THE FINAL JUDGEMENT【10】 -再会-
何処からか微かな歌声が聞こえてくることに気づく。
どうやらうとうとしていたようだが、本当に自分が眠っていたのかは分からない。
あれからも克哉はただ暗闇の中で蹲っていた。
聞き覚えのある声とメロディーに顔を上げると、宙に浮かぶ白い光の円がいやでも目に入る。
もう一人の自分が消えてからも、この光はここに残っていた。
光の向こうには抜け殻になった佐伯克哉の身体と、いつまでもその傍を離れない御堂の姿が見える。
見たくない。
見たくないけれど、見ずにはいられなかった。
克哉が恐る恐る目を向けると、御堂は相変わらず克哉の身体を抱き締めたまま真っ赤なベッドに横たわっていた。
こうして暗闇に一人でいるうちに、少しずつ克哉にも状況が分かってきた。
こちら側も向こう側も、所詮現実ではない。
克哉がいるのは恐らく克哉自身の心の中で、御堂がいるのはMr.Rの支配するクラブRと呼ばれる場所だ。
そこはあの夜、公園で眼鏡を掛けてしまった克哉が最初に連れてこられた場所だった。
それからはもう滅茶苦茶だった。
Mr.Rに好きなように嬲られ、玩具にされ……。
「……っ」
克哉はぶるぶると頭を振る。
冷静に考えれば異常なことだと分かるけれど、そのときはもう理性も羞恥心も全てが麻痺していたのだ。
どうせ逃れられないのならば、抵抗しても無駄だと思った。
快楽に流され、溺れ、このままずっとMr.Rの玩具として生きていけばいいのだと。
けれど、御堂は諦めていなかった。
どんな方法を使ったのかは分からないけれど、こんな場所まで助けに来てくれたのだ。
恐らくはMr.Rが自分にとどめを刺すため、御堂を連れてきたのだろう。
そして、それは思惑通りとなった。
佐伯克哉は壊れた人形となりはて、ただそこにいる。
それなのに御堂はまだ克哉の傍を離れようとはしなかった。
御堂は克哉に子守唄を歌っていた。
寝つきの悪い克哉を寝かしつけるために、ときどきやっていたことだ。
抱き締めて背中を撫で、耳元で歌ってやるとすんなりと眠りについたものだった。
こうしていれば克哉が安心して眠れるのではないかと思った。
そしてやがては目を覚まして、いつものように笑ってくれるのではないかと思った。
御堂は祈るような気持ちで歌を歌い続けていた。
「……なんと健気なことでしょう。素晴らしい愛の形ですね」
皮肉たっぷりの称賛とともにMr.Rが姿を現して、御堂はぴたりと歌うのをやめる。
そして克哉を守るように、克哉の身体をきつく抱き締めた。
「……何の用だ」
「そろそろゲームオーバーかと思いまして」
「……!!」
御堂は男を睨みつけた。
相変わらず男の表情から真意を読み取ることは出来ない。
Mr.Rは薄い笑みを浮かべてこちらを見下ろしながら言った。
「佐伯さんは完全に壊れてしまったようですので、ここでゲームは終了ということでよろしいのではないでしょうか。
私としましては些か拍子抜けと申しましょうか……佐伯さんほどの方ならば、もう少し楽しませてくださるかと思ったのですが……」
「貴様……」
あまりに好き勝手な言い分に腸が煮えくり返る。
しかしMr.Rは笑みを浮かべたまましれっと言い放った。
「残念ですが、致し方ありません。つきましては今すぐにでも現実世界に戻して差し上げられますが、如何なさいますか?」
「……それは、克哉も一緒にということか?」
「まさか。帰れるのはあくまでも貴方だけ。佐伯さんはこちらに置いていっていただくことになります」
「何故だ?! 壊れてしまったというのなら、もうここにいる必要もないだろう」
「いいえ、それは出来ません。佐伯さんの意志を確認しておりませんので」
「……」
御堂は腕の中の克哉を見つめる。
睫毛が震えることはないか、唇が動くことはないか、期待しながら待ってみるも変化はほんの僅かも起こらない。
目覚めてくれさえすれば、きっと克哉は帰りたいと言ってくれるはずなのに。
御堂は克哉を抱え込む。
「……まだだ」
「はい?」
「まだゲームは終わっていない。克哉の意志を確認していないのは私も同じだ。
克哉がここに残りたいと言うのを聞くまで、私は諦めない。私だけ帰るなど絶対に有り得ない」
「……本当にしつこい方ですねえ」
Mr.Rが呆れたように肩を竦める。
「貴方の言い分もごもっともです。ですが、それではきりがありません。時間制限を設けましょう」
「時間制限だと?」
「ええ。あちらに」
促された方向を見ると、いつの間にか真っ赤な壁に大きな柱時計が掛かっていた。
しかしよく見ると時計には針が一本しかついていない。
その針はちょうど12時の位置を指していた。
「あの針が一周してもう一度12時を指すとき……それまでに佐伯さんの意志を確認出来れば、それに従いましょう。
もし戻らない場合は、私が強制的に貴方のみを現実の世界にお戻しします」
「待て、そんな勝手に……!」
「ここの支配人は私……。これでも私はかなり譲歩しているのですよ?」
「……」
Mr.Rの口調はとても穏やかであるにも関わらず、決して反論を許さない雰囲気を纏っていた。
御堂もそれ以上言えば事態を悪化させかねないことを察して黙るしかなかった。
「……それでは、また12時にお会いしましょう」
恭しく頭を下げてMr.Rが姿を消す。
御堂は克哉をきつく抱き締めたまま、刻一刻と時を刻む時計を睨みつけていた。
「12時、までに……」
そのやり取りを暗闇から覗いていた克哉もまた時計をじっと見つめていた。
時間の流れが曖昧なこの場所では、あの時計がいったいどれぐらいのスピードで進むのか分からない。
タイムリミットまでは思ったよりも長い時間なのかもしれないし、あっという間なのかもしれなかった。
(答えを出さなくちゃいけない……)
要するに、これがラストチャンスということだ。
克哉はもう諦めたつもりだった。
けれどまだ諦めていない御堂の姿を目の当たりにして心が揺れる。
迷う余地など無いはず―――克哉は自分に言い聞かせる。
一緒に戻ってもきっと同じことを繰り返すだけ。
御堂だけで元の世界に帰ってくれれば、いつか御堂も自分のことなど忘れて別の幸せを見つけてくれるだろう。
自分と御堂は違う。
御堂に出会ってようやく多少は力を出せるようになった自分とは違って、御堂はもともと全てにおいて優秀な人間だ。
時間が経てばこんな異常な体験も夢だったように思えてくるに違いない。
そしてやがては別の誰かと愛を交わすようになるだろう。
厳しいだけでなく、とても優しい人だ。
真面目で、情熱的で、意外とロマンティックで。
あの手も、あのキスも、あの背中も、いつかは別の誰かが―――。
「……っ」
克哉は唇を噛んだ。
想像しただけで苦しくなって、握り締めた拳が震える。
嫌だ。
あの人はオレのものだ。
オレはあの人のものだ。
あの人の傍で生きるのはオレでありたい。
あの人に愛されるのも、あの人に傷つけられるのも、あの人に望まれ、求められるのも。
「孝典さん……」
克哉は思わず光の円に駆け寄った。
自分から手を離したくせに、どれだけ勝手なことを願っているかなんて分かっている。
それなのに諦めたつもりでいた心が、まだこんなにも御堂を求めていた。
光の向こうに御堂が見える。
御堂はまだ克哉の身体を抱き締めていた。
「克哉……」
御堂の声が聞こえる。
「私は絶対に諦めない。私は君を信じている。君が恐れることなど、なにひとつないんだ。
だから安心して戻ってこい。克哉……」
孝典さん、と克哉は小さく呼び返す。
けれど克哉の声は御堂に届かない。
御堂は独り言のように克哉に話し続けていた。
「君がいなくなって、君と私のことは皆が知るところとなった。だが、君が不安に思っていたようなことはなにひとつ起きなかった。
君も私もなにひとつ失っていない。なにも変わっていない。君がいなくなったこと以外はな……」
その呟きに、克哉は驚く。
だが確かに突然自分がいなくなったことで、大勢の人に迷惑を掛けてしまったのだ。
自分を探すためにも、周囲に二人の関係を説明する必要があったのだろう。
申し訳なさに胸が痛む。
「皆、君を心配している。君が戻ってきてくれさえすれば、それでいいと思っている。
いろいろ問題はあるかもしれないが、それもきっとなんとかなる。
だからまずはここから帰ろう。君のご家族や、友人達の為にも」
そこまで言って、御堂はふっと笑った。
「……もちろん私に同情してくれてもいいんだぞ?
点滴やサプリに頼ってなんとかやってはいたが、私のほうも限界だったからな……。
まさかよりによって本多の前で倒れてしまうとは思わなかったが」
自嘲しながらの告白に、克哉は更なる衝撃を受けていた。
御堂は完璧な人だから、きっと自分がいなくてもそれなりの生活を送っているのだと思っていた。
けれど、そうではなかったのだ。
この人は倒れてしまうほどに苦しんでいた。
そして御堂をそこまで苦しめたのは自分だ。
このままで本当にいいのだろうか。
ここまで思ってくれているこの人を、これ以上裏切り、傷つけるのか。
「孝典さん……」
まだ、やり直せるのだろうか。
御堂は許してくれるだろうか。
それになにより自分が頑張れるだろうか。
己の無力さを乗り越えて、支配されたいと思ってしまう弱い心に打ち勝って、御堂に相応しい自分であるために努力し続けられるだろうか。
また逃げたくなるかもしれないのに。
「克哉……」
そのとき、まるで克哉の葛藤が伝わったかのように、御堂が克哉の身体をきつく抱き締めて呟いた。
「克哉、私には君が必要だ。私は君を信じている。君を逃がさない。君は私のものだ。そして私も君のものだ。
君でなければ駄目なんだ。……だから戻ってこい、克哉……頼む……」
振り絞るようにして紡がれた言葉に、克哉の心が震える。
気づけば涙が溢れていた。
戻りたい―――。
自然とその想いが湧き上がってくる。
御堂の傍に戻りたい。
やり直したい。
克哉は涙を拭った。
「……オレって、本当に最低だよな」
『今更だな』
いつの間にか傍に立っていたもう一人の俺にばっさりと言い切られて、克哉は苦笑する。
けれど今はその遠慮の無さが心地好かった。
本当に、最低だ。
最低のところまで来たからには、後は這い上がるだけ。
克哉はもう一人の自分に向かって手を差し出した。
彼はかなり嫌そうな顔をしたけれど、それでもその手を取ってくれた。
繋いだ手から互いの感情が流れ込んでくる。
誰も信じないと思った。
誰も傷つけたくないと思った。
だけど全てが欲しくて、誰にも奪われたくなくて。
醜く激しい欲望と、怯えてばかりいる弱さとを同時に抱えていた。
本当はもう一度誰かを信じたかったんだ。
同じことを感じ、同じことを考えていたのに、どうしてあんなにも恐れたり、羨んだりしていたのだろう。
あらゆる感情を《オレ》と《俺》は共有している。
《オレ》と《俺》の境目が無くなっていく。
(ああ―――)
ずっと不安定だった自分が、今ようやく形を成したような気がした。
オレ達はお互いの逃げ場なんかじゃない。
眼鏡に頼るとか頼らないとか、そんなことはどうでもいいことだったのだ。
だって始めから《オレ》と《俺》は同じ人間だったのだから。
『……呼んでるぞ』
耳を澄ませると、また御堂の呼ぶ声が聞こえてくる。
こんなことになってもまだ御堂は自分を求めてくれている、愛してくれている。
御堂もまた自分と同じように弱さを抱え、それに押し潰されそうになりながらも、懸命にそれを乗り越える努力をしてきたのだろう。
自分だけが苦しかったわけじゃなかった。
何も分からなくなっていた間でさえ、御堂は傍にいてくれた。
そして自分も知らぬうちに御堂を求めていた。
壊れかけていた心に感情を呼び戻してくれたのは御堂だ。
もう、とうに自分は御堂に支配されていたのかもしれない。
身体も、心も、溺れるほど。
「……なあ、俺」
克哉は顔を上げる。
その言葉を口にするのは、あまりにも身勝手だと分かっている。
けれど、それでもやはり言いたかった。
「オレ……もう少しだけ頑張ってみてもいいかな? 頑張れると思うか?」
その問いに眼鏡を掛けた克哉は少し黙って、それからやはり不機嫌な顔で答えた。
『……勝手にしろ』
白い光が少しずつ大きくなってくる。
それはやがて眩しくて目を開けていられないほどになった。
光に吸い込まれていく。
もう一人の自分の声が聞こえてくる。
『だが、二度と無様に逃げだしたりするな。……お前は、俺なんだからな』
《俺》が《オレ》を認めてくれた。
うん、そうだな。
もう諦めないよ。
ありがとう。
お前がいてくれて良かった。
ありがとう―――。
なんだか、しっくりとこない。
自分の身体のはずなのに、まるで自分のものでないような感じがした。
それでも克哉は懸命に腕を動かそうとした。
早く、御堂を抱き締めたかった。
もちろん彼にそれを許してもらえるなら、だが。
一方、御堂も腕の中の克哉がぴくりと動いたような気がしていた。
まさかと思いながら御堂は克哉の首筋からそっと顔を離す。
見つめる御堂の目の前で克哉の睫毛が震え、瞼がゆっくりと開きはじめた。
「う……」
掠れた声が唇から漏れる。
蒼い瞳が御堂を捉える。
今度こそ、しっかりと。
「かつ、や……?」
目が覚めたとしても、また同じことが繰り返されるかもしれない。
御堂の心に不安が過ぎったけれど、克哉の瞳は確かに御堂を見ていた。
御堂は呼吸すら忘れて、克哉に見入った。
「……か、のり、さん」
孝典さん。
たどたどしかったけれど、克哉は確かにそう言った。
夢じゃないだろうか。
御堂はまだ動けない。
その背中に克哉が軋む腕を回そうとする。
―――抱き締めても、いいですか?
克哉の物怖じしたような視線がそう尋ねていると分かったとき、御堂は漏れそうになる嗚咽を堪えるために唇を噛んだ。
何も言葉にならなかった。
ただ二人は抱き締め合った。
息が止まりそうなほど、骨が折れそうなほど、御堂はきつく克哉を抱き締めた。
克哉もまた、力の入らない腕で精一杯御堂を抱き締め返した。
堪えきれない涙が溢れる。
ようやく。
ようやく帰ってきた。
この愛しい腕の中に。
「克哉……」
御堂は克哉の涙に濡れた顔を改めて見つめる。
そして不意に、心配そうに眉尻を下げた。
「……どうした? 血が出ているぞ?」
「え?」
指先で触れると、確かに唇の端から血が出ていた。
口の中も、頬も痛い。
さっきまで何ともなかったはずの克哉の顔が変わっていることに、御堂は不安げな表情を浮かべる。
「大丈夫、ですよ」
これはオレの背中を押してくれた、もう一人の俺の証。
泣きながら微笑む克哉に安心したのか、御堂はようやくほっと息をついた。
- To be continued. -
2017.07.17
[←前話] [→次話]
[←Back]