THE FINAL JUDGEMENT【04】  -誘い-

―――孝典さん

懐かしい声がした。
いつも少しはにかみながら、けれど何処までも深い愛情を込めて自分を呼んでくれた声。
狂おしいほどに愛しい、あの声。

―――孝典さん

暗闇にぼんやりと小さな光が現れる。
その小さな光は少しずつ広がっていって、やがて視界は真昼のように明るくなった。
「かつ、や……」
そこには克哉がいた。
穏やかな蒼い瞳、揺れる薄茶の髪、白い頬。
以前と変わらない微笑みを浮かべて、こちらを見つめている。
「克哉……!」
目の奥が熱くなって、涙が滲んだ。
ようやく見つけた。
私の、私だけの、克哉。

―――孝典さん

克哉はゆっくり近づいてくると、頬に触れてきた。
ぞっとするほど冷たい指先で、愛しげにそこを撫でる。
そのうちに彼の微笑みは少しずつ消えて、代わりに悲しそうに顔を歪ませた。

―――孝典さん……ごめんなさい……

何故、謝るんだ。
謝る必要など無い。
君が戻ってきてくれさえすれば、それでいいんだ。

―――ごめんなさい……ごめんなさい……

それでも克哉は謝り続ける。
もういいと抱き締めてやりたいのに、指一本動かすことは出来ない。
やがて克哉の手はゆっくりと離れて、そして一歩後退った。

―――ごめんなさい、孝典さん

何故、離れるんだ。
何処へ行くつもりなんだ。
君は私のものなのに。
君はずっと私の傍にいると誓ってくれたのではなかったのか。

―――ごめんなさい

問い詰める心の声が聞こえたかのように、克哉は寂しそうに目を伏せる。
それから、もう一度顔を上げて言った。

―――さようなら、孝典さん

克哉が遠ざかっていく。
光の中に消えていく。
駄目だ。
そんなことは許さない。
私から離れるなど絶対に認めない。
行くな。
ここにいてくれ。
頼む。
君を得るためならなんでもする。
だから、克哉。

「……」
視界はただの白で埋め尽くされた。
まるで水底から天を見上げているかのように、目の中で細かい光の粒子が揺れている。
目尻を何かが伝い、苦しさに浅く息を吸い込んだ。
「……かつ、や」
乾いた舌で呟くと、傍で誰か人の気配が大きく動いた。
「御堂? 気がついたのか?」
真っ白だった視界に影が落ちる。
真上からこちらを覗き込んできたのは本多だった。
ここは何処なのだろう。
何が起こっているのかさっぱり分からない。
「今、医者呼んでくるから」
そう言って本多は慌てた様子で視界から消えた。
続いてドアの開閉する音。
御堂は目だけを動かして見える範囲を見回した。
どうやら病院のようだ。
左腕には針が刺さっていて、そこから細長い管が伸びている。
管の先は吊り下げられた袋に繋がっていて、そこから点滴らしき薄黄色の液体がぽたぽたと落ちていた。
「御堂」
もう一度ドアの開閉する音が聞こえてきた頃には、御堂の意識も少しは明確さを取り戻していた。
現れた見覚えのある顔に、御堂はその名を呼ぶ。
「……四柳」
「驚いたぞ。まさかここにお前が担ぎ込まれて来るとはな」
それは学生時代からの友人で、今は医師をしている四柳だった。
とすると、ここは彼の勤めている大学病院ということになる。
四柳は御堂を見下ろしながら説明を始めた。
「たまたま今日の内科担当が斎藤先輩で、僕にも連絡が来たんだよ。彼……本多君の話だと、佐伯君のアパートにいるときにお前が突然倒れたそうだが覚えているか?」
「ああ……」
そういえば、そうだ。
克哉の部屋で本多と話をして、それから部屋を出ようとしたところで突然目の前が真っ暗になって……そこで記憶は途切れている。
あのときに倒れたということか。
「先輩によると、恐らくは過労による貧血というところだろうって。後で血液検査をしてみないと確かなことは分からないけど……お前、食事もろくに摂っていないんじゃないか?」
「……」
四柳を始めとする御堂の友人達も、行方不明になった克哉を御堂が必死で探し回っていることは知っている。
そして彼らもまた、それぞれが出来る範囲で克哉の捜索に協力してくれていた。
やはり誰も手掛かりは得られなかったものの、多忙な彼らが協力してくれたことには感謝している。
それでも図星を指された気不味さについ顔を背けると、今度は四柳も溜息を隠そうとはしなかった。
「……気持ちは分かるが、それでお前がこの有様ではどうしようもないな。……本多君」
「は、はい」
四柳の後ろから本多が顔を出す。
「御堂はしばらく入院させる。あとのことはこちらでやっておくから、君はもう帰っていいよ。付き添ってくれて、ありがとうね」
「分かりました」
「待て! 私は」
勝手に話を進められて御堂は憤る。
しかし起き上がろうにも身体が怠くて動かない。
四柳は御堂の肩を軽く叩いた。
「いいから、今夜はここに泊まっていけ。会社には明日の朝にでも連絡すればいい。それで一週間ぐらい、ゆっくりしろ。どうせ有給も余っているんだろう?」
「そんなこと出来るわけないだろう。仕事もあるし、それに……」
「御堂」
四柳は珍しく強い口調で御堂を諌める。
「お前が佐伯君を心配する気持ちは分かる。だが、お前を心配している人間もいるんだということも分かってくれ」
「……」
自分のことなど、どうでもいい。
けれど起き上がることも出来ない今の状態では、何を言っても滑稽でしかないことは分かっていた。
「……分かった。分かったから、もう一人にしてくれ……」
諦めて、でも顔を背けたまま頼むと、四柳と本多は無言で顔を見合わせその場を立ち去ってくれた。
本多には礼を言わなければならないところだったが、今はその余裕さえなかった。
二人が病室を出て行った後には、御堂と静寂だけが残された。
「克哉……」
御堂は点滴の打たれていない方の腕で、自分の目を覆った。
暗い瞼の裏に、さっき見ていた夢が蘇る。
あれが夢で良かった。
克哉がいなくなるなど耐えられない。
もしもあれが現実で起きたことだったなら、恐らく自分は正気を保てないだろう。
克哉のいない人生など考えられない。
やはりなんとしても克哉を見つけ出さなければいけない。
夢だったはずなのに、克哉の言った『さようなら』の言葉が忘れられなくて、御堂はきつく唇を噛み締めた。

それでも点滴の効果があったのか、御堂はいつの間にか眠っていたようだった。
克哉がいなくなってから、これほど深く眠ったのは初めてのような気がする。
知らぬうちに点滴が外されていたことが、それを証明していた。
そのせいか頭は多少なりともすっきりしていたけれど、心の中は相変わらず鉛を飲み込んだように重苦しかった。
御堂はゆっくりと起き上がりベッドを降りる。
病室の隅に洗面用のスペースがあった。
そこに掛けられている鏡の前に、御堂はふらつく足取りで立った。
(克哉……)
鏡に映った自分は我ながら呆れるほどに酷い顔をしていた。
髪は乱れ、頬は痩せ、目の周りはうっすらと黒ずんでいる。
自宅でも朝の身支度のときに鏡を見ているはずなのに、今までまったく気づいていなかった。
御堂はのろのろと顔を洗い、申し訳程度に髪を直す。
それでも皺になったシャツやスラックスはどうにもならなかったが、とりあえずベッドの傍に置いてあったジャケットを羽織り、荷物を確認した。
そして四柳に済まないとは思いながらも、そのまま病室を抜け出していった。

ちょうど面会時間が終わる頃だったらしく、帰ろうとする患者の家族らしき人達に紛れてなんとか気づかれずに病院を出ることが出来た。
何処に向かうかは考えていなかった。
そのまま大通りを歩きながら、御堂はただ克哉が姿を消した当日のことを考えていた。
あの日、克哉のタイムカードは二十一時十八分に退社の打刻がされていた。
その頃、自分はまだ別室で打ち合わせをしていたので帰る克哉の姿は見ていない。
そしてその後、克哉が御堂のマンションに戻った形跡は無かった。
彼は会社を出てから、いったい何処へ向かったのだろうか。
御堂は少し歩を緩め、自らの意識をあの日の克哉に沿わせようと試みてみる。
克哉がまっすぐマンションに帰る気になれなかったのは、新商品ビオレードのパッケージに関することが原因とみて間違いないだろう。
御堂が主張したガラスボトル案がプレゼンで反対されると、克哉もまたペットボトル案を再考する価値があると思うと申し出てきたのだ。
あの克哉の意見は非常に興味深かった。
ただ欲を言えば、もっと早くにそれが聞きたかったとも思う。
彼は他者の考えを否定するような意見を出すことをとても躊躇う傾向があった。
その相手が上司であり、恋人である御堂であれば尚更。
しかし御堂としては立場上は上司と部下の関係であっても、克哉には常に対等なパートナーでいてほしかった。
仕事においてもプライベートにおいても、彼ほど自分を理解し、的確な意見を述べられる者はいない。
だからこそ彼には誰に気兼ねすることもなく、本来の能力を存分に発揮してほしかった。
克哉が尻込みするであろうことを承知で『勝負』などという単語を持ち出したのも、そんな気持ちからだったのだ。
しかし案の定、克哉は勝負に消極的な態度を見せ、御堂は強引にそれを引き受けさせた。
克哉のことだから、あの後はずっと気が重かったに違いない。
勝手に己の能力を過小評価して、自己嫌悪に陥っていただろう。
期待に応えなければという気負いもあったかもしれない。
そんな心理状態のとき、彼はいったいどうするか―――。
「……」
克哉ならきっと何処か一人になれる場所を探すはずだ。
以前住んでいたアパートか、それとも別の場所か。

気づくと御堂の足は無意識に公園へと向かっていた。
アパートに戻った様子もなければ、MGNからマンションまでの帰路には彼が一人で入りそうな店もない。
それならばむしろ夜の公園にふらりと立ち寄った、というほうが克哉らしいと根拠もなく思った。
しかし、夜の公園には当然誰もいなかった。
今更、克哉の消息を掴めるようなものもあるはずがない。
御堂は近くのベンチに腰を下ろすと、溜息をつきながら夜空を見上げた。
青白い月が濃紺の空で煌々と輝いていた。

自分は無力だ。
今なら克哉の気持ちが少しだけ分かるような気がする。
どれだけ努力してもうまくいかず、なにひとつ成果が得られない。
こんなときはこの世界の全てを呪い、叫び出したくなる。
何もかも壊してしまいたくなる。
克哉はいつもこんな気持ちだったのだろうか。
御堂は今まで挫折らしい挫折を味わうことなく生きてきた。
いかに効率良く結果を出すかを考え、その思考に基づいて行動し、実績を積み上げていく。
それを徹底していれば、大抵は望む結果を得ることが出来た。
思い悩んだり、迷ったりする時間は無駄だと思っていたのだ。
『頑張ったのなら、それでいい』などという言葉は、単なる負け惜しみにしか聞こえなかった。
努力したのに結果が出なかったということは、努力の方法が間違っていたか、もしくは努力が足りなかったからだ。
そうならないよう普段から力を蓄積していくことを怠らなかったし、それが正しいと思っていた。
けれど今、御堂は初めて己の無力さを痛感していた。
どれだけ手を尽くしても、克哉の居所は杳として知れない。
まさに万策尽きた状態だ。
世界中をくまなくこの足で捜し歩けばいいのかもしれないが、しかしそれはあまりに非現実的すぎる。

―――非現実的。

そのとき御堂の脳裏に再び眼鏡のことが思い浮かんだ。
何故、今頃になってそのことがそんなにも気にかかるのか分からない。
そういったオカルト紛いの話はまるきり信じない性質だ。
だが、しかし。
「克哉……」
今となってはどんな力にも頼りたい気分だった。
神でも悪魔でもいい、克哉を返してくれるのなら何にでも跪ける。
どんなことでもする。
だから―――。
「……こんばんは」
「!」
その声が耳に入った瞬間、御堂の心臓は凍りついた。
この声。
間違いない。
あの映像の中で聞いた声。
克哉の部屋で聞いた声。
御堂は声がした方向にゆっくりと視線を向けた。
暗い公園に黒いシルエットが浮かび上がる。
黒い帽子、黒いコート、長い金髪。
眼鏡。
「きさ、ま……」
「初めまして……では、ありませんね。御堂孝典さん」
御堂は弾かれたようにベンチから立ち上がると、その男に飛びかかっていた。
しかし男はすっと身をかわし、御堂の身体は空を切ってバランスを崩す。
「おやおや。暴力はいけませんね」
「何を……」
もう一度殴りかかりたい衝動を堪えて、男を睨みつける。
この男こそが確かに克哉を貫いていた男だ。
間違いない。
怒りと憎悪で身体が、声が、ぶるぶると震えた。
「貴様……何者だ」
「私のことはMr.Rとでもお呼びください」
名前を聞きたいわけではないというのに、恭しく頭を下げる仕草といい、こちらを馬鹿にしているとしか思えない。
男が掛けている眼鏡の、銀色の細いフレームが月光を反射して光る。
「ふざけるな……。克哉を、どこへやった」
激情を抑えて、吐き捨てるように御堂が尋ねると男は意味ありげにふふと笑う。
今にも闇に溶けてしまいそうな存在の中で、金色の長い髪だけがやけに目立った。
とてもじゃないがAV男優の類には見えない。
神にでも悪魔にでも跪けるとは思ったが、現れたのはどうやら悪魔のほうだったようだ。
この男は危険だ。
直感でそう思う。
御堂の中で何かが激しく警鐘を鳴らしていた。
「佐伯克哉さんをお探しなのでしょう?」
「やはり貴様が克哉を連れ去ったのか……!!」
「連れ去ったとは人聞きの悪い。それではまるで私が誘拐魔のようではありませんか」
「どこが違う!」
「まったくの誤解ですよ」
こんな怪しげな男の口から克哉の名前を聞くだけでも嫌悪に鳥肌が立ったが、それでも今はこの男にすがるしかない。
黙り込む御堂にMr.Rはレンズの奥の瞳を細めたものの、そこに人間らしい温もりは僅かも見えなかった。
「私はただ佐伯さんの望みを叶えて差し上げただけです」
「克哉の……望み、だと……?」
はい、とMr.Rは頷く。
「佐伯さんはこの世界からご自分を消してしまいたいと思われていました。ですから、私の元へお連れしたのです」
男の言うことを俄かに信じる気にはなれない。
そもそも何故克哉がそんなことを思うのか、理由が思い当たらない。
いくら仕事のことで気弱になっていたとしてもそこまで考えるだろうか。
「犯罪者の言葉など信じる気はない。とにかく克哉を返せ! 今すぐにだ!」
「返す? 何故?」
「何故……?」
当然だと思っていたことを聞き返されて、咄嗟に返事に詰まる。
Mr.Rはそんな御堂を見てにやりと笑った。
「あなたもご覧になったでしょう? 佐伯さんは今、あの方に最も相応しい場所でとても幸せな毎日を過ごされているのです。 それなのに何故わざわざこちらにお返ししなければならないのです?」
「あんな目に合わされて幸せなはずがない! あんな、あんな目に……」
拘束され、犯されていた姿を思い出すだけで悔しさに気が狂いそうになる。
あんな克哉が幸せだとは絶対に思えなかった。
「……本当はあなたも分かっていらっしゃるのでしょう? あんなにも可愛らしく頬を染め、いやらしく身体を震わせていた佐伯さんが……」
「やめろ!」
思わず御堂は叫ぶ。
それ以上は聞きたくない。
あのときの克哉が確かに快楽を得ていたことを認めたくなかった。
「違う……克哉は私のものだ。貴様などに渡すわけにはいかない!」
「佐伯さん自身がそれを望んでいらっしゃらなくてもですか?」
「……!」
ふわりと、風が吹いた。
その風が仄かな甘い香りを孕んでいるように感じたのは気の所為だっただろうか。
「……あなたといらっしゃるときの佐伯さんは本当に幸せそうでしたか? いつも何かに飢え、満たされることもなく、常に不安に怯えていたのではありませんか?」
「それは……」
何故この男は克哉のことをそこまで知っているのだろうか。
本多の言った通り、「何かが変」だ。
この男は果たして人間なのだろうか?
そんな馬鹿げた疑問までが浮かんでくる。
「今、佐伯さんは何を不安に思うこともなく、素直に、そして貪欲に快楽を貪っていらっしゃる……。 だからこそ私はあなたにあの映像を見せて差し上げたのです。佐伯さんは幸せにしていらっしゃいますから、どうぞご心配なさらずにとお伝えしたかったのですが…… どうやら分かって頂けなかったようで」
白々しいセリフだ。
どう考えてもこの男にそんな意図があったとは思えない。
あれはむしろ自分にとって挑発でしかなかった。
奪い返せるものなら奪い返してみろと。
御堂はMr.Rを睨みつけた。
「……それでも、克哉は私に助けを求めた」
「そうでしょうか? それはあなたの思い込みでは?」
「違う! 私には分かる。克哉は私の助けを待っている。私は彼を信じている」
「信じている……ですか」
嘲るように繰り返して、男はクスクスと笑った。
「信じることと、思い込むことと、どれだけ違うのでしょうね? 分からないから、理解出来ないから、考えることを放棄し、自分の都合よく解釈してそれが正しいのだと思い込む……。 それがあなた方人間の仰る、『信じる』ということなのではありませんか? 『信じる』ことを至上のもののように仰いますが、私には所詮その程度のものとしか思えませんが」
「……っ」
そうなのかもしれない。
けれど、だからといって克哉を諦めることは出来ない。
ぐらぐらと足元が揺れる。
心を揺さぶられる。
(惑わされるな)
御堂は自分に強く言い聞かせた。
感情的になればなるほど、この男の詭弁に飲み込まれてしまう。
それでは負ける。
御堂は冷静さを取り戻すべく、大きく息を吸い込んだ。
「……分かった。貴様の要求を聞こう。いったい何が目的だ? 金か? それとも他の何かか? どうすれば克哉を返してもらえる?」
「ふっ……アハハハハハ……!!」
御堂の言葉に男は突然大声で笑い始める。
唖然としている御堂を余所に散々笑ったあと、ようやく落ち着きを取り戻して言った。
「お金ですって? 確かにお金の所為で堕ちていく人間の姿を見るのも嫌いではありませんが、私自身はお金になどなんの興味もありませんよ。 それにどれだけ大金を積まれても、その価値は佐伯さんの足元にも及びません。……そうでしょう?」
「……」
そんなことは分かっている。
だが、それではこの男の目的はいったいなんなのか。
御堂は男の様子を窺いつつ尋ねた。
「では、何の為にこうして私の前に現れた? 克哉自身が目的であるなら、それは既に達成しているのだから、わざわざリスクを犯してまで姿を見せる必要などないはずだ。お前は何がしたい?」
「……さすがは佐伯さんの愛した方ですね。察しがいい」
Mr.Rはわざとらしく肩を竦めてみせる。
それから、まるで独り言のように呟いた。
「仕上げが、必要なのですよ」
「……仕上げ?」
意味が分からずに聞き返すが、男はそれ以上語る気はなさそうだった。
こうなったら、とにかく克哉に会わせてもらうことを第一に考えるべきだろう。
この男は一筋縄ではいかない相手だ。
一歩でも譲るのは悔しかったが、この場は止むを得ない。
御堂は交渉の方向を変えることにした。
「……とにかく、私は克哉が大切だ。克哉の意志を何よりも尊重したい。貴様が言うように、克哉が望んでそこにいるというのならば諦めよう。 だが、私にはそれを克哉から直接聞く権利がある。そうでなければ到底納得出来ない」
「……諦めの悪い方は好きですよ」
男は帽子に手をやり、それを目深に被りなおす。
「ですが、このままでいればあなたはいつか佐伯さんがご自分の元に戻ってくる日が訪れるかもしれないと、僅かな希望にすがって生きていくことが出来る。 それなのに、その希望を自ら握り潰すことになりますが……本当にそれでも宜しいのですね?」
「そんなことは分からない。とにかく克哉と直接話をさせてもらうのが先だ。そもそも会わせるつもりがないなら、貴様はここに来る意味がない。そうだろう?」
やはり、これは挑発なのだ。
あのDVDも、こうして自分の前に姿を現したのも、全て。
御堂の指摘に核心を突かれたのか、黒衣の男は愉快そうに肩を揺らした。
「そうですね。分かりました。それでは、会わせて差し上げましょう」
男は自分が折れたように見せていたが、これこそが今宵の彼の目的だったのだろう。
御堂を克哉に会わせること。
それがさきほど呟いた「仕上げ」という言葉にどう繋がるのかは分からない。
それでも克哉に再び会うことを最優先に考えている御堂にとって、この流れに乗る以外の選択肢など存在しなかった。
Mr.Rが黒い皮手袋に包まれた手のひらを差し出してくる。
そこには血のように赤い果実がひとつ乗っていた。
「さぁ。どうぞ召し上がってください」
「これをか……?」
「はい」
果実から漂う甘酸っぱい香りが辺りを包む。
これは柘榴だ。
何故こんなものを食べなければいけないのだと思いながらも、不思議と抵抗することが出来ない。
誘われるままに御堂はその果実を受け取った。
熟して割れた亀裂には、濡れたように光るルビー色の粒がぎっしりと並んでいる。
御堂はそれを口元に運ぶと、柔らかな果肉に歯を立てた。
口の中に濃厚な甘みが広がった瞬間、夕方克哉の部屋で倒れたときのようにがくりと足から力が抜ける。
自分が後ろに倒れたのか、前に倒れたのかも分からない。
ただ真っ暗になった視界の中、自分の身体が急速に何処かへ向かって落ちていくように感じた。
遠くで、男の笑う声がする。
「あなたを絶望と狂喜の世界へお連れしましょう―――」

- To be continued. -
2017.07.06

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