THE FINAL JUDGEMENT【09】  -追慕-

気がついたときには、ここにいた。
真っ暗で、静かで、けれど不思議と恐怖は感じなかった。
それに、ここはとても暖かい。
窓が無いから確かめられないけれど、きっと外はいい天気なのだろう。
そういえば今は春だったはずだから、そろそろあの花が満開になっているかもしれない。
あの花は嫌いだ。
大抵の人は好きだって言うけど、オレは大嫌い。
あの花を見ると、嫌なことを思い出しそうになるから。

もしかしたら、オレは死んだのだろうか。
それならそれでもよかった。
初めて見た、あの人の涙を思い出す。
オレはあの人を傷つけてしまった。
あの人の迷惑にだけはなりたくなくて、あの人にだけは嫌われたくなかったのに、オレは一番したくないことをしてしまった。
もう終わりだ。
今度こそ本当に、全部終わったんだ。

どれぐらいそこに蹲っていたのだろう。
不意に暗闇から誰かの声が聞こえてきた。
『いつまで、そうしている気だ』
……やっぱり、来たんだ。
それは眼鏡を掛けたもう一人の俺の声だった。
オレはますます背中を丸め、きつく膝を抱え込む。
今は誰とも話したくないんだ。
一人にしてくれよ。
『俺はお前なんだから、仕方が無いだろう。それに俺からしてみれば、来たのはお前のほうだ』
なんだか泣きたくなる。
何処へ行っても、オレは一人きりになることすら出来ないんだな。
それならオレが消えるのに、どうすれば消えてしまえるのか分からない。
膝に額を押し付けて出来る限り小さくなってみても、完全に消えることなど出来ない。
そんなオレを見て俺がうんざりとした溜息をついた。
『まったく……お前はつくづく情けない奴だな』
そんなこと言われなくても分かってるよ。
だから自分から消えようとしたんじゃないか。
それなのに眼鏡を掛けてもお前にはなれなかった。
あそこでお前になれれば、こんなことにならずに済んだかもしれないのに。
『人の所為にするな。そもそもお前は一年も前に、俺を必要無いと切り捨てたんじゃなかったのか』
そうだったな。
ごめん。
オレが謝ると、また俺は溜息をついた。
きっと呆れているんだろう。
『……これから、どうするつもりだ』
どうもしないよ。
オレはここにいる。
これからも、ずっと。
何処にも行かない。
どうせ何処にも行けないしね。
『佐伯克哉はどうする』
オレはいらないよ。
お前にあげてもいいけど、お前だってあんなのいらないだろう?
物凄く汚れてるし、もう使い物にならないよ。
……怒ってるのか?
『ああ。最高にな』
そうだよな。
お前もオレなのに、こんなことになっちゃって本当にゴメンな。
やっぱり、さっさとお前に返しておけば良かったんだ。
最初に、あの眼鏡を貰ったときに。
『随分と勝手な言い草だな』
そうだな。
でも、お前だって勝手じゃないか?
だいたいお前ってなんなんだよ。
もう一人の俺とか言われても訳が分からないよ。
いきなりオレの前に現れて、オレとお前じゃぜんぜん違うじゃないか。
それともオレって二重人格なのか?
なんかの病気?
『そうじゃない』
じゃあ、なんなんだよ。
お前は分かってるのか?
分かってるなら、ちゃんと教えてくれよ。
ずっと気になってたんだ。
『……分かった。教えてやる』
俺は酷くあっさりとそれを承諾してくれた。
やがて暗闇にぼんやりと白い光が浮かんでくる。
それは次第に大きくなって、その光の中に何かが見えてきた。

満開の桜の下に小学生ぐらいの男の子が二人立っている。
手に持っているのは卒業証書の入った筒のようだ。
あれは誰だ?
『片方は佐伯克哉だ。子供の頃の』
そう言われてもピンと来ない。
オレには中学生より以前の記憶がほとんどなかった。
考えてみれば、それ自体おかしかったのかもしれない。
二人をずっと見続けていると、突然、黒髪のほうの少年が子供のオレに向かって叫んだ。

―――どうせお前みたいな奴には分からないんだ!

―――絶対……一生、わかりっこない!

その悲痛な叫びを聞いて、オレはぼんやりと思い出していた。
いや、思い出したというよりは、もう一人の俺の記憶が流れ込んできたのだろう。
あいつは小学校時代の親友―――だと、思っていた奴だ。
『……分かったか』
うん、なんとなく。
確かオレがクラスで突然いじめられるようになって、そのときこいつだけが味方してくれたんだよな。
でも実は……こいつこそがイジメの首謀者だった。
ただその記憶はあまり鮮明なものではない。
光の中に見えるそいつは佐伯克哉を罵倒しつづけていた。
要するに彼はオレを妬んでいたらしい。
だからオレの味方の振りをして、陰でクラスメイト達にオレをいじめるよう指示していたらしかった。
でもきっとそれだけがイジメの原因ではなかったのだろう。
クラスメイトの側もそいつと同じように、多少なりともオレを疎ましく思う気持ちがあったんだ。
そいつはひとしきり叫ぶと、ざまあみろと笑いながら走り去っていった。
でもその笑顔はどこか辛そうで、そして佐伯克哉は最後まで何も言い返すことすら出来ず、呆然と立ち尽くしていただけだった。
残されたのは風に舞い散る、一面の桜吹雪。
ああ、そうか。
だからオレは桜が嫌いだったのか。

そのままオレはふらふらと桜並木の下に座り込んでしまう。
すると、そこに見覚えのある黒ずくめの男が現れた。
あれはMr.Rだ。
どういうことなんだ?
どうしてあの人が子供のオレの前に?
Mr.Rがオレに何かを話しかけている。
その声は遠すぎて、ここからは聞きとれない。
けれどそのうちに黒い皮手袋を嵌めた手が、銀色のフレームの眼鏡を差し出したのだけははっきりと見えた。
受け取るな。
それを受け取ったらダメだ。
オレは咄嗟にそう思っていた。
けれど最初は警戒している様子だったのに、オレは結局それを受け取ってしまう。
子供の佐伯克哉は眼鏡を握り締め、きつく目を閉じた。
そして―――。

映像はそこで途切れた。
白い光が徐々に小さくなって、再び闇が訪れる。
『……分かったか』
俺に聞かれたけれど、オレは答えられなかった。
でもそれは分からなかったからじゃなくて、分かってしまったからだ。
オレという存在の意味を。

だからだったんだな。
誰にも妬まれないように、誰にも深入りされないように、なるべく目立たないようにオレが生きてきたのは。
それはあの時、お前が願ったことそのままだったんだ。
誰かを信じて、裏切られるのはもう嫌だ。
自分が目立つことで、知らずに誰かを傷つけることもしたくない。
だから今までの自分は捨ててしまおう。
別人になってしまおう。
そうやって生まれたのがオレだったんだ。
オレは目の前に立つ、眼鏡を掛けたもう一人の佐伯克哉を見上げた。
そいつはいつもの傲慢な俺じゃなく、たった今見た子供の頃の佐伯克哉と同じ目をしていた。

……なあ。
オレは本当はお前が羨ましかったんだよ。
お前はオレの理想だった。
何でも出来て、誰にも負けない。
人に何を言われようと、自分のやりたいことをやる。
どうしてオレはお前みたいな力を持っていないんだろうって、ずっと思ってた。
オレはお前の望む佐伯克哉になったはずなのに、オレのほうはお前に憧れてたんだ。
可笑しな話だよな。
『……そうだな』
でもあの人に出会って、あの人がオレを認めてくれて、オレは初めてオレ自身の力でちゃんと頑張ってみようって思えたんだ。
でも……。
『でも?』
でも、やっぱり無理だったんだ。
もっとあの人の役に立ちたいのに、もっとあの人に必要とされたいのに、オレの力じゃぜんぜん足りなくて。
オレはあの人の隣りに立つ資格なんてなかった。
オレはただあの人に支配されたいだけだったんだ……。
『……そうやって、また逃げるのか』
冷たい声がオレに突き刺さる。
『一年前、眼鏡を返すことを選んだのはお前だ。 馬鹿で臆病者のお前なりに悩んで、苦しんで、それでもあいつと向き合おうと決めたんじゃなかったのか。 それなのに、また同じことを繰り返すつもりか?』
お前だって……!
そもそも最初に逃げたのはお前じゃないか!
お前が逃げたからオレが生まれたんだろう?
お前はオレに佐伯克哉の人生を押しつけたんだ。
オレとお前は同じなんだから、お前がオレを責める資格なんかない!
……オレは激情に駆られて叫んだ。
実際に声を出していたわけではないだろうけど、それでも初めてといっていいほどにオレはもう一人の俺に感情を爆発させていた。
もう一人の俺はしばらくオレを無言で見つめていたが、やがて視線を遠くに向けて呟いた。
『……そうだな。お前の言うとおりだ』
……そうだよ。
そもそも逃げる以外、どんな方法があった?
今更、オレは本当はあなたに支配されたいだけなんです、なんて言えるわけがない。
オレはあの人と並んで歩くことが出来るような男じゃなかった。
オレはあの人の期待には応えられなかった。
でもお前なら……眼鏡を掛けた俺なら出来ると思ったんだ。
それなのに結局オレはあの人を苦しめて、傷つけて、泣かせただけだった。
オレはどうすれば良かったんだよ……。
『……さぁな』
オレは俺の視線の先を追う。
そこにはまたしても小さな白い光が浮かび始めていた。
『その答えを出すのは俺じゃない。お前と……あいつだろう』
光の中に何かが見えてくる。
目を逸らしてしまいたいのに、逸らせない。
そこにいるのは、大好きな―――。



「克哉……」
こうして名前を呼ぶのは、もう何度目だろう。
ベッドの中で御堂は克哉の髪を愛しげに撫でながら囁いた。
あれから克哉はずっと眠り続けている。
閉じられた瞼が開くことはなく、呼ぶ声に反応することもない。
それでも御堂は不思議と穏やかな気持ちだった。
堕ちるところまで堕ちたからには、もう怖いものは何も無い。
どんな状況であれ目の前に克哉がいてくれるだけ、一人で過ごした時間に比べればずっとましだった。
「ずっと乱暴にして悪かったな。まだ痛むか?」
そう言って、克哉の肩や手首をさする。
あちこちに残された御堂の歯形や、縛られた痕が痛々しい。
御堂は克哉の手を取り、紫色の痣がついた手首にくちづけた。
「結局私は、君を傷つけることしか出来なかったな……」
御堂が痛みを堪えるような笑みを浮かべる。
克哉に出会ってから、御堂は戸惑うことばかりだった。
誰かをこんなに大切に思うことも、無力な自分を憎むことも、今まで一度も抱いたことのない感情だった。
それでもきっと今のほうが幸せなのだと思ってしまう。
克哉が与えてくれるものなら、どんなものでも大切だった。
ただこんなにも彼を愛しているのに、救い出すどころか、更に傷つけてしまったことだけが悔しくて堪らなかった。
「……私は最低だ。こうなってもまだ自分のことしか考えていない。君をこれほど傷つけておきながら、それでも君を離したくないんだからな」
出会ったときから、ずっと傷つけてばかりいた。
何よりも大切に思っているのに、あまりにも激しすぎる感情を持て余していた。
彼を失うことが怖くて、彼が自分から離れていくかもしれないと思うだけで気が狂いそうになった。
いっそ冷たい檻に閉じ込めて、誰の目にも触れさせないようにしてしまいたいと考えたこともある。
けれど辛うじてそれをしなかったのは彼を信じたかったからだ。
そんなことをしなくても彼は離れていったりしないと。
ずっと傍で、共に生きてくれると。
「……だが君は私の前から姿を消した。それは、やはり私の所為だったのか? 私に君を引きとめておくだけの力が無かったからなのか?」
克哉は答えてくれない。
けれどその答えがどちらでも今はもうどうでもよかった。
克哉が聞いていようがいまいが、それでも今はただ話したかった。
「克哉……。君に出会って、初めて私は自分の無力さを知った。思い上がっていた自分に初めて気がついた。 君は私を強い人間だと思っているのだろうが、そうじゃない。私はただ分からなかっただけだ。 人に弱みを見せたり、甘えたりしたことなど無いから、どうすればいいのか分からなかった。 本当は誰かがいなければ生きていけないような人生など送りたくなかったんだ。 でも君がその存在である限り、私は幸せなのだと思う。君は私の世界を変えた。君がなんと言おうと、君の力は強い。少なくとも、私にとってはな」
果たして克哉が目覚めていたなら、ここまで本音を打ち明けられただろうか。
そう考えると、やはり自分は弱い人間だと思って御堂は自分自身に苦笑した。
「仕事も、生活も、私にとって大切なものであることに変わりはない。 しかしそれも全て、君がいなければ何の意味も無いものになってしまったんだ。……友人を傷つけてまで、手に入れたものでさえもな」
御堂は克哉の頬を撫でる。
柔らかく、そっと唇をなぞる。
「克哉……もう君は本当に戻ってこないのか? 君の心が私の元に戻ってくることはないのか? 私は諦めなければならないのか?」
御堂の声が震える。
「克哉……私はまだ信じたい。私は君を待っているんだ。頼むから、傍にいてくれ。ここに戻ってきてくれ。私を、一人にするな……」
そして御堂は克哉の身体を抱き締める。
克哉の身体はこんなにも暖かいのに、克哉の心だけがここには無い。
分かっていても、抱き締めずにはいられなかった。



御堂と離れた暗闇の中にいるはずなのに、克哉はその温もりを確かに感じていた。
ここが暖かかったのは、御堂がずっと傍にいてくれたからだったのだ。
どうして、この人はそこまで言ってくれるのだろう。
どうして、そこまで愛してくれるのだろう。
あんなにも穢れた姿を御堂だって見たはずなのに。
オレはこんなにも醜くて、こんなにも弱いのに。
克哉の目に涙が溢れる。
辛くて、苦しくて、耳を塞ぎたいのに、それは出来ない。
克哉は思わず叫んでいた。
「なぁ、俺! まだいるんだろう、出てきてくれよ!!」
目の前に再び眼鏡を掛けた佐伯克哉が姿を現す。
克哉はそのもう一人の自分に縋りついた。
「俺、頼む……オレの代わりにあの人の傍にいってくれないか……?」
『なんだって?』
「だって、オレじゃダメなんだ。オレはきっとまた同じ過ちを繰り返してしまう。オレじゃあの人の力になれない。だから……」
『お前……本気で言っているのか?』
本当は自分自身の手で御堂を抱き締め返したい。
出来ることならば謝って、もう一度やり直したい。
けれど、ここから出ることが怖い。
この暖かな暗闇から出ていくことが堪らなく怖かった。
「だって、他にどうすればいい? このままじゃ、あの人まで壊れてしまうかもしれない。あの人には元の世界に戻ってほしいんだ。 お前だって佐伯克哉なんだから……」
『……お前な』
突然、乱暴に腕を引っ張られ、無理矢理立たされた。
そして。

―――!

左頬に焼けるような痛みが襲ったかと思うと、身体ごと右側に倒れ込んでいた。
口の中に血の味がして、自分が殴られたことに気づく。
『いい加減にしろ。お前はあいつだけじゃなく、俺のことまで馬鹿にするつもりか? ふざけるなよ』
「俺……」
頬がずきずきと痛む。
けれど、その痛みを感じられることがどこか嬉しかった。
それはきっと自分自身が殴られでもしなければ自分を許せないと思っていたからかもしれない。
そして自分で自分を殴り飛ばしたいほどに腹が立っていたからかもしれない。
克哉は頬を押さえながらふらつく足で立ち上がったが、もう一人の克哉は手を差し伸べることさえしなかった。
『……あいつは仕事で役に立つと思ったから、お前を選んだのか? あいつはお前の能力だけを必要としていたのか?  そのためだけにお前は俺にあいつの元へ行けと? それであいつが喜ぶと、本当に思っているのか?』
「……」
分かっている。
御堂はそんな人間ではない。
けれどどうしても足が竦んで動けずにいる克哉を、もう一人の克哉は冷ややかに見下ろしていた。
『だったら、もう好きにしろ』
「え……?」
突き放すように言われて、克哉がうろたえる。
そんな克哉に眼鏡の克哉はあっさりと背中を向けた。
『馬鹿々々しい。お前達の問題に俺を巻き込むな。御堂が壊れようがどうしようが俺には関係無いことだ』
「そんな……!」
『あいつを選んだのはお前であって俺じゃない。それに御堂がどうなろうと、後先考えずこんなところまでのこのこやってきたあいつの自業自得だ。俺の知ったことか』
「そんな、ひどいよ……お前だってオレなのに……」
『今度はお前が俺に佐伯克哉を押しつけるのか? それとも御堂にか?』
「っ……!」
克哉が返事に詰まる。
もう一人の自分からの言葉は何よりも鋭く胸に突き刺さった。
『とにかく俺はお前の尻拭いをするなんてごめんだ。自分でやったことの責任は、自分で取れ』
「俺……」
今度こそ眼鏡を掛けた克哉は背を向ける。
暗闇に溶けるようにして消えていった後姿を、克哉はただ呆然と送るしかなかった。

- To be continued. -
2017.07.14

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