暗夜情火 壱

静まり返った店の戸締りを確認し終えて、克哉はほうと息を吐く。
師走も近づいたこの頃の夜は冷えて、吐いた息は白く煙っていた。
克哉は寒さに小さく肩を竦めたが、こんなことをしている場合ではないと気づいて暗い廊下を急ぐ。
この店の主人は何時であろうと、最後の報告を受けるまでは必ず起きて待っているからだ。
数が少ないとは云え、後の始末など奉公人に任せて先に休めば良いのにと思うがそうしない。
自分は自分の残っている仕事をしているだけだから良いのだと主人は言うが、それだけではないということぐらい世話になっている者は皆知っていた。
そしてその最後の報告は誰がいつ決めたわけでもなかったが、もう何年も前から克哉の担当となっていた。
「……旦那様。克哉です」
子の刻も近いであろうにも関わらず、やはり主の部屋からは灯りが漏れていた。
冷たい廊下に両手を突き、障子に薄ぼんやりと映る影に向かって告げれば「ああ」と低い声が返る。
「全て終わりました。他に御用はございませんでしょうか?」
「いや、特に無い。ご苦労だった」
「畏まりました。それでは、お休みなさいませ」
「……待て」
「は……?」
いつもならばここでこの場を辞すれば長い一日の勤めが終わるはずだったが、今夜は少し違っていた。
障子越しの影がゆらりと揺れたかと思うと、それが開き、主人である御堂孝典が顔を出す。
「あ、あの……?」
孝典は克哉の前に片膝をつくと、幾らか顔を近づけてきた。
行灯のほのかな灯りを背にした孝典の表情は克哉にはよく見えない。
それでもこの距離で真正面からじいと見つめられることは、克哉にとって胸が苦しくなる想いがした。
「……風邪をひいたか?」
「え?」
「いつもと少し声が違っている」
確かに今日は朝から喉が少々痛かった。
けれど他に風邪らしい症状も無く、食事に障るほどでもなかったので克哉自身はほとんど気にしていなかったのだ。
だからまさか孝典がそんな些細な異変に気づいてくれるとは思わず、克哉は恐縮して頭を下げた。
「だ、大丈夫です。今朝は喉が少し痛みましたが、風邪というほどでは……」
「本当か? お前は痩せ我慢をするからな」
「いえ、本当に……―――!」
克哉が顔を上げると同時に、孝典の手が伸びてきて克哉の額に触れる。
ひやりと冷たい指先と、それとは正反対に暖かい手のひらの温度を感じた途端、克哉は金縛りにあったように動けなくなってしまった。
「……熱は無いようだな」
呟きと共に、孝典の手が離れていく。
克哉は呆然としたまま、その手の動きを無意識に目で追っていた。
「具合が悪いときは正直に言うように。……暖かくして休みなさい」
「は、……」
そこでようやく克哉は我に返った。
孝典が身体を気遣ってくれたこと、自分に触れてくれたこと、それらを嬉しく思う反面、心配を掛けてしまった申し訳なさやら羞恥やらが込み上げてきて居た堪れなくなる。
克哉は僅かに後退って孝典と距離を置くと、突いた両手に額がぶつかるほどに頭を下げた。
「あ、あ、ありがとうございます……それでは、お休みなさいませ……!」
「ああ、お休み」
それきり克哉は孝典の顔も見ないまま、その場を逃げるようにして自分の部屋へと向かった。
最後の孝典の声に、微笑が含まれていることにも気がついてはいなかった。

息を切らして部屋に戻ると、襖をぴたりと閉める。
暗闇に独りきりになった安堵からか、全身から力が抜けて克哉は畳に座り込んだ。
「旦那様……」
克哉は自らの額にそっと触れてみる。
けれど自分が触れてはさきほどの感触が失われてしまうのではないかと思い、すぐに手を離した。

克哉がこの薬種問屋である御堂屋で働くようになったのは、今から八年ほど前の十七のときのことだった。
幼い頃に母を病で亡くした克哉は十二のときにとある商家に奉公に出たものの、 同じ奉公人仲間から散々な嫌がらせを受けた挙句、十四でとうとう実家である長屋に戻されてしまった。
それからは薬の振売をしていた父を手伝いながら、親子二人でつましくも平穏な暮らしを送っていたのだった。
しかしやがてその父も急な病に倒れ、必死の看病も虚しく呆気なくこの世を去ってしまう。
これからは一人で生きていかなければならない。
天涯孤独となった身の上を嘆く暇も無く、とりあえずは普段から仕入れのために出入りしていた御堂屋に赴き父の件を報告したところ、 主人から思いがけない誘いを受けることとなった。
―――それなら、うちで働いてはどうだ。
今思えば、孝典は克哉に同情してくれたのかもしれない。
孝典もまた両親を早くに亡くし、先代が始めたこの店を引き継いで主となった経緯があったのだ。
当初は若くして主となった孝典に周囲も懐疑的であったが、孝典には持って生まれた商才があったらしく、 小さな生薬屋でしかなかった御堂屋は一年も経たぬうちにここいらでは名の知れた店となった。
その後も仕事は忙しくなる一方で、ちょうど人手が足りぬと思っていたところだと言う。
それは克哉にとって願ってもない申し出のはずだった。
御堂屋は町での評判も良く、これからもっと大きくなるだろう。
しかし初めての奉公を勤め上げることが出来なかったという過去が、克哉に快諾を躊躇わせた。
自分は前の奉公先をクビになっている。
要領も悪いし、気も利かない。
店に御迷惑を掛けるだけではないだろうか。
そう正直に告げると、孝典は厳しい顔つきになって言った。
―――そんなものは雇ってみなければ分からない。
―――それが事実だとすれば、いずれにせよ一人で商いをして生計を立てていくのは無理だろう。
―――それならばうちで修行をしたほうが良い。悪いようにはしない。
その言葉に深く心を打たれた克哉は是非にもお願い致しますと頭を下げ、 孝典もまた身元引受人の無い克哉を快く引き受けてくれたのだった。

それから八年。
主人に対する感謝を忘れたことはない。
孝典は決して温和な人柄ではなく滅多なことでは笑い顔も見せなかったが、 店の経営から奉公人達の動きまで隅々に目を配り、常に冷静で公平な判断を下す人物だった。
失敗をすれば叱り、よく働けば労をねぎらう。
それを当然のこととして行ってくれる孝典のもとで働くうちに、 克哉も以前の奉公先での一件以来、ずっと拭えなかった劣等感を忘れることが出来たように思う。
そして主として店に顔を出し、商品や仕入れの管理を確認し、尚且ついまだ夜遅くまで薬種についての勉強を怠らない孝典を心から尊敬するようになっていた。
少しでも、この方の役に立ちたい。
御恩を返したい。
その一念で懸命に働いてきた克哉が、今ではいつしか形を変えてしまった想いに苦しんでいることなど誰も知るはずがなかった。

「旦那様……」
ずきりと痛む胸を隠すように、克哉は着物の襟元をきつく握り締める。
恋―――なのだと。
それに気づいたのは、奉公を始めて三年ほどが経った頃であろうか。
その頃の孝典は彼の甲斐性に惚れ込んだ他の商人達から、次々と縁談話が持ち掛けられていた。
その話を小耳に挟むたび克哉の心は乱れ、しかし孝典がそれらを全てにべもなく断っていると知っては安堵するのを繰り返していた。
何故、そんな気持ちになるのだろう。
自分の心境が理解出来ず悶々としていたある日、珍しく孝典が熱を出して寝込んだ。
自ら看病を買って出た克哉が甲斐甲斐しく孝典の世話をしていたとき、孝典が不意に言ったのだ。
―――お前がいてくれて良かった。
そして微笑を浮かべながら、克哉の髪を柔らかく撫でてくれた。
涙が出そうになった。
しかしそれが奉公人として認められた喜びからだけではないことも知ってしまった。
何故ならそのとき克哉は孝典の手を取り、その胸に縋りつき、抱き合ってしまいたいという激しい衝動に駆られてしまったからだった。
無論、そんなことが出来るはずもない。
孝典は主人で、自分はただの下働きだ。
そして何より互いは紛うことなき男同士なのである。
たとえ立場の違いを超えられたとしても、それ以上に大きな壁が立ちはだかっていた。
だから、この想いは誰にも知られるわけにはいかない。
知られてしまえば孝典自身に迷惑が掛かってしまう。
孝典にとって自分は何人かいる奉公人のうちの一人に過ぎないのだから、 こんな懸想をしていると知られたらこの店にもいられなくなってしまうだろう。
それならば辛くとも苦しくともこの想いを隠し通して、孝典の傍で働けるほうが良い。
報われたいなどと考えてはいけない。
その覚悟はとうに決めたはずだったが、今夜のように思いがけず優しくされればどうしても心は散り乱れてしまう。
恋慕の情は日ごとに募るばかりだった。
「駄目だ……しっかりするんだ、オレ……。オレが旦那様の為に出来ることは、この店で一生懸命働くことだけなんだから……」
こんなにも親切にしてくださる旦那様を裏切ってはいけない。
失望させてはいけない。
他に出来ることなど何一つ無いのだから。
何一つ。
「……寝よう」
心の内でまじないのように繰り返しながら、克哉は布団に潜り込む。
冷たい布団に包まっても身体の奥は火が燻っているかのようにいつまでも熱く、なかなか寝付くことは出来なかった。

- 続く -
2010.11.16

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