Classical

Last Piece 01

身体が、重い。
自分を取り巻いている空気が、まるで粘液にでもなってしまったかのようだ。
一歩足を踏み出すのさえ辛くて、アスファルトを踏みしめる革靴の爪先を、ただぼんやりと見つめながら歩く。
どうして、なかなか家に辿り着かないのだろう。
いつもならば、もう着いてもいい頃のはずなのに。
自分が何処を歩いているのか確かめる為、顔を上げて辺りを見回す。
見慣れた景色のはずなのに、少しも見覚えがないような気がした。
灯りがともっている建物がほとんどないところを見ると、もう深夜に近いのだろう。
早く帰りたい。
早く帰って、あの人の顔が見たい。
そして、抱き締められたい。
キスもしてほしい。
けれど次第に心の中まで身体と同じように重く、暗くなっていく。
鉛を飲み込んでしまったかのように、何かが喉の奥につかえている。
溜め息をつくことさえ出来ないのは、その所為だ。
早く。早く帰らないと。
気持ちばかりが焦って、額にじわりと汗が滲んだ。
「……こんばんは」
甘く、柔らかな男の声が背中に掛かる。
足を止め、振り返った。
「……こんばんは」
何故か、驚かなかった。
ただ嫌な予感がしただけだ。
男は人懐こそうな微笑みを浮かべながら、足音も立てずこちらに近づいてくる。
「お久し振りです。ご機嫌如何ですか? 佐伯克哉さん」
返事をせずにいると、眼鏡の奥の瞳が僅かに見開かれた。
「おや。あまりお元気そうではないご様子ですね。何かあったのですか?」
「いえ、別に何も……」
そうだ。別に何もない。
それどころか、全てがうまくいっている。
仕事にも、プライベートにも、なにひとつ不満はない。
充分過ぎるほど、満たされていた。
だから、もうこの男には用がないはずだった。
「……でしたら、何故そんなに暗い顔をなさっているのでしょう?」
まただ。
この男には、いつも心の中を読まれてしまう。
何も答えていないのにも関わらず、Mr.Rは酷く納得したかのように、微笑みながら頷いた。
「なるほど、あなたはまた恐れていらっしゃるのですね」
「恐れる……?」
見に覚えのないことを言われて、思わず聞き返す。
不意に生暖かい風が吹いて、Mr.Rは今にも闇に溶けてしまいそうなほど優雅な仕草で帽子を押さえた。
「ええ。全てにおいて満たされていると感じている、今……。今度はそれを、失うことを恐れはじめていらっしゃる。 愛する人に裏切られ、恋も仕事も、再び何もかも失くしてしまうのではないかと……」
「そんな……そんなこと、ありません……!」
その言葉に、怒りが湧いた。
あの人が裏切るなんて、そんなこと有り得ない。
有り得るはずがないじゃないか。
必死で叫んだつもりだったが、それが本当に叫びになっていたのかは分からない。
Mr.Rは喉の奥で笑った。
「そうでしょうか? どんなに信じていても、裏切られることがあると、あなたはよくご存知のはずですが?」
「オレ、が……?」
ぐらりと足元が揺れる。
今のは、どういう意味だ?
この男は、何を言おうとしている?
「人は平気で嘘をつく生き物……。心はいつも揺れ動いていて、ひとつところに留まるものではありません。 永遠に変わらぬものなど、人間はなにひとつ持ってはいないのですよ」
Mr.Rが羽根のような足取りで、更に一歩近づいてくる。
圧倒されるのに、退くことが出来ない。
この男は、何者なんだろう。
耳元で、魅惑的な声が囁く。
「……ですが、失わずに済む方法がひとつだけあります」
「えっ……?」
顔を上げると、視線がぶつかった。
眼鏡の奥で細められた瞳は、微笑みの形を作っていながら、どこまでも冷たい。
その冷たさに、鳥肌が立った。
「あなたは、何を言って……」
「簡単なことですよ。あなたが全てを支配なさればいい」
「支配……」
ええ、とMr.Rは満足げに頷く。
「仕事も、恋人も、あなたが支配し、コントロールするのです。 裏切りたくても、裏切れなくしてしまえばいい。そうすれば、あなたは何も失わずに済む。違いますか?」
「そんな……そんなの、ちっとも簡単なことじゃないじゃないですか……」
そんなこと、出来るはずがない。
違う。
そんなこと、したくない。
追い詰めて、支配して、それで手に入れたものにどれほどの価値があるというのだろう。
そんなやり方で繋ぎとめられたとして、喜びを感じることなどあるはずもない。
しかしMr.Rは愉快そうに笑いながら、黒いコートのポケットから何かを取り出した。
「……簡単なことですよ」
「―――!!」
差し出された掌に乗っていたのは、眼鏡だった。
見覚えのあるそれを目にした途端、身体が震えだす。
「佐伯さん。今のあなたなら、以前よりももっと上手く、これを使いこなすことが出来るはずです。 あの時よりも、もっとスマートに、もっと狡猾に……」
「い……嫌、だ……」
背中を、冷たい汗が流れる。
いらない。
こんなもの必要ない。
心臓が割れんばかりに鳴っている。
耳鳴りがして、頭が割れそうに痛む。
身体を引くと、Mr.Rは小首を傾げた。
「何故、逃げるのです? 私はあなたに呼ばれたからこそ、こうしてやってきたのですよ」
「オレが……呼んだ……?」
「そうです。あなたの中に芽生えた、新たな欲……。 手に入れたものを、絶対に失いたくないという、強い望み……。 それが、私を呼んだのです」
皮手袋に包まれた手が、鼻先に差し出される。
そこに乗せられた眼鏡は、街灯を反射して冷たく光っていた。
「さあ、佐伯さん。どうぞ遠慮なく、手にお取りください。これはもともと、あなたの物なのですから」
「嫌、だ……いらない……」
「……佐伯さん」
「いらない……こんなもの、いらない……ッ……いらないッ!!!」
目を閉じ、耳を塞いで、力の限り叫んだ。
その声は夜の住宅街に反響して、やがて細く消えていった。



「―――ッ!!」
目を開けると、克哉は大きく息を吐いた。
まるで深い海の底から、一気に海面まで上がってきたかのようだ。
視界には、眠る前に見たのと同じ、寝室の暗い天井。
恐る恐る目を向けた隣りには、穏やかな御堂の寝顔があった。
「……っ」
泣き出しそうになって、慌てて口を押さえる。
心臓はまだ早鐘を打っていた。
呼吸が苦しくて、苦しくて、嗚咽が漏れそうになって、どうにもならなくなる。
「…みど……さ、ん……」
―――助けて。
縋る想いで、掌の隙間から震える声で呼びかける。
それでも目を覚まさない御堂に、堪えきれずしがみついた。
「うっ……」
「……克哉…?」
胸に圧し掛かる重みに、ようやく御堂が目を覚ます。
掠れた声で呼ばれ、克哉はますます強くその頬を押し当てた。
「克哉? どうしたんだ?」
様子がおかしいことに気づいて、御堂は克哉の肩を押し退けようとする。
顔を見たかっただけなのだが、克哉はしっかりと御堂に抱きついたまま離れようとしない。
しかもその身体は微かに震えていた。
とにかく落ち着かせようと、御堂は克哉の髪や背中を懸命に擦ってやる。
「いったい、どうしたというんだ。言わなければ分からないぞ。怖い夢でも見たのか?」
「……夢……。夢、だと…思います……」
そうだ。あれはただの夢だ。
自分に言い聞かせるように呟いた克哉の言葉に、御堂はほっと胸を撫で下ろした。
「まったく君は……子供のようだな」
呆れたように言いながらも、その声音は優しい。
大丈夫だ。御堂はここにいる。
決して、裏切ったりしない。
克哉はようやく腕を緩めると、おずおずと顔を上げた。
「すみません、オレ……」
「謝る必要はない」
そう言って、今度は御堂の方から抱き締める。
力強い腕の温もりに、克哉は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「しかし君がそんなに怯えるとは……いったい、どんな夢を見たんだ?」
「それは……その……」
今更また眼鏡の話など、出来るはずがない。
克哉が口篭っていると、御堂はにやりと笑う。
「……さては、プレゼンで失敗する夢でも見たんだろう?」
「えっ」
からかうように言われて、克哉はきょとんとする。
しかしすぐに、それが克哉の気を紛らわすための冗談だと悟った。
「違いますよ」
思わず、笑いながら言い返す。
笑ったら少しだけ気が楽になった。
あれほど速かった鼓動も、いつの間にか治まっている。
「御堂さん……」
突然せつなさに襲われて、克哉は御堂にくちづけた。
軽く触れてから離れ、もう一度重ねると、御堂が克哉の背中を強く抱き寄せる。
「んっ……ふ……」
寂しくて、そして怖かった。
今になって、何故あんな夢を見てしまったのか。
Mr.Rのことも、眼鏡のことも、もう終わったことだと思っていたのに。
―――どんなに信じていても、裏切られることがあると……。
脳裏に、Mr.Rの言葉が甦る。
唇が離れると、克哉は御堂を見つめた。
「御堂さん……ひとつだけ、聞いてもいいですか……?」
「なんだ?」
克哉は躊躇いがちに尋ねる。
「その……あなたは、心変わりしたりとか……」
「心変わり?」
遮るように繰り返された御堂の声には、不審の色が感じられた。
誤解されてはいけないと、克哉は慌てて続ける。
「あっ、あの、だから、御堂さんは、オレのこと……嫌いになったり……しません、よね……?」
「……」
御堂は一瞬ぽかんとしてから、おかしそうに笑い出した。
「御堂、さん……?」
「なるほどな。そういうことか」
笑いながら克哉の頭を抱きかかえ、自分の胸に押し付ける。
「要するに、私に捨てられる夢でも見たんだな?」
「あっ……えっと、その……」
少し違っていたが、否定するほどでもないと思った克哉は、それきり黙り込む。
御堂は克哉の髪にくちづけると、顎を掴んで上を向かせた。
「馬鹿なことを考えるんじゃない。たとえ夢でも、私が君を手離すことなどあるはずがないだろう。 それとも私は君にとって、そんなに信用ならない男なのか?」
「ちっ、違います! そうじゃ、ないんですけど……」
「だったら、そんな風に怯えたりするな。何度も言っているが、君は私のものだ。 それはすなわち……私も君のものだということになる」
「御堂さん……」
少し照れ臭そうに言われた最後の言葉が嬉しくて、克哉はまた泣きそうになるのをなんとか堪えた。
そうだ。御堂が裏切るなんてこと、あるはずがない。
あれは悪い夢だ。
きっと疲れていたんだろう。
克哉はそう考えて、ようやく安心することが出来た。
「……さぁ、もう早く寝たほうがいい。明日に障るぞ」
「はい」
シーツに包まり、ぴったりと御堂に身体を寄せる。
克哉は微笑みを浮かべながら、今度こそ穏やかな眠りについた。

- To be continued -
2007.11.08

→次話



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