ordinary days [前]
御堂は資料に目を通し終わると、デスクの前に立つ克哉にそれを手渡した。
「問題ない。このまま、進めてくれ」
「はい、分かりました」
受け取りながら、克哉は無意識にほっと息を吐く。
数え切れないほど繰り返されてきた作業にも関わらず、こうして御堂の裁断が下る瞬間はやはり緊張した。
「……今日は、これで終わりか?」
やり取りが終わっても、その場を動こうとしない克哉に、御堂は腕時計を見ながら尋ねる。
「は、はい。一応……」
克哉が言葉を濁したのは、御堂のデスクの上に積まれた書類の束が目に入ったからだ。
これらが全て今日中に処理しなければならない案件だとすると、御堂はまだしばらく帰れないということになる。
だから次に彼の口から発せられたセリフは、克哉の予想の範囲内のものだった。
「私は遅くなるから、先に帰っていてくれ。何時になるか分からないから、食事も待たなくていい」
まるで仕事の指示でも出しているかのように、御堂は事務的な口調で言う。
視線は既に次の書類に移されていて、克哉の方を見てもいなかった。
「あの……オレに、手伝えることがあれば……」
躊躇いがちに申し出るも、御堂の返事はあくまでも素っ気無い。
「いや。気持ちはありがたいが、君に手伝えることはない。私のことは気にしなくていいから、早く帰りたまえ」
「そう、ですか……分かりました」
それ以上食い下がることも出来なくて、克哉は小さく頭を下げると、御堂の執務室を後にした。
仕方が無いことなのだ。
師走という名に相応しく、十二月に入ってからは特に忙しい日が続いている。
書き入れ時の世間に呼応して仕事量は増えるし、そうなるとトラブルやミスも起こりやすくなるから、ますます仕事が増える。
仕事納めまでにやり残しがないようにという、気忙しさも大きかった。
それらは全て前もって分かっていたことであり、だからこそ仕方が無いことだとは思う。
思う、のだが。
「佐伯さん、お疲れ様でーす」
「あ……お疲れ様」
のろのろと帰り支度をしていた克哉に声を掛けてきたのは、同僚の藤田だった。
彼ももう帰るところらしく、既にコート姿の藤田は、不意に克哉に身を寄せて囁いた。
「……今日はこの後、デートですか?」
「えっ?! ままままさか!」
ぱっと御堂の顔が思い浮かんで、克哉は不本意ながら動揺してしまう。
その反応では幾ら否定しても、藤田が信じるはずもなかった。
「またまたー。隠さなくたっていいじゃないですか」
「ち、違うよ、本当に。あとは家に帰るだけだって」
「そうなんですか? 本当に?」
「うん」
むしろ、藤田君の言う通りだったら良かったんだけどね。
そんなことを思いながら、克哉は苦笑いを浮かべる。
藤田はようやく信じてくれたのか、大袈裟に溜息をつきながら肩を落とした。
「実は、俺もそうなんですよねえ。ひとりぼっちのクリスマスイブ……寂しいです」
そう、世間では今日はクリスマスイブなのだ。
街中はクリスマス一色で、さぞかし賑わっていることだろう。
オフィスの一角には、誰が置いたのか分からないが、申し訳程度に小さなクリスマスツリーが飾ってある。
それがかえって物悲しくて、二人は顔を見合わせて情けなさそうに笑った。
「こんな日は、さっさと帰って寝ちゃうに限りますね。それじゃあ、お疲れ様でした」
「そうだね。お疲れ様」
笑顔で軽く手を振って、オフィスを出る藤田の後ろ姿を見送る。
(オレも帰ろう……)
ようやく踏ん切りがついた克哉もまた、コートを取りにロッカーへと向かった。
何もしなくていいですよ―――。
一ヶ月ほど前だっただろうか、御堂からクリスマスについて聞かれたとき、克哉はそう答えた。
そのとき既に、御堂は二つのプロジェクトの統括をしていて多忙を極めていたし、それは年内一杯は続く見込みだった。
この分ではどうせ食事の予約をしても行けない可能性が高いし、ちょうど強請りたいようなプレゼントも無い。
そもそも、男二人でクリスマスもないだろう。
だから今年は何もせず、普段通りの一日を過ごそうと提案したのだ。
実際、去年もそうだった。
ただ御堂からはプレゼントらしきものを貰ってしまったし、それ以上に大きな出来事もあったけれど、特別なことをしたわけではない。
それでも初めて二人で過ごしたクリスマスは、忘れられない思い出のひとつになっている。
それだけで、もう充分だと思った。
忙しい時期に御堂をそんなことで煩わせたくなかったし、それは最悪、一緒に過ごせないことも覚悟しての提案だった。
(でも……本当にそうなるなんてな……)
あの日以来、二人の間でクリスマスの話題が出たことはない。
御堂は今日がクリスマスだということなどすっかり忘れているかのように、通常通り業務に励んでいたし、克哉も同様に忙しくしていた。
それで構わないはずだった。
それなのに、この気持ちはどうだろう。
乗り込んだ地下鉄の車内には、克哉と同じようにくたびれたサラリーマンやOL達の姿がある。
聖夜にひとりきりで過ごしているのは、自分だけではない。
周囲を見回しながら、そう自分に言い聞かせてみるけれど、あまり効果は無かった。
それに―――本当は、内緒でプレゼントも用意してあったのだ。
去年御堂がこっそり用意してくれていたお返しとばかりに、奮発して買ったマルゴーの95年物。
今夜はあれで乾杯しようと思っていたのに、まさかあの部屋に一人で帰って、一人で食事をすることになるなんて。
昔はクリスマスなどあまり興味も無かったはずなのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのか分からない。
自分で言い出しておいて、いざ本当にそうなったら寂しがるなど、虫のいい話だとは思う。
思うけれど、やっぱり寂しいと思ってしまう気持ちはどうすることも出来なくて、溜息が止まらなかった。
地下鉄を下り、駅を出て、足早にマンションへと向かう。
さすがにこの辺りの風景からはクリスマスの雰囲気を味わうこともなくて、克哉は少しだけほっとした。
時折吹く冷たい夜風に、思わず背中を丸める。
部屋のドアを開けながら、誰もいないと分かっているのに、「ただいま」と小さく呟いていた。
(え……?)
そのとき克哉は、部屋の中の異変に気がついた。
真っ暗なはずのリビングから、微かに灯りが漏れている。
今朝、出るときに電気を消し忘れたのだろうか。
それとも、まさか―――。
(泥棒……?!)
鼓動が一気に跳ね上がり、冷や汗がじわりと滲む。
克哉はそれが身を守ってくれると思ったのか、それとも武器にでもするつもりだったのか、無意識にカバンをきつく抱き締めていた。
ぐっと息を潜め、音を立てないように、注意深く部屋に足を踏み入れる。
灯りが見えるだけで物音はせず、人の気配もしない。
それでも克哉は壁にひたりと身体を寄せ、恐る恐るリビングを覗き込んだ。
「……え?」
部屋の中を見た瞬間、緊張が解けて、声が漏れる。
そこには、誰もいなかった。
あったのは、克哉の背丈ほどもある大きなクリスマスツリー。
窓際に置かれたそれに巻かれた電飾が、赤や青や黄色の小さな光をちかちかと瞬かせていた。
「なに、これ……いつの間に……?」
呆然と呟きながら、周囲を見回す。
テーブルの上には、ケータリングで頼んだのであろう、食事まで用意されていた。
いったい、いつの間に?
どうやって、こんな準備を?
幾つものクエスチョンマークが、次々と頭に浮かぶ。
けれど何よりも克哉が強く思ったのは、それとは全く別のことだった。
「御堂さん……」
気がついたときには、部屋を飛び出していた。
御堂に、会いたい。
少しでも早く。
とてもじゃないが、こんなところでじっとしてはいられなかった。
凍てついた冬空の下、克哉は白い息を吐きながら、再び駅に向かって走っていた。
- To be continued -
2008.12.18
→次話
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