暗夜情火 四
その日も早朝からいつも通りに仕事を始めたものの、克哉は不安な気持ちを拭えずにいた。
文の橋渡しという行為自体はたいしたことではないと分かっているのだが、孝典に隠し事をしているようでどうも落ち着かない。
否、実際に隠し事をしているのだ。
本城と会ったことも、文を受け取る約束をしたことも、孝典は知らない。
ここで働くようになってから孝典への恋心以外に隠し事らしい隠し事などしたこともなかったものだから、
その罪悪感といったら今すぐにでも土下座して全てを白状してしまいたくなるほどだった。
しかも時間が経つほど余計なことを考えてしまううえに、その考えが悪い方向へばかり向かってしまうのが克哉の悪い癖だ。
少しでも手が空けば、答えの出ない自問自答を繰り返してしまう。
喧嘩の原因も聞かぬままに協力して本当に良かったのだろうか。
下働きの分際で主人の交友関係に首を突っ込むなど、ただの身の程知らずだったのではないだろうか。
そもそも自分はあの若旦那について噂以上のことは何も知らないのだ。
彼が本当に信用に値する人物なのか、二人が仲直りすることは孝典にとって本当に良い事なのかも分からない。
もちろん文を読んでどうするかは孝典自身が決めることであって、そこまで自分が口を出せるとは思っていない。
それでも軽率なことをして、万が一にも孝典に迷惑が掛かるようなことがあってからでは取り返しがつかないのだ。
その責任を取れるほど自分には価値も能力も無いのだから、
やはり断るべきだったのではないだろうかと、克哉の心の中では次第に後悔ばかりが膨らんでいくのだった。
(今更、悔やんでも遅いけど……)
木べらを片手に、薬種を煎じている途中の鍋をぼんやりと見つめながら克哉は思う。
しかしいずれ断るにせよ引き受けるにせよ、今日の暮れ六つには本城に会いに行かなければならないことだけは変わらないのだ。
とにかくそのときにもう一度、孝典に直接会ってはどうかと持ち掛けてみよう。
それでも尚、仲介を頼まれたなら、そのときには覚悟を決めて……。
「……克哉?」
「は、はいッ?!」
すっかり考えることに没頭していたのと、呼んできたのが孝典の声だったこともあって、克哉は飛び上がるほどに驚いてしまった。
その拍子に持っていた木べらがするりと手を離れ、濁った緑色をした鍋の中に沈んでいく。
克哉はそれを拾おうと慌てる余り、煮えたぎる汁の中にうっかり手を差し入れてしまった。
「熱ッ……!!!」
「克哉!」
咄嗟に駆け寄ってきた孝典に腕を掴まれ、窯場の隅にあった水瓶の前まで強引に引きずられる。
すぐさま溜まった水の中にちりちりと痛む手を浸されて、二人はしばらくそのまま動かずにいた。
「何をぼうっとしているんだ、まったく……!」
「も、申し訳ありません……」
舌打ちせんばかりに苛立ちと呆れの混じった口調で叱られ、克哉は身を竦める。
また失敗してしまった。
深く反省しなければならないところなのに、しかし克哉の胸はどうしようもなく高鳴っていた。
痛むほどに強く掴まれた手の感触や、眉間に皺を寄せた孝典の横顔との距離の近さ。
ずっとこのままでいられればいいのにと思った矢先、水の中から手を引き出される。
「……赤くなっているな」
孝典は克哉の指先をまじまじと見つめてから不機嫌そうに呟くと、手首を掴んだまま歩き出した。
「あ、あの、旦那様?」
「手当てをしてやる。来い」
「……?! い、いえ、大丈夫ですから、これぐらい……!!」
とんでもないとばかりに克哉は声を上げて手を引こうとしたが、足を止めた孝典は手を離さないどころか克哉をきつく睨みつけて言った。
「こういうものは放っておくと、後になってから痛むのだ。いいから来い」
「……」
孝典に強く腕を引かれ、克哉にはそれ以上言い返すことなど出来るはずもなかった。
たとえ厚かましいと思われようと、孝典からの好意も手首の温もりも自ら手放すには余りに惜し過ぎた。
その後、孝典は藤田を呼んで火に掛けたままの鍋を任せたが、その指示を出している間も克哉の手を離すことはなく、
克哉は藤田の興味深そうな視線から逃げるようにただ俯くばかりだった。
孝典の部屋に連れて行かれた克哉は、言われたとおり畳の上におずおずと腰を下ろす。
さっきまで握られていた手首がまだほんのりと熱をもっているようで、克哉は無意識にそこに触れていた。
その間にも孝典は薬箱を用意してきて、膝が触れそうな距離で克哉と向かい合わせに座る。
箱の中から小さな容器を取り出して蓋を開け、改めて克哉の手を取った。
「……っ」
火傷で微かに赤くなっている克哉の指に、孝典が薬を塗っていく。
薄く伸ばすために孝典の指が幾度も皮膚の上を往復する。
ゆっくりと丁寧に、痛まないよう労わってくれているのが分かる。
その指の動きと感触に、克哉は身体の奥が震えてくるのを感じていた。
息が苦しくなって、ともすれば呼吸が乱れそうにさえなる。
頭の芯が痺れたようになって、何も考えられなくなってくる。
このままではおかしくなりそうだと思った克哉は、緊張と興奮に乾いた唇をなんとか動かして言った。
「あっ、あの、いつも御迷惑ばかりお掛けして、本当に申し訳ありません……」
孝典はもう一度容器から薬を掬い取って答える。
「……今までお前に迷惑を掛けられた覚えは一度も無いが」
「えっ……?」
「お前はよくやっている」
「あ……」
思いもかけずに誉められて、克哉は少々呆然としてしまった。
まさかそんな風に言ってもらえるとは思わなかった。
失敗をしたばかりの自分が落ち込み過ぎぬよう、慰めのつもりで言ってくれたのだとしてもとても嬉しい。
指先が酷くくすぐったい。
「あ……ありがとう、ございます……」
「……」
やがて薬を塗り終えると、今度は細く裂いた布で指先を巻いていく。
次に沈黙を破ったのは孝典のほうだった。
「……何か気に掛かることでもあったのか」
「……!」
一瞬かなりうろたえてしまったから、孝典に顔を見られていなかったのは幸いだった。
「な、何がでしょうか……?」
克哉は出来る限り平静を装ったつもりだった。
孝典はちらりと視線だけを上げて克哉の目を見たものの、何も言わずまたすぐ手元に視線を戻した。
―――きっと、孝典は気がついている。
自分が隠し事をしていることなど、きっと孝典にはお見通しなのだ。
それでも敢えて、それが何なのか聞かないでいてくれる。
自分が分かりやす過ぎるのか、孝典が聡いのか、恐らくどちらもなのだろう。
やはり孝典に隠し事などするのではなかったと克哉はつくづく思った。
「あの、オレ……」
「……お前はここに来て何年になる」
「? 八年です」
「八年か」
「はい」
「……長いな」
そう言って、孝典がほんの少しだけ笑う。
孝典の真意が分からない克哉は黙り込むことしか出来なかったが、その笑みが何処か寂しげにも見えたのが不思議だった。
「今から八年後、お前はどうしているのだろうな」
「え……」
孝典の呟きに、克哉は今までとこれからに思いを馳せる。
八年は長いようで短かかった。
孝典の役に立ちたくてがむしゃらに頑張ってきたつもりだけれど、まだまだ一人前とは云えない。
けれど、孝典への想いに気づいてしまった日から考えると長かったような気もする。
今から八年後、自分と孝典はどうしているのだろう。
その頃にはさすがに孝典も妻を娶っているだろうし、それでも自分はこの想いを抱えたままここにいられるのだろうか。
それとも、耐え切れずに立ち去っているのだろうか。
考えているうちに手当てが終わり、孝典の手が離れていく。
「……私は、お前には幸せになってほしいと思っている」
不意に孝典が真っ直ぐに克哉を見つめて言った。
何故、今そんなことを言うのだろう。
途端、心臓が握り潰されるように痛んで、克哉は思わず身を乗り出していた。
「旦那様! あ、あの、オレ……!」
「手当ては終わった。仕事に戻れ」
「あ……」
克哉がそれ以上言うのを拒むように、打って変わって冷えた声が突きつけられる。
そもそも自分は何を言おうとしていたのだろう。
孝典の言葉に、なんと答えようとしていたのだろう。
克哉は居住まいを正すと、畳に両手をついて深々と頭を下げた。
「ありがとう、ございました……」
何故、悲しむ必要がある。
恋い慕う人に幸せを願ってもらえるなど嬉しいことではないか。
それなのに、どうしてこんなにも胸が苦しい。
幸せに。
幸せに、なれるのだろうか。
克哉は泣いてしまいそうになるのをなんとか堪えて、慌ただしく店へと戻って行った。
日が暮れる。
濃い橙色から紫の宵闇に浸食されていく町に、暮れ六つの鐘が低く鳴り響く。
それを店仕舞いの合図に、店の者達がそそくさと動き出した。
克哉は孝典が奥に行ったのを見計らって、薬包紙を片付けていた藤田に小さく声を掛ける。
「オレ、ちょっと表を見てくるよ」
「はい」
普段から店を閉めるときには、表の看板や貼り紙がおかしくなっていないかなど、ざっと見回るのが習慣だ。
大抵のときは特に何も無いから、その作業はすぐに終わる。
克哉は足早に店の外へ出ると、すっかり暗くなってしまった辺りに目を凝らした。
すると斜向かいの路地の間から、誰かがこちらに手を振っているのが見える。
あれが恐らく本城だろう。
克哉は少しだけ店を振り返って誰にも見られていないことを確認してから、小走りにそちらへ向かった。
しかし克哉が近づくと、人影はすっと路地の奥へと入っていってしまう。
「……本城さん?」
早く用を済ませたいのにと焦れる気持ちを抑えながら、克哉は奥の暗がりを覗き込んで声を掛ける。
「あの、本城さん……?」
「うん、俺だよ」
暗くて姿はよく見えないが、返ってきた声は確かに本城のものだった。
克哉はほっとして、自分も奥へと入っていく。
確かにここなら人目につかない。
路地の突き当たりまで行くとようやく本城の顔を確認出来るほどになったが、
黒っぽい着物を着ているせいで身体はまだ闇に溶けていた。
「ありがとう……本当に来てくれたんだね」
本城が囁くように言う。
「はい、約束しましたから。ただ……」
「―――このことは、誰にも言ってない?」
「え?」
克哉はやはり文を直接渡してはどうだろうかと言おうとしたのだが、それは本城に遮られてしまった。
「は、はい。誰にも言っていません」
「ここに来るのも……誰にも見られていない?」
「多分……。あの、本城さん?」
何かがおかしい。
不穏な空気を感じて、克哉が一歩後退さる。
暗闇の中で本城の視線が一瞬、克哉の後ろに向けられて―――。
「―――ッ?!」
気配に気づいたときには既に遅かった。
後頭部に激しい衝撃と痛みが走って、克哉の世界は暗転した。
- 続く -
2011.02.24
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