を、本城は興味深そうに眺めている。
「とにかくあいつは頭が固いからね。御堂がもう少し融通の利く人間だったら、こんなことしなくても良かったんだけど……本当にごめんね」
何が融通だ。
全てを孝典の所為にするような本城の身勝手な言い分を聞いていると、腸が煮えくり返ってくる。
その所為だろうか、次第に身体が熱くなってきたような気がした。
さっきまで底冷えするほどの寒さを感じていたはずなのに、今は冷たい木の床が頬に心地いい。
克哉は白い息を吐きながら、額に汗を滲ませて呟いた。
「……それで、あなたはいったい何がしたいんですか」
「……」
本城は薄ら笑いを浮かべるばかりで何も答えない。
克哉は苛立ちが顔に出ないよう平静を装いながら本城に畳みかけた。
「……あなたの目的がなんにせよ、旦那様があなたの思い通りになるとは思えません。……もちろん、オレも」
「そうかな?」
「ええ。それに、オレはあなたのことを誰にも話していない。旦那様がここにいらっしゃるとも思えません」
「ふうん……」
本城に騙されたことは口惜しかったが、誰にも口外しないという約束を守っておいたことだけは正解だったと克哉は思った。
話をしていて分かったが、この男の真の狙いは自分ではなく孝典なのだ。
自分を人質にして、孝典に何か良からぬことをさせようとでも考えているのだろう。
それならば尚更孝典にここに来てほしくなかった。
孝典のことだからきっと自分を探してくれるだろうけれど、どうか見つけ出さないでほしい。
こんなことになってしまったのは自業自得なのだから、助けてもらえなくても一向に構わなかった。
それよりも、こんな男には少しでも関わってほしくない。
本城の思い通りにだけは絶対になってほしくなかった。
(申し訳ありません、旦那様……)
ただ孝典に心配を掛けてしまうであろうことだけが辛かった。
別に自惚れているわけではなく、孝典はそれが奉公人であろうと誰であろうと等しく心配するだろう。
そういう人だから、好きになったのだ。
相変わらず涼しい顔をしてこちらを見下ろしている本城の目を、克哉は真っ直ぐに見返した。
それにしても、身体が熱い。
息苦しい。
何故か鼓動がやたらと速まっていた。
「……もしかして、熱いのかい?」
「……!」
表情には出していないつもりだったのに、気づかれて少々うろたえる。
それでも尚、克哉は本城から目を逸らさずにいた。
「熱いんだろう? 無理に平気なふりなんてしなくていいんだよ」
「無理なんて……」
「痛いところはないかい? ああ、縛っている以外の場所でね。たとえば頭とか、お腹とか……」
尋ねながら、本城は克哉に手を伸ばす。
少し湿った前髪を冷たい指先が払い除け、額に触れた。
「どうかな? 何処か痛むかい?」
「……」
殴られた頭も、喉のの痛みもだいぶ引いていた。
今は後ろ手に縛られている手首だけが痛い。
それよりも克哉は本城の態度に違和感を覚えていた。
これは心配されているわけではない。
さきほど、まるで観察されているようだと感じたのは気の所為ではないようだ。
まさか―――。
「……思ったより早く効くみたいだな」
「―――!」
その呟きで全てを理解した克哉の顔色がさっと変わる。
意識が戻る直前に飲み込んだ……あの、喉を焼きながら落ちていった液体のことを思い出した。
克哉が視線を彷徨わせると、本城の足元に小さな椀が置かれているのが目に入る。
(何か……飲まされたんだ)
それが分かった途端、克哉は一気に激しい不安に襲われた。
本城も薬屋の若旦那なのだ、薬の調合などは手馴れているはず。
だからこそ命に関わるようなものを飲ませることはさすがにしないだろう。
しかし克哉自身も薬のことが分かるだけに、どんなものを飲まされたのかと怖くなる。
何をどのくらい混ぜたのか、どんな効果がある薬なのか。
考えているうちにも身体からはどんどん汗が噴き出し、鼓動はますます速くなっていく。
息苦しさも強くなって、克哉の呼吸は荒くなっていった。
「……なるほど」
勿体ぶったように頷いて、本城が克哉の頬を撫でる。
触るな。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
嫌悪感に顔を逸らそうとするが、本城の無遠慮な手は止まらない。
「随分と汗を掻いているみたいだね。……ちょっと他のところも見せてね」
「な、に……? あっ……!」
いきなり着物の前を肌蹴られて、克哉は驚きに目を見張る。
汗に濡れた肌が冷気に晒されて、ぶるりと大きく身体が震えた。
「くっ……や、め……」
弱々しい克哉の抵抗など無視して、本城の手は克哉の頬から首筋へゆっくりと滑っていく。
そこから乱れる呼吸に上下している胸のうえを撫で、脇腹の辺りを何度か軽く押した。
熱い。
身体中の血が物凄い速さで駆け巡っているようだ。
不意に下腹の辺りがずんと疼いて、克哉は無意識に両の膝を擦り合わせた。
「……悪いね。こっちも見せてもらうよ」
「えっ……?」
意識が朦朧としはじめてくる中、本城の手が帯にかかって克哉は慌てる。
「なっ……いったい、なにを……?!」
「大丈夫。男同士なんだから、恥ずかしくないよ」
「やめっ……いや、だ……」
抵抗しようにも手足を縛られた状態では何も出来ない。
それどころか身体に力が入らなくなってきた。
あっという間に帯を解かれ、下帯をつけた下肢までもが露わになってしまう。
「……良かった。ちゃんと反応しているね」
「えっ……?」
言われた言葉の意味が分からず聞き返そうとしたとき、本城が下帯に包まれた膨らみをするりと撫でた。
「は、ぁっ……!」
思いもかけず甘い声が漏れて、身体がびくりと大きく跳ねる。
克哉のそこは確かに勃起していた。
まさか、これがその薬の効能なのだろうか。
(媚薬……)
そこに思い至り、克哉はぞっとする。
その類の薬に対する知識は持っていたが、当然自分で試してみたことなどなかった。
どの程度の効き目があって、どれぐらいの時間持続するものなのか分からない。
最悪の場合、このまま本城の前で酷い屈辱を味わうことになるかもしれないと思うと堪らなかった。
そうしているうちにも下肢の疼きはどんどん強くなってくる。
本城に見られまいと身体を捻ろうとするが、腰の辺りを押さえつけられてしまった。
「弱めに作ったつもりだったんだけど……君は随分と感じやすいみたいだね」
「そんなの、知らな……」
「……ああ、そうか。御堂に可愛がってもらってるんだ?」
「なっ……!!」
羞恥と怒りのあまり、目の前に火花が散ったかと思った。
そんなことあるわけがないじゃないか。
それは孝典に対する酷い侮辱だ。
孝典が自分になんて、そんなことあるわけが……。
「んっ……」
思わず漏れた吐息は、何処か濡れて響いた。
正直に言って、想像したことならいくらでもある。
孝典が自分の肌に触れてくれること。
唇を塞がれ、きつく抱き締められ、互いの肌が重なること。
本城の言葉に触発されてつい浮かんでしまったその光景は、今の克哉にとってあまりにも甘美な匂いを漂わせていた。
「へえ……男でもなかなかそそるものだね」
「な、に……?」
「それとも、君が特別なのかな?」
本城は話しながら、弄ぶように克哉の下帯の縁をゆっくりとなぞる。
その薄い布の奥ではすっかり勃ち上がったものが痛むほどにびくびくと脈打ち、解放を求めて雫を零していた。
「やめ、ろ……触るな……!」
「どうして? そのままじゃ辛いだろう? 俺の所為なんだ、ちゃんと責任は取るよ」
面白がっているような本城の声。
いやだ、いやだ、いやだ。
言い表せない恐怖に支配され、きつく閉じた目尻から涙が滲みそうになる。
そしてとうとう本城の指先が下帯をぐいと引いた、そのとき―――。
「―――!」
何処かから戸を叩く大きな音と、微かな人の声がした。
本城が手を止め、舌打ちをする。
「……思ったより早かったなぁ。もう少し君で試したいことがあったのに……」
忌々しげに吐き捨てる本城を見て、克哉は孝典が来たのだと悟る。
「旦那、さ……!」
「しっ。こんな格好を見られてもいいのかい?」
思わず大声を上げようとした克哉の唇を本城の指先が塞いだ。
本城はにやりと笑い、止めた手の動きを再開させる。
「あっ……!」
克哉が躊躇った隙を狙いすまして、下帯が緩められる。
屹立が布の端から覗いて、慌てて腰を曲げて隠そうとするも、それはかえって下肢への刺激になるだけだった。
「御堂の返事次第ではすぐに返してあげるよ。だから、おとなしく待ってて」
「くっ……」
本城は袂から布を取り出すと、克哉に猿轡を噛ませた。
確かにこんな姿を孝典にだけはみられたくない。
おとなしくなった克哉の態度を了解と受け取ったのか、本城はにっこりと笑って蝋燭の火を吹き消した。
部屋の中が暗闇に包まれる。
本城の離れていく気配がして、戸の開閉に合わせてぼんやりと外の灯りが差し込んだ。
戸を叩く音はまだ止んでいない。
(旦那様……)
ごめんなさい。
どうか、こんな男の言うなりにはならないで。
ひとり闇の中に取り残された克哉は、祈るような気持ちで目を閉じた。

本城がそこに辿り着いたときには既に戸は開けられていて、凶悪な面相をした孝典を前に本城の父親がおろおろしているところだった。
「ああ、嗣郎。御堂さんが……」
「うん、分かってるよ。後は俺がやるから、父さんは休んでて」
「そ、そうか……? それでは、すみませんが私は失礼させて頂きますので……」
父親は御堂にぺこぺこと何度も頭を下げて、言われたとおり奥に引っ込んだ。
本城は昔から父親のことがあまり好きになれなかった。
何故かあの男は昔から御堂屋に対して媚びるような態度ばかり取るからだ。
確かに店の売り上げでは明らかに本城屋のほうが劣っているだろう。
孝典が主として御堂屋を継いでからは、その差はますます開いてしまった。
しかし、それもこれも父がなかなか自分に店の経営を任せなかった所為だと本城は考えている。
そんな父親の態度に苦々しい視線を送ってから、本城は孝典に向き直った。
「やあ、御堂。久し振りじゃないか。もう少し明るい時分に来てくれると、もっと嬉しかったんだけど」
御堂がここを訪れるのは実に三年ぶりだった。
そんな時の流れなど感じさせないほど親しげに本城は話しかけたが、孝典の眉間の皺は深く刻まれたままだった。
「……分かっているのだろう」
「はあ? 何がだい?」
本城が空とぼけてみせると、孝典の眉間の皺は更に深くなる。
「克哉を返してもらおうか」
「かつや? 何のことだい? さっぱり訳が分からないよ」
「……ッ」
本城は肩を竦める。
業を煮やした孝典はそんな本城を乱暴に押し退けて、家に上がり込んだ。
何度も来たことのある家だ、間取りなら良く知っている。
孝典は部屋から部屋へと、片っ端から克哉を探して廻った。
「上がってくれるのは構わないけど……随分と乱暴なんだなぁ」
必死で克哉を探す孝典の後ろを、本城はのんびりとついてまわる。
孝典との付き合いは長かったけれど、これほどまでに動揺している彼を見るのは初めてだった。
本当はすぐにでも克哉のことを条件に交渉に入るつもりだったのだが、 そんな孝典の様子があまりに愉快で、ついとぼけてしまう。
しかし結局、さっき顔を合わせた父親の部屋と、奉公人二人が使っている部屋以外には誰も見つけることが出来なかった。
そしてとうとう、家の中で一番奥にある本城の私室の前に辿り着く。
孝典は勢いよく障子を開けた。
しかし、そこにもやはり誰もいない。
それでも尚、何処かに人の気配を感じられはしまいかと耳を澄ませてみたが、返るのは静寂ばかりだった。
「……気が済んだかい?」
孝典は振り返り、後ろから尋ねてきた本城の胸倉を掴む。
「克哉を何処へやった?!」
「だから、なんのことだよ」
「貴様は克哉を呼び出すために、店に女を寄越した。いったい何の話があった? 何を企んでいる?!」
「……」
二人はしばらく睨み合っていたが、これ以上とぼけても無駄だと観念したのか、本城が溜息をついた。
「……まったく、口止めしておいたのに。これだから女は信用ならないんだ」
「本城!」
今にも殴りかからんばかりに胸倉を掴み上げてくる孝典の手を、本城は強引に振り解く。
「分かったから、落ち着けよ。とぼけて悪かった。確かに克哉君の居所なら俺が知っている」
「やはりっ……!」
「だから、待てって。彼ならすぐにでも返してやるさ。でも、それにはちょっとした条件がある」
「条件……だと……?」
「そう、条件だ。簡単なことさ。まずは、俺の話を聞いてもらいたい」
「……」
謀をしておきながら開き直る本城に、孝典は怒りを抑えきれない。
しかし燃える目で睨みつけても、本城は自分が優位に立っていると確信しているのか余裕の笑みさえ浮かべていた。
仮にも友人だった男からの心無い仕打ちに、孝典は口惜しさのあまり唇を噛む。
「……無理だと言うなら仕方ない、諦めるよ。そのかわり、克哉君は貰っておこうかな。あの子、なかなか可愛いじゃないか」
「貴様……ッ!!」
かっと頭に血が昇る。
けれど、とにかく今は一刻も早く克哉を助け出すことが先決だ。
殴るのはその後でいくらでも出来る。
孝典はなんとかそう自分に言い聞かせて、震える拳をきつく握り締めた。
「……分かった。話を聞こう」
「ありがとう。恩に着るよ」
拒否出来ないよう自ら仕向けておきながら、本城は白々しく礼を言う。
ひとまず二人は本城の私室に入ると、向かい合わせに腰を下ろした。
月の明かりだけが畳を青白く照らす中、本城がやや声を上擦らせて話しはじめる。
「実は、新しい薬を作ったんだ」
その途端、孝典が顔を顰めた。
予想通りの反応に、本城は肩を揺らして笑う。
「お前はそういう顔をすると思ったよ。でも、今度こそは本物さ。効果も既に確認済みだからね」
「……いったい、なんの薬だ」
「滋養強壮……って言えばいいのかな。元気が出る薬だよ」
「はっ……」
胡散臭い。
孝典はますます顔を顰めて、三年前のことを思い出していた。
その頃、本城屋の金繰りはかなり逼迫していて、追い詰められた本城はとうとう孝典に金を借りに来たのだった。
孝典は友人の窮地を救うのに金を貸すことぐらいやぶさかではなかったのだが、事情を詳しく聞けば火の車の原因はほとんどが本城の自業自得としか思えないものばかりだった。
挙句、手持ちの生薬が足りないからと小麦粉で嵩増しした薬を売ったこともあるとまで言うではないか。
偽薬販売は重罪だ。
孝典が咎めると本城は「今はもうしていない。しかし、そのときは止むを得なかったのだ」と言い訳した。
しかし孝典はどうしてもそれを許すことが出来ず、御堂屋の生薬を幾分か譲るかわりに金を貸すことを断ったのだ。
お前が真剣に店を続ける努力をし、それでも尚困ることがあったなら、その時こそ手を貸そうと言い残して。
本城と孝典の付き合いが途絶えたのは、それからだった。
「……それで? その薬がどうしたと言うんだ?」
うんざりしながら孝典が尋ねると、待ってましたとばかりに本城は身を乗り出す。
「もう一度言うが、この薬は本物なんだ。とても良く効く。だが、この薬を作り続けるにはまとまった金が必要でね。そこで、お前の手を借りたいんだ。 大丈夫、必ず売れるからすぐに返せるさ。もちろん、色を付けてね」
「……金、か」
呟いて、孝典は溜息をつく。
この男はあの頃と少しも変わっていないようだ。
いや、人質を取るなど以前よりも悪くなっている。
「……しかし、最近お前の店は儲かっていると聞いたが。萬通散が売れているのだろう?」
「あ、ああ。まあ、そうなんだが……」
孝典が尋ねると、本城は突然どことなく落ち着かない様子になって視線を彷徨わせた。
町では何故か本城屋の萬通散は特別よく効くと評判になっている。
いったいどんな調合をしているのか、孝典も興味があった。
「何か特別な生薬を使っているのか」
「……まあ、そんなところだな。でも、実際の儲けなんて微々たるものなんだよ。それだけじゃ到底足りなくてね」
「ふうん……」
やはり、とてもじゃないが信用出来ない。
しかし克哉のことを考えると、金で済むのならば済ませてしまったほうがいいとさえ思えた。
「……幾ら必要なんだ」
「そうだな……五十両もあれば」
「五十両……」
決して安くはないが出せない金ではない。
孝典は迷うことなくすっくと立ち上がり、本城に言った。
「では、今から金を用意してくる。本当に金を渡せば、克哉は返してもらえるのだな」
「ああ、もちろん」
「……克哉にもしものことがあったら、私は貴様を許さない」
そう言い捨てて、孝典は足早にその場を去った。
いつになく感情を剥き出しにする孝典に本城は暫し呆気に取られたあと、声を殺して笑った。

それから一刻ほど後のこと。
御堂屋では奉公人達がまんじりともせず、克哉と主の帰りを待ちわびていた。
孝典は彼らに克哉も自分も問題は無いから休んでいるよう命じ、 本城に要求された五十両を準備すると急ぎ本城屋に戻ってきた。
そして今二人は、先刻の部屋で先刻同様向かい合わせに座っている。
「……これでいいか」
孝典が差し出した小判の包みを見て、本城は目を輝かせた。
「ああ、ありがとう。ありがとう。この金は必ず増やして返すよ。そうだ、証文を書いておいたんだ。 俺が勝手に書いてしまったものだから、これで大丈夫かよく見てくれ」
「ああ」
いそいそと本城に差し出された紙を、孝典は一瞥しただけで懐に仕舞ってしまう。
孝典にとってこんな紙切れなどどうでも良かった。
もとより返ってこないことなど覚悟の上である。
それよりも―――。
「約束だ。克哉を返してもらおうか」
「分かったよ。じゃあ、そろそろ克哉君のところに行こうか」
本城は早速小判を仕舞い込むと、ようやく腰を上げた。
歩き出す本城の後に孝典がついていく。
私室を出て別のほうへと伸びる、細い廊下を進む。
「……それにしても、悪かったな」
不意に本城が呟いた。
「またお前に断られるんじゃないかと思って、ついこんなことをしてしまった。本当に済まない」
「……」
そんな謝罪に何の意味があるのだろう。
口を開くのも嫌になって、孝典はただ黙っていた。
廊下の突き当たりまで来ると、本城はぴたりと足を止める。
「……ここ、壁しかないように見えるだろう?」
子どもが何かを自慢するかのように言って、本城は壁と柱の僅かな隙間に指を掛けた。
確かにそこは行き止まりにしか見えなかった。
しかしその壁は本城が少し引くと、がたりと重い音を立てて動いた。
「祖父が若い頃に作ったみたいなんだけどね。大事なものは皆、ここに隠しておいたらしい」
こんなところに部屋があったなど、孝典はまったく知らなかった。
戸がゆっくりと開く。
その向こうにある部屋は真っ暗で、孝典は目を凝らさなければならなかった。
淀んだ空気の中、微かに人の呻き声がする。
そうしてようやく見えてきた光景に、孝典は凍りついた。

- 続く -
2011.07.15

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