暗夜情火 伍
もう、今から十年以上も前の話だ。
あれは御堂屋の主であった孝典の父が亡くなる半年ほど前のことだった。
いつものように薬の仕入れに来た振売の男は困ったような、それでいて何処か嬉しそうな様子で、
これから一緒に仕事をすることになったと一人の少年を紹介してきたのだ。
それが男の一人息子である、克哉だった。
父親に促されておずおずと頭を下げた克哉は色白で、背こそ大きかったものの手足は細く、
その面立ちは十四だと聞かされた年よりもだいぶ幼く見えた。
父と共に店に出ていた孝典も当然その場に居合わせたのだが、如何にも頼りなげな克哉の姿を半ば蔑むような気持ちで眺めていたことを覚えている。
彼はたどたどしく微かに震えた声で挨拶らしきことを口にしたがよくは聞こえず、
しかもその間も視線はずっと自らの足元に注がれたままで、最後までこちらの顔を見ようともしなかったのだった。
―――まるで、罠にかかった兎か狸だな。
何に怯えているのか知らないが、そのおどおどとした態度は孝典を酷く苛立たせた。
身内の手伝いとは云え、これから客商売をしていこうという気構えが微塵も感じられない。
同じ年の頃でも、もっとしっかりした者は大勢いるというのに。
初対面でそう思ってしまった孝典にとって克哉の印象は、だから長いことあまり良いものではなかった。
それからも克哉の態度はあまり変わることもなく、孝典もただ商売の相手として親子に接するに留まった。
ろくに目も合わせないような相手と話をしたいなどと思うはずもなかったし、
まともに顔を見れば苛立つことは分かっていたから、いつしか孝典も敢えて克哉に視線を向けなくなっていたような気がする。
なによりその後間も無く父が亡くなってしまった孝典は一人で店を切り盛りしていくことに精一杯で、その頃の記憶がやや曖昧だった。
そうして、気がつけば数年が経った頃。
しばらく姿を見せない日が続いたかと思うと、不意に克哉が一人きりで店にやってきた。
克哉の顔色は悪く、目は落ち窪み、いつも以上に覇気が無い。
その憔悴しきった様子にさすがに驚き何事かと尋ねれば、父親が急な病で亡くなったのだという。
他に身寄りも無い為、これからは自分一人で生活していくつもりだと。
それを聞いて、孝典の内に同情のようなものが湧いたのは我ながら意外ではあったものの事実だった。
幼い頃に母を亡くし、今また父を病で亡くし、天涯孤独となってしまった克哉の身の上は孝典のそれによく似ていた。
若造に何が出来るのかという周囲の冷ややかな態度にも屈せず、父とは違ったやり方で店を営み始めてから早数年。
今や御堂屋は、ここいらでは一目置かれる規模の薬種問屋となっていた。
既に下働きの者を二人ほど雇ってはいたが、そろそろもう一人増やしたいと思っていたところではある……。
一瞬にしてそんなことが頭を過ぎって、孝典は自分自身に戸惑った。
(いや、待て。よく考えろ―――)
目の前に立つ克哉はそれなりに覚悟を決めているようではあったが、それにしてもやはり頼りない。
雇ってやったところで役に立つどころか、かえって仕事を増やされそうな気さえした。
しかしこのまま放っておけば、そのうち碌でもない輩に騙されて路頭に迷うであろうことは想像に難くない。
そうなったときに、ここで放り出していては寝覚めが悪いのではなかろうか。
あれやこれやと考えつつも、結局孝典は克哉に「うちで働いてはどうだ」と言っていた。
そのときの克哉の表情を孝典は今でも忘れられない。
ハッとしたように顔を上げた克哉と、初めて真正面から視線が交わったのだ。
しかしやはりそれはすぐに逸らされ、克哉はあれこれと言い訳を口にしはじめた。
以前の奉公先をクビになったこと、自分は迷惑を掛けてしまうに違いないということ……。
そのとき始めて克哉のおどおどとした態度の理由を知ったわけだが、それは孝典をますます苛立たせただけだった。
克哉が使えない人間であろうことは百も承知の上である。
それでも雇ってやろうと言っているのだから、素直に従えばいいのだ。
孝典の苛立ち任せの説得に克哉もようやく納得し、そして彼は晴れてこの店で働くこととなった。
―――これは、同情だ。
使ってみて本当に無能だと分かれば、そのときにまた考えればよい。
いずれにせよ彼の働きにはまったく期待してはいなかった。
自ら申し出、説得までしたにも関わらず、馬鹿なお節介を焼いた自分に呆れ果てて孝典は深い溜息をついたのだった。
しかしながら、事態は意外な方向に動いた。
使ってみると克哉は予想していたような無能などではなく、それどころかとてもよく働いたのだ。
孝典はそこでようやく克哉が以前の奉公先で虐げられていた本当の理由が分かった。
克哉自身は自分の要領の悪さや仕事の出来なさの所為だと思っているようだったが、本当はそうではなく、恐らくは妬みからのものだったのだろう。
店や部屋の掃除から始め、合間を見つけては薬の調合について教えた。
薬に関しては振売の仕事をしていた頃から自分でも勉強していたようで、ある程度の知識は持っていたから教えるのは楽だった。
一番大変だったのは接客についてだったが、それも不慣れな部分を誠実さで補いながらよく頑張っていた。
なにより彼は常に周囲に対する心配りを欠かさず、細かいところにもよく気がついた。
それでいて決してでしゃばらず、しかし八の説明で十の仕事をやり遂げることが出来るのだ。
ただ、ひとつだけどうしても治らないことがあった。
孝典は悪い部分は厳しく注意するが、良い面があればその都度誉めるようにしている。
克哉のことも随分誉めたと思う。
それなのに克哉は自分に自信を持てないことだけは変えられぬようで、
接客態度は良くなっていったにも関わらず、やはり孝典の目をまともに見ようとはしないのだった。
そんなある日、孝典が身体を悪くして数日寝込んだことがあった。
克哉は酷くうろたえながらも、すぐに自分から孝典の看病を申し出た。
孝典は「私に構うな」「それよりも仕事に専念しろ」と何度も言ったが克哉は決して聞こうとはせず、
きちんと仕事もこなしながら看病をするからと言い張り、頑として譲らないのだった。
そして言い合いを続ける気力も無くなった孝典が渋々承諾したあとは、それはそれは甲斐甲斐しく孝典の看病に励んだ。
店と私室を慌ただしく行き来する様子は健気ですらあり、これにはさすがの孝典も参ってしまった。
考えてみれば一人で店をやるようになってから病気らしい病気などしたこともなかったのに、
こんな風に気が緩んだのも克哉というよく働いてくれる者が来てくれたからかもしれない。
そんなことを考えていたとき、いつも決して目を合わせようとしない彼が心配そうに、けれど真っ直ぐにこちらの顔を覗き込んでいるのを見た。
しっかりと交わった視線。
少し青みがかった不思議な色をした瞳に、自分が映っている。
そのことは孝典の心をとても満足させた。
そして今まで克哉に抱いていた苛立ちが、いつの間にか愛しさと背中合わせのものになっていたことに気づいた。
だから孝典はその瞳に見つめられながら、自然と湧き起こった想いを口にしていたのである。
お前がいてくれて良かった、と。
恐らくはそれからだ。
彼の幸せを願うようになったのは。
不器用だが真面目で、いつも一生懸命な克哉。
彼がこの店で働くようになったのも、何かの縁だろう。
自分と同じく天涯孤独の身の上ではあるが、今まで苦労してきた分、彼には幸せになる権利があるはずだ。
それがどんなことで叶えられるのかは分からなかったが、彼がその幸せを掴める日までずっと傍で見守っていきたいと思っていた。
それなのに―――。
「店が終わるまでは確かにいたんですけど……」
既に暗くなってしまった店先で、集まった孝典と奉公人達は一様に首を傾げる。
暮れ六つの鐘が鳴り、店仕舞いが始まる中で克哉は藤田に声を掛けてから表に出た。
それから克哉が戻っていないことに藤田が気づくまで、せいぜい半刻ぐらいしか経っていなかっただろう。
藤田は宏明にそれを知らせ、二人で手分けして表をぐるりと廻ってみたが克哉の姿は何処にもなかった。
しかしあまり大事にしてもと思い、既に奥の部屋に戻っていた孝典には知らせぬまま、克哉が戻るのをしばらく待ったが戻らない。
結局は孝典の知るところとなり、皆で額を集めている最中だった。
「店仕舞いの前に、何か変わったことはあったか?」
「いえ、特には……」
藤田達は顔を見合わせるが、特に手掛かりとなりそうな話も出てこない。
尋ねておいてなんだが、むしろ孝典のほうにこそ思い当たる節はあった。
克哉は今日一日妙にぼんやりとしていて、手に怪我まで負っていたではないか。
あれはやはり何か気懸かりなことでもあったのではなかろうか。
「……仕方ない。私はもう一度、そこら辺りを一回りしてこようと思う。お前達はここで待っているように」
とにかく自分の目で確かめなければいられずに孝典が言うと、とんでもないとばかりに藤田が身を乗り出してくる。
「旦那様はこちらで。俺達が探しに行きますから」
「いや、いい」
しかし孝典はその申し出をきっぱりと拒絶する。
「何か理由があって出て行ったのだとしたら、私が話を聞く必要がある。
たとえ事件に巻き込まれたのだとしても……やはり私が対応しなければならないだろう」
「……」
孝典の言うことももっともだった。
皆はしばらく押し黙ったあと、素直に孝典の指示に従うことにした。
「分かりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
「ああ。もしも克哉が戻ったなら、私が探しに出ていることは伝えなくともよい」
「……畏まりました」
そして孝典は皆に見送られ、表へ出た。
思い当たるような場所があるわけでもないので、とりあえずこの時分でも人出のありそうな通りへと向かう。
擦れ違う人の中に探す顔は無いかと目を凝らしてみるが、それを見つけることは出来なかった。
克哉はいったい何処へ行ってしまったのだろう。
奉公人が勤めの辛さに根を上げて逃げ出すという話はよく聞くが、そこまで厳しく勤めさせた覚えはないし、なにより克哉がそんなことを仕出かすとは思えない。
自分の意志で出て行ったのではないとすれば、やはり何か諍い事に巻き込まれたのだろうか。
彼はお人好しだから、騙される可能性はおおいにある。
しかし、誰に?
克哉を騙して、なんの得が?
克哉も頼りないとは云えいい大人だし、一人前の男なのだからそうそう心配するようなことはないだろうと思うのだが、どうも胸騒ぎがしてしまう。
ときおり絡みついてくる呑み屋の客引き女達を振り払いながら歩いていると、孝典は不意に視界の端で見覚えのある顔を捉えた。
「―――!」
甲高い声で笑いながら男にしなだれかかっているのは、先日店に来て克哉を指名した女だった。
咄嗟に孝典は女に駆け寄り、腕を引く。
「きゃあっ! なにすんのさ!」
当然、女は悲鳴を上げて腕を振り払うと孝典を睨みつけた。
間に割って入られた柄の悪そうな男は女の手前格好つけたいのか、決して大きくもない身体をずいと前に出してくる。
「なんだ、てめえ! 人の女にちょっかい出そうってのか? ああん?!」
酒焼けした声で怒鳴りつけてくるが、こんな小男に構っている場合ではない。
孝典が冷たい眼差しで鋭く睨み返すと、男は明らかに怯んだ様子で口を噤んだ。
「すまない。彼女に少々伺いたいことがある。すぐに終わる」
「だ、誰よ、あんた。あたしはあんたなんかに用は無いよ」
「お、おい!! てめえ、ふざけんじゃねぇぞ!!」
男は更に声を荒げて虚勢を張ってみせたが、孝典はそれを無視して女に尋ねた。
「私は近くで薬種問屋をしている御堂という。先日、うちで貴方に薬を処方したのだが、覚えていないだろうか」
「薬ぃ? ……ああ、あのときの」
ようやく思い出したのか、女はつまらなそうに吐き捨てる。
不機嫌に顔をしかめている女に、孝典は更に尋ねた。
「あのとき貴方に薬を処方した克哉という青年なんだが……今日、何処かで見掛けなかっただろうか?」
「はあ? 見掛けてないねえ。聞きたいことって、それかい?」
「ああ、そうだ。そうか、見掛けていないか……。ありがとう、呼び止めて済まなかった」
孝典は内心の落胆を隠して頭を下げる。
そしてそのままその場を立ち去ろうとしたのだが、ふと女は何か思い出したらしく、意地悪く唇の端を吊り上げて孝典を呼び止めた。
「ちょいと、お待ちよ! あの子、何かあったのかい?」
「……」
警戒した孝典は答えなかったが、否定もしないのが何よりの答えになっていた。
女はにやにやと笑いながら孝典に身を寄せてくる。
さっきまでしなだれかかっていた男はすっかり置いてきぼりの状態だが、女は気にもしていないようだった。
「探してるってことは、いなくなっちまったってとこだろう? それなら、いいこと教えてやってもいいよ?」
「……いいこと?」
「そう。あの子の居場所を知ってるかもしれない人間……聞きたくないかい?」
「……」
女が何を要求しているのか、すぐに分かった。
しかしこの女が持っている情報が真実とは限らない。
孝典が躊躇していると、女は更に身を寄せて孝典の袖を爪で引っ掻きながら囁いた。
「もちろん、必ずあの子が見つかるとは限らないけどね。……どうする? あたしはどっちでもいいんだよ?」
「……分かった」
下種なことだとは思うが、背に腹は代えられない。
孝典は溜息をついて懐から財布を出すと、一分銀を握らせる。
女は満足そうに笑って、それから孝典の耳元に唇を寄せた。
「あの日、あたしがあんたの店に行ったのは本城の旦那に頼まれたからなのさ」
「本城……?」
「そうだよ。あの子を呼び出してきてくれ、ってね。口止めされてたけど、もういいや。あの嘘つき野郎が」
女が最後に憎々しげに吐き捨てた言葉の意味は分からなかったが、それはもはやどうでもよかった。
思わぬところで本城の名前が出てきたことに、孝典は動揺を隠せない。
「何故、本城が?! いったい、なんの目的があって?!」
「そこまでは知らないよう! あたしは呼び出しただけで、すぐに帰ったからね。あとは本城の旦那に直接確かめてみればいいじゃないか。もう、いいだろ?!」
つい肩を掴んでしまった孝典の手から逃れるように身を捩ると、女は早々に話を終わらせようとする。
しかし恐らく、この女は嘘をついていないはずだ。
孝典は何故か、そう確信していた。
「……分かった。情報、ありがとう。感謝する」
孝典はもう一度頭を下げると、すぐさま本城屋を目指して走りだした。
- 続く -
2011.06.14
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