暗夜情火 参
商家の朝は早い。
明け六つの鐘が鳴る前には起きて、店を開ける準備をしなくてはならない。
まずは温もった布団から気合いを入れて這い出すところが、克哉にとってはもっとも難儀な仕事だった。
昔から早く起きることはまったく苦にならなかったが、この時期の寒さだけはどうにも慣れない。
それでも、もたもたしてはいられないとばかりに顔を洗いに裏庭へ行けば、
まだ夜の気配が残る暗さの中に水音が響いていて、そこに既に先客がいることを知らせてくれていた。
「おはよう、宏明」
「……おはよう」
いつもと変わらぬ調子で挨拶を交わすと、克哉は桶の水を掬った。
悴んだ手に触れた水はかえって温かくさえ感じて、身を屈めてそれで顔を洗う。
どれだけ寒くても、この瞬間はやはり気持ちがいい。
まだ頭の中にぼんやりと漂っていた眠気は綺麗さっぱり遠くに追いやられ、それと同時にふと無意識の呟きが漏れた。
「……思い出した」
「何を」
宏明が克哉に手拭いを差し出しながら聞き返す。
そこで初めて克哉は自分が心の内を実際に言葉に出していたことに気づいた。
別に宏明に話そうと思ったわけではなかったのだが、ここでなんでもないと誤魔化すのも可笑しいような気がして、克哉は素直に答える。
「あ、ああ。この間、本城屋の若旦那様を見掛けて」
「本城屋?」
「うん。旦那様と町に出たとき、偶然会ったんだ。顔をすっかり忘れていたから、そのときは誰だか分からなかったんだけど、今思い出したよ」
「へえ……」
克哉は数日前、町中で出会った男のことを思い返していた。
すぐに分からなかったのは、もう随分と―――ここ三、四年は姿を見掛けていなかったからだ。
確か彼は孝典とは古い知り合いのはずで、以前はときどきこの店に顔を出すことがあったし、また孝典のほうから向こうを訪ねることもあった。
あの少し目尻の垂れた柔和そうな顔、色の薄い髪、おっとりとした話し方には覚えがある。
そういえば、何故彼はぱったりと姿を見せなくなってしまったのだろう。
先日会ったときには孝典に声を掛けようとしていたが、孝典のほうは言葉を交わそうともしなかった。
あの頃の二人を見る限りは良い友人のようであったのに、何か揉め事でもあったのだろうか。
「……それで? その若旦那様と話でもしたのか?」
「あ、ううん」
宏明に話しかけられて、ぼんやりと考え込んでいた克哉は我に返る。
「話とかはしてなくて……擦れ違った程度なんだけどね」
「そうか。本城屋の薬は最近評判がいいらしいが、若旦那に関しては相変わらずあまりいい話は聞かないな」
「……そうだね」
克哉は思わず苦笑した。
本城屋の主人はあまり欲が無い人物だそうで、それに焦れたあの若旦那が店の経営を実質取り仕切っているらしかった。
ところがこの若旦那もしょっちゅうふらふらと何処かを遊び歩いていて、ちっとも店に居付かない。
それでも店が潰れないのは余程の商才があるのか、それとももしや裏で何か悪いことにでも関わっているのではないかと、口さがない連中からは噂されていた。
そのうえ最近は羽振りが良くなったものだから、ますますやっかみ半分に在ること無いこと言われているようで、それに関しては少々気の毒に思う。
なにより今はともかく、過去に孝典が友人として付き合っていた人物が悪く言われているのは、あまり気分がいいものではなかった。
「で、でも、そんなに悪そうな人には見えなかったよ? 今評判の薬だって、あの若旦那様が手を加えてから売れ始めたんだそうだし」
「まあ、噂は噂だからな。事実と違っていることなんて、よくある話だ」
「うん……」
しかし本城を庇ってはみたものの、やはりあのときの孝典の様子が気に掛かる。
孝典があんな態度を取るぐらいだから、噂は噂だけではないのかもしれない。
彼が突然姿を見せなくなったのも、それが原因で孝典と袂を分かつことになったからではないだろうか。
(でも……)
たとえその推測が当たっていたとしても、古い友人を失うというのは互いに寂しいことには違いない。
立ち去るときに振り返って見た本城は、こちらをじっと見つめて、雨の中を立ち尽くしていた。
克哉には彼が孝典に何かを言いたかったのではないかと思えてならなかった。
「どうした?」
「……いや、なんでもない。もう、行こう」
何故か胸の内に言い知れぬ不安が過ぎって、克哉はそれを振り払うように歩き出した。
慌ただしい朝の商いが過ぎて、昼も近づいた頃だった。
「ごめんください」
まさしく鈴を転がすような声に皆が一斉に目を向けると、紅鳶色の小袖を羽織った女が暖簾をくぐってくる。
初めて見る顔だったが、その仕草や着ている物からすると何処ぞの岡場所辺りから出てきたようだった。
綺麗に化粧をして、紅もひいている。
「いらっしゃいませ。如何なさいましたか?」
一番入口の近くにいた藤田が前に出ると、女は上がり框に腰掛けて藤田の顔をまじまじと見た。
「ええと……あなたじゃないわね」
「えっ」
思いも掛けない言葉に藤田はたじろいだ様子だったが、女は構わず何かを探すように首を伸ばして店の中を見回す。
そして奥にいた克哉と目が合うと、ぱっと花が咲いたような笑顔になって優雅な手つきで克哉を手招いた。
「ああ、あなただわ。あなた、克哉さんでしょ?」
「は、はい」
「やっぱり。ちょっとお願い出来るかしら」
克哉は戸惑いつつも、薬匙を置いて腰を上げる。
薬など誰が作っても変わりはないが、指名されては仕方が無い。
またしても物言いたげににやついている藤田を敢えて見ないようにして、客の前に進み出た。
「如何なさいましたか?」
克哉が接客用の笑みを浮かべて問うと、女は急に眉根を寄せてしなを作りながら言った。
「ううん、どうも最近疲れやすくてねえ。頭もときどき痛むのよ」
「そうですか……。最近は冷え込みも厳しくなってきましたから、血の巡りが悪くなっているのかもしれませんね。
吐き気や腹痛はありませんか?」
「ええ、ないわ」
「でしたら、加味逍遙散というお薬がいいかもしれません。血の巡りを良くしますし、頭痛や肩こりにも効きますよ」
「そう。じゃあ、それでお願いしようかしらね」
疑うわけではなかったが、目の前にいる艶めかしい女はわざわざこの店に来るほど具合が悪そうには見えなかった。
それでも時節柄、体の調子を崩すことが多いのは事実だから薬を持っておくに越したことはないだろうと克哉は無難な薬を薦めてみる。
病は気からと云うように、薬を買っただけで安心してしまう者もいるぐらいだ。
それにしても女は克哉の説明に酷くあっさりと納得していたが、それは少々投げ遣りのようにも感じられた。
「それでは……」
調合には多少の時間が掛かる。
それを告げようとしたところ、女は不意に克哉のほうに身を乗り出して思わせぶりに声を潜めた。
仄かに白粉の匂いが香って、克哉は我知らず顔を赤くする。
「……あのね、向こうの辻に茶屋があるでしょ。あそこに居るから、出来上がったら持ってきてもらいたいんだけど……いいかしら?」
「えっ。ええと……はい……」
「一刻もあれば出来る?」
「分かりました。なんとか致します」
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
克哉の返事に女は満足げににっこりと笑い、立ち上がる。
代金を支払って颯爽と店を出て行く女を見送りながら、克哉を含めた他の者達もしばらく唖然としていた。
「はぁ……」
なんだか、どっと疲れたような気がする。
物腰は柔らかいのに、美人ゆえの妙な迫力があったからかもしれない。
最初に声を発したのは、案の定この状況を面白がっている様子の藤田だった。
「いやあ、すごいお客様でしたねえ」
「うん……」
「……克哉さん」
「な、なんだよ」
怪しい笑みを浮かべた藤田が、わざとらしく小声で囁く。
「ちゃんと帰ってこないと駄目ですよ?」
「……」
「痛っ!」
バシッと豪快な音を立てて頭をはたかれて、藤田は大袈裟な声を上げる。
そのとき、克哉は奥にいた孝典と目が合ってしまった。
「あっ、あの……」
孝典がこちらを睨んでいるように見えた克哉は、店先で少々悪ふざけが過ぎたことを詫びようとしたが、その前に孝典からふいと視線を逸らされてしまった。
呆れられてしまったのだろうか。
けれど今克哉が孝典に対して後ろめたさを感じている本当の理由は、
自分が美人の女客に気に入られて鼻の下を伸ばしているなどと孝典に思われたくないということだった。
(馬鹿だな、オレは……)
情けなさと惨めさが込み上げてくる。
たとえそう思われようと思われまいと、何も変わらないのに。
自分がどの客に気に入られようが、孝典にとっては取るに足らない、どうでもいいことなのに。
薬の調合が済み次第、家まで届けて欲しいという客はたまにいる。
店の者が客に指名されるのも珍しいことではない。
代金もしっかり頂いたのだから、今のじゃれ合い以外に克哉は何も咎められるようなことはしていなかった。
それなのに―――。
克哉もまた孝典から目を逸らすと、仕事に専念すべく、すぐに薬の調合に取り掛かった。
なんとか約束の一刻ほどで薬を作り終えると、克哉は孝典に断って店を出た。
急ぎ足で指定された茶屋に向かい、暖簾をくぐる。
店には数人の客がいたが、さっきの女は中でも一番華やかで目を惹いていた。
「あの……あっ」
しかしこちらに気づいて笑い掛けてきた女に歩み寄ろうとしたところで、克哉は彼女の隣りに座っていた男の顔のほうに釘付けになって足を止めてしまった。
「はい、いらっしゃいましたよ」
「うん、ありがとう。恩に着るよ」
「まったく、人使いが荒いんだから。今度、しっかりお返ししてもらいますからね」
「うんうん。もちろん」
戸惑っている克哉をよそに、二人は睦言のような雰囲気を醸し出しながら言葉を交わす。
それから女はすれ違いざまに克哉の手からすっと薬を取り上げると、何事も無かったかのように店を出て行ってしまった。
これはいったいどういうことなのだろう。
立ち尽くす克哉を、残された男が親しげに呼んだ。
「そんなところに突っ立っていないで、こちらにおいでよ」
克哉に人懐こそうな笑みを向けてそう言ったのは、紛れも無く先日会った本城屋の若旦那だった。
(どうして……?)
今朝宏明と話していたことを思い出して、克哉はつい警戒してしまう。
悪い人物には見えない。
けれど、噂は噂だけではないかもしれない。
もしも面倒なことに巻き込まれでもすれば、孝典に迷惑が掛かってしまう。
動こうとしない克哉に、本城は困ったように眉尻を下げた。
「驚かせちゃったかな、ごめんよ。この前、雨の日に会ったんだけど……」
「……本城屋の、若旦那様ですよね」
「知っててくれたんだ? 嬉しいな」
本城は本当に嬉しそうに、無邪気に笑う。
それでもまだ克哉はその場を動かなかった。
「とにかく、ここに座ってよ。でないと話も出来ない」
「でも、オレ……すぐ店に戻らないと」
「御堂のことで相談したいことがあるんだ」
「旦那様の……?」
孝典の名前を出されて、つい警戒心が揺らぐ。
あのときの孝典の表情は怖いほどに頑なで、そして何処か―――辛そうだった。
本当は孝典も本城との関係を修復したいと思っているのかもしれない。
そんな考えが過ぎったが最後、克哉はとうとうここから立ち去る気を失ってしまった。
自分などが孝典の役に立てるかどうかは分からなかったけれど、話を聞くだけ聞いてみたい。
そんな克哉の心情を察したのか、本城が促すように自分の隣りをぽんぽんと叩いたので、克哉は渋々さっきの女が座っていた場所に腰を下ろす。
すぐに店の娘が寄ってきて、本城は慣れた調子で茶と団子を頼んだ。
「あの……旦那様のお話というのは」
しかし、こんなところで長く寛ぐ気はない。
克哉はさっさと話を進めようと本城に問い掛けたが、その返事は答えをはぐらかすようなものでしかなかった。
「騙したみたいで悪かったね。でも、こうでもしないと御堂がいないところで君と話せないと思ったから。お詫びと言ってはなんだけど、団子でも食べていってよ」
克哉が首を振ると、本城は克哉の顔を覗き込む。
近くで見ると彼は本当に男前で、さっきのような華やかな女性に慕われるのも無理はないと思った。
「御堂に怒られるかと思って気にしてるの? あいつ、相変わらず堅物なんだ?」
「いえ、そういうことではありません。それより」
「分かった分かった。早く本題に入ったほうが良さそうだね」
本城は諦めたようにそう言って届いた茶を一口啜ると、ようやく話を始めた。
「実はね、君に俺と御堂が仲直りする手助けをしてもらえないかと思ってさ」
「仲直り?」
「そう」
本城が恥じ入るように首を竦める。
「俺と御堂とは古い友人なんだけど……三年ぐらい前かな、ちょっとしたことから喧嘩をしてしまってね。それきりになってしまってたんだ」
やはり、揉め事があったのだ。
その理由が商売絡みなのか私的なことなのかは分からないが、あのときの孝典の態度からすると、少なくとも孝典のほうはまだ本城を許していないのだろう。
本城は少し寂しそうに笑っていたが、それから克哉のほうに身体を向けると真剣な表情で言った。
「でも、偶然この前君達に会って……御堂の顔を見たら、やっぱり仲直りしたいなと思ったんだ。それで、君に協力してもらいたくて。どうだろう?」
「あの……」
なんとなく胡散臭いような気もするが、それが本心からの言葉なら孝典の為にも力になりたいと思う。
たとえ本城の側に原因があったとしても、もう三年も経っているのだから孝典も意固地になっているだけの可能性もあるだろう。
本当なら喧嘩の理由を尋ねたかったが、そこまで聞くのは厚かましいような気がして克哉は黙っていた。
それよりも、何故本城が自分にそれを頼もうと思ったのかが気に掛かる。
「でも……どうしてオレに?」
自分などが仲裁に入っても無駄な気がして、克哉は尋ねた。
すると本城は悪戯っぽい目つきになって、それに答える。
「君、御堂と仲が良いみたいだったから」
「はっ?!」
「だって、相合傘してただろう?」
「あ、あれは……」
頬がかあっと熱くなる。
あれは別に仲が良いからしていたわけではなくて、そうする他無かったからだ。
もちろん自分としては嬉しい出来事だったが、そんな風に見られていたと知ったら孝典は気分を悪くしてしまうだろう。
彼は単に気を遣ってくれただけで、他意は無かったはずだ。
うろたえて口をぱくぱくさせているだけの克哉を本城はしばらく面白そうに眺めていたが、それから改めて克哉に訴えかけた。
「まあ、とにかく……どうだろう? 協力してくれるかな?」
「……オレなんかで……本当にお力になれるのでしょうか……」
「本当? 協力してくれるの? ありがとう!」
その返事を消極的な肯定と受け取ったのか、本城は嬉しそうに声を弾ませる。
孝典と仲が良いなどと言われて舞い上がってしまったような気がしないでもないが、もう少し本城の話を聞いてみたいと克哉は思っていた。
「あ、あの、でも、協力と言っても何をすれば……」
「直接会っても御堂は話を聞いてくれそうにないからね。だから俺はこれから御堂に文を書く。君はそれを御堂に渡してくれるだけでいいんだ。どうかな?」
「それぐらいなら……」
それを聞いて克哉はほっとした。
それぐらいなら自分にも出来るだろう。
但し文を読んで孝典がどうするかまでは責任持てないと話すと、本城は当然のこととして了承してくれた。
「本当にありがとう。じゃあ、明日暮れ六つの鐘が鳴ったら、少しだけ表に出てきてくれないかな? そのときに文を渡すよ」
「分かりました」
「……それから、このことは誰にも言わないでくれよ? 勝手に君にこんなことを頼んだなんて知られたら、文を読んでもらう前にまた御堂を怒らせてしまいそうだから」
「はい、分かりました」
最後に本城から再度団子を勧められたが克哉はそれを固辞し、大急ぎで店へと戻った。
店ではまたしても藤田に「本当に戻ってこないかと思いましたよ」などとからかわれ、
克哉も孝典に帰りが遅くなったことを詫びなければならなかった。
その夜―――。
戸締りを終えた克哉は、いつものように孝典の部屋の前で膝をついていた。
「旦那様、克哉です。全て終わりましたが、他に何か御用はございませんでしょうか」
その問い掛けも、いつもと同じ。
もう何百回と繰り返してきたものだ。
しかし、孝典からの返事が無い。
障子の向こうには人影が揺れていて、確かに中に孝典はいるはずなのに返ってくるのは沈黙ばかりだ。
「だ、旦那様……?」
しばらく待ってから克哉が再び声を掛けると、長い溜息のようなものが聞こえてようやく低い声が答えた。
「……入れ」
「えっ」
「入りなさい」
「は、はいっ」
その時点で既に克哉は叱られることを覚悟していた。
それほどに孝典の声は硬く、苛立ちをも含んでいるように聞こえた。
克哉は慌てて障子を開けて部屋に入ると、畳に額を擦りつけて詫びる。
「もっ、申し訳ございませんでした……!」
「……」
きっと今日、茶屋で油を売っていたことを咎められるのだろうと思った。
どうしてこんなにも自分は馬鹿なのだろう。
本当に役立たずだ。
自分を責めて顔を上げられずにいる克哉に、孝典の重い口が開く。
「……今日、茶屋で何をしていた」
やはり。
しかし、本城のことは話さないと約束してしまった。
孝典に嘘をつくのは不本意だったが、ここはそうするしかないと克哉は言い訳を始めた。
「お客様に薬のことを色々と聞かれて……説明をしておりました」
「それだけか?」
「他には……他愛も無い話を少々……」
「他愛も無い話……か」
罪悪感に胸が痛む。
果たしてこんな嘘を信じてもらえるだろうか。
孝典は聡い人だから、すぐにばれてしまうかもしれない。
克哉が緊張に身を硬くしていると、孝典の口から意外な問いが零れた。
「……お前は、ああいう女が好みなのか」
「え……?」
克哉は思わず顔を上げる。
薄暗がりの中、酷く苦々しげな顔をしている孝典と視線が交わった。
質問の意図が分からずぽかんとしていると、孝典が今度は少し強い口調で同じことを問うてくる。
「お前はああいう女が好みなのかと聞いている」
「あ、あの……」
何故か胸の鼓動が速まる中、克哉は必死に答えた。
ここは絶対に否定しておかなければならないと思った。
「い、いえっ! 好みとか、そういうことはございません! あの方はあくまでもお客様で、オレは、オレは……」
「……分かった。もう、良い」
「あ……」
何か、おかしい。
孝典は何故そんなことを聞くのだろう。
そして自分の言いたいことはちゃんと伝わったのだろうか。
漂う空気が妙にぎこちなく感じて、克哉は背中を丸めて俯いた。
行灯の火がゆらりと揺れて、孝典が微かに溜息をつく。
「……お前は警戒心に欠ける。もう少し気をつけるように」
「は、はあ……」
「それだけだ。もう下がって良い」
「はい……申し訳ございませんでした……」
もう一度頭を下げて、克哉は孝典の部屋を後にする。
暗い廊下に戻ってからも、克哉はまだ混乱していた。
警戒心に欠けるとは、どういうことだろう。
気をつけるとは、何に気をつければ良いのだろう。
叱られたには叱られたのかもしれないが、予想していたものとは少し違っていた。
仕事をさぼった形になってしまったことを咎められるのだとばかり思っていたのに、
孝典は別のことに腹を立てていたような気がする。
あれではまるで、あの女客に嫉妬しているような―――。
「……そんなわけないじゃないか」
あまりに自分に都合の良すぎる馬鹿馬鹿しい考えに、自嘲の笑みが漏れる。
何故、孝典が嫉妬などしなければならないのだ。
単に自分の店の者が客と妙なことになっては困るから注意されただけだ。
冷静に考えればすぐ分かることなのに、愚かにも程がある。
(それより……)
明日は本城から文を受け取らなければならない。
本当に上手く行くだろうか。
上手く行くといい。
そして、本城と孝典が仲直りしてくれるといい。
僅かな不安を抱きながらも、克哉は心からそう願っていた。
- 続く -
2010.12.18
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