暗夜情火 弐
「ありがとうございました。足元にお気をつけて」
しとしとと雨の降る店先で、克哉は深く頭を下げる。
客の差した臙脂の蛇の目が小さくなるまで見送ると、ようやく店の奥へと戻った。
「ふぅ……」
「お疲れ様でした、克哉さん」
調剤場として使っている部屋に克哉が足を踏み入れた途端、明るい声が掛かる。
声の主は克哉と同じくここで働いている藤田という男だった。
彼は何故か桂皮を擂っていた薬研の手を止めて、何か物言いたげににやにやしている。
「……なに? その顔」
「え、だって」
克哉が怪訝そうに問うと、藤田は尚も妙な笑いを浮かべながら答えた。
「あのお客様、いっつも克哉さん目当てにいらっしゃいますよね」
「は?」
「この間なんて店先から中を覗いて、克哉さんがいないと知ると帰っちゃったんですよ。
今日だって、こんな雨の中をわざわざ」
「そんなの……偶々だろう」
「そうですかねえ? あの方以外にも、何人かそういうお客様がいらっしゃるみたいですよ。
克哉さんはうちの看板娘ならぬ、看板息子ですね」
「馬鹿なことを言わないでくれよ……」
克哉は溜息をつく。
確かにさきほどの女性客はいつも克哉が対応していた。
たいして具合が悪そうにも見えないのにやれ胸が苦しいだの身体が怠いだのと言っては薬の処方を所望してくるのだが、
実のところ体調とは無関係なお喋りに付き合ってもらいたいだけらしい。
ときには「喋っているうちに治ってしまった」などと言って、結局薬を買わずに帰ることさえあった。
話好きな年寄りやらおかみさんやら、もともとそういう客は偶にいるのであまり気にしてはいなかったが、
だからといって看板息子などと呼ばれて嬉しいはずもない。
そもそも藤田という男は気が良くて付き合いやすいのだが、少々口が軽いのが玉に瑕なのだ。
雨が降ると滅多に客は来ないから、つい気が緩むと共に口も緩みがちになるのは分かる。
しかし克哉は内心、奥にいる孝典にこの話が聞こえているのではないかとひやひやしていた。
今日は暇だし、やるべき事さえきちんとやっていれば多少の私語にまでとやかく言うような主人ではなかったが、
こんな話はあまり聞かれたいようなものでもない。
すると、それまで傍で黙って話を聞いていた宏明がぴしゃりと藤田を諌めてくれた。
「……藤田。少し、お喋りが過ぎるんじゃないか」
「すっ、すみません」
睨まれた藤田は首を竦めて、再び手を動かしはじめる。
宏明は藤田とは反対に愛想はあまり良くないが、やはり細かいところに気のつく男だった。
二人とも克哉より後に雇われた身ではあったものの、先輩風を吹かすことを嫌う克哉自身の性格と、互いに年が近いこともあって、
ほとんど友人同士のような関係になっている。
三人はしばらく黙ってそれぞれの作業に精を出していたが、やはり沈黙に飽いてしまったのか、
またしても藤田が今度は酷く声を潜めて話し出した。
「……それにしても、最近は本城屋さんの噂をよく聞きますよねえ」
「ああ……萬通散だっけ」
克哉も思わず匙を持った手を止めて答える。
本城屋は御堂屋と同じく本町で商いをしている薬種問屋だ。
いわゆる商売敵ではあるが、少し前まではそれほど目立った話を耳にすることはなかった。
しかし最近になって、やたらとあちこちから「あそこの薬は良く効く」という評判を聞くようになったのだ。
それが萬通散という薬なのだが、これは本城屋だけでなく御堂屋でも扱っている一般的な薬で、頭痛や腹痛を鎮める効果があるとされている。
調合はどこの店でも同じ種類の生薬を同じ分量でしているはずなのに、何故か本城屋のものだけは特別に効くらしい。
いったいどんな調合をしているのだろうと薬屋仲間達は囁き合っているが、本当のところは誰にも分からなかった。
「このままだと、本城屋さんにお客様を取られてしまうかもしれませんよ? ここはやっぱり克哉さんの力で」
「だから、くだらないことばかり言ってないで……」
「―――克哉」
「は、はいっ!」
いつの間にか孝典が後ろに立っていたので、克哉と藤田は飛び上がらんばかりに驚いた。
一人、宏明だけはそれに気づいていたのか、二人の様子に笑いを噛み殺している。
克哉はそんな宏明に一瞬だけ恨めしげな視線を送りながら立ち上がると、孝典のほうへと向き直った。
「なんでしょうか、旦那様」
「済まないが辰蔵のところへ行って、頼んであった乳鉢を取ってきてくれ。代金は払ってある」
「えっ……は、はい。分かりました」
ほんの僅かではあったが、珍しく克哉は返事を躊躇ってしまった。
外は雨である。
鉢が足りなくなってきたので注文してあったことは知っているが、急を要するものではなかったはずだ。
ただでさえ鉢は重く、大抵は向こうから届けてくれることになっているので、この悪天の中をわざわざ取りに行かなければならない理由が分からない。
しかし、主人の命令は絶対だ。
孝典の役に立てるのであれば、なんで躊躇う必要があろうか。
克哉はすぐに気を取り直していつもどおりの笑顔になると、孝典に頭を下げた。
「それでは、すぐに行って参ります」
「ああ、頼む」
そうして克哉が番傘を手に店を出て行こうとしたところで、何故か孝典がその後を追った。
「……旦那様?」
克哉が、そして宏明と藤田も、不思議そうに孝典を見る。
しかし孝典は自分も傘を手にすると、克哉の顔も見ずに言った。
「私も用を思い出した。途中まで一緒に行こう」
「あ、あの、でしたら、その御用もオレが……」
「いや、その必要は無い」
きっぱりと言い切って、孝典は様子を伺いに出てきた二人を振り返る。
「私は少し出てくる。店を頼んだぞ」
「分かりました」
「い、行ってらっしゃいませ!」
結局、克哉と孝典は雨の中を連れ立って出て行ってしまった。
残された二人は狐につままれたような気分になって、思わず顔を見合わせる。
「あの、宏明さん。旦那様……なんだか変じゃありませんでしたか?」
「……知るか。もうここはいいから、お前は台所に行ってゴボウでも洗ってこい」
「えっ、ええっ?!」
雨は勢いを増しはじめていた。
降りしきる雨の中、克哉は孝典の後ろをついて歩く。
四つ刻だというのに町はどんよりと薄暗く、外を出歩いている者はほとんどいない。
こんな風に二人きりで歩く機会など滅多に無いことだから何か話し掛けたいところだったが、
雨の音は激しく、とても話が出来るような状況ではなかった。
傘がぶつからないようにと取った距離にほんの少しの切なさを覚えたものの、
時折孝典が後ろの気配を伺うようにしてくれるのが嬉しい。
そういえば孝典は何処に行く用事があるのだろうかと考えているうちに、先に辰蔵の店に着いてしまった。
「あ、あの、旦那様の御用は……」
克哉が尋ねようとするも、孝典は傘を閉じて店の中へと入っていってしまう。
仕方なく克哉もその後に続くしかなかった。
「おやおや、これは御堂屋様ではございませんか! こんな日に、いかがなさいましたか?」
作業の手を止めて出てきた辰蔵は酷く驚いた様子だった。
御堂屋で使っている鉢や薬研などの道具の多くは、ほとんどがこの店で仕入れている。
しかし主自らが出向いてくることなど珍しかったし、なによりやはりこの雨だ、驚くのも無理はなかった。
すわ何か問題でも起こしてしまったのだろうかとうろたえている辰蔵に、孝典は言った。
「先日、頼んでおいた鉢は出来ているか?」
「ええ、それは勿論です。明日にでもお店にお持ちしようかと思っていたところですが……」
「近くに来るついでがあったから寄ってみた。持って帰るから、準備を頼む」
「えっ。で、ですが……この雨の中をお持ち帰りになるのは大変では……」
当然のごとく辰蔵はますます驚いていたが、孝典はあくまでも平然としていた。
「構わん。用意してくれ」
「か、かしこまりました」
辰蔵は慌てて奥へと入っていく。
その会話を後ろで聞きながら、克哉は少しばかり不安になった。
もしかすると、自分は何か試されているのではないだろうか?
孝典は仕事をするときでも極力無駄を排除し、無意味なことはしないし、させもしない。
そのうえで工夫を凝らし、丁寧な仕事をすることで店を繁栄させてきた人だ。
だから、今回の指示にもきっと意味があるに違いない。
黙っていても届くはずの重い鉢を、わざわざ雨の日に取りに来る意味が―――。
「どうも、お待たせ致しました」
やがて木箱を持った辰蔵が奥から戻ってきた。
念の為にと孝典が中身を確認してから蓋を閉め、風呂敷に包む。
差し出されたそれを克哉が受け取り、二人は店を後にした。
「毎度ありがとうございました。お気をつけて」
辰蔵の声を背中で聞きながら立った店の軒先で、さてこれから如何しようかと克哉は考える。
箱は思ったより重くはなかったが嵩があり、さすがに片手で持つことは出来なかった。
となると傘は差せないから此処に置いていって、後で取りに来ればいいだろう。
鉢は濡れても差し支えないはずだから問題は無い。
それから孝典の用事にはついて行ったほうがいいのか、先に帰るべきなのか……。
「ええと……」
「どうした」
あれこれと考え込んでいる克哉に、孝典が開いた傘をすっと差し掛ける。
見れば孝典は空いたほうの手に、克哉が差してきた傘を持っていた。
「入りなさい。それでは傘も差せまい」
「あっ、あの、ですが……!」
克哉は驚きのあまり、思わず身を引いてしまった。
主人に荷物を持たせたうえに、傘にまで入れてもらうなど厚かましいにも程がある。
それがたとえ主人自身の命令から生じた状況であってもだ。
しかし孝典は尚も傘を傾け、克哉をその下へと促す。
「いいから入りなさい。それとも、嫌なのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「だったら、入りなさい」
「はい……」
孝典の言葉に押されて、結局克哉はおとなしく傘に入れてもらうことにした。
ここに来るまでとは打って変わった距離の近さに、つい胸が高鳴る。
嬉しくて、少し恥ずかしくて、けれど申し訳無くもあった。
尚も激しく降り続ける雨の中を、二人はゆっくりと歩き始める。
そこで克哉ははたと気がついた。
「あ、あの、旦那様の御用はどちらで……」
「……ああ。それはもう良い」
「え?」
孝典は真っ直ぐ前を見つめたままそう答えると、それきり口を噤んでしまう。
いったい、どういうことなのだろう。
けれど頑ななまでの孝典の横顔に、克哉もそれ以上聞くことが出来なかった。
二人は雨の町を無言で歩き続ける。
克哉は次第に何かもがどうでもよくなってきた。
孝典が何故こんなことを言い出したのか、どんな意図があったのか、今どんな気持ちでいるのかさっぱり分からない。
分からないけれど、分からなくてもいいと思えた。
どんな理由があったにせよ、今は触れ合っているわけでもないのに左側に仄かな温もりを感じることが出来る。
そんな時間を持てただけで、もう良かった。
「……わっ」
「おっと」
そのとき、通りすがりの店先から突然開いた番傘が克哉を軽く突いた。
驚いて足を止めると、長身の美丈夫が傘の向こうから頭を下げてくる。
「ごめんね。前をよく見ていなかった。大丈夫かい?」
「あ、はい。大丈夫です」
「あれ……? 君……」
突然、その男が怪訝そうな顔になる。
彼が見ているのは克哉ではなかった。
傘の下を覗き込むように僅かに腰を折って、目を眇めている。
「……もしかして、御堂じゃないか?」
「―――!」
克哉が振り返ると、孝典は酷く険しい顔をして男を見ていたが、それからすぐに目を逸らした。
「……行くぞ」
「え、あの」
足早に立ち去ろうとする孝典を追いながら、克哉は肩越しに後ろを少しだけ振り返る。
男はまだこちらを見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。
あの男は何処かで見たことがあるような気がする。
誰だったか。
「あの、旦那様……」
「なんだ」
「さっきの方、お知り合いではなかったんですか?」
「……」
しかし孝典は固く唇を結び、何も答えない。
雨の音だけが煩いほどに響いていた。
- 続く -
2010.11.25
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