THE FINAL JUDGEMENT【01】 -戻れない場所-
絶叫が、聞こえた。
その叫びを聞いた瞬間、腸を抉り出されるような痛みと絶望が克哉を襲った。
同時に、目の前に置かれていた大きな鏡にピシリと亀裂が入り、銀色の細かい破片が真紅の部屋に舞い散る。
「……おやおや。激しい方ですね」
耳元で、悪魔がクスクスと笑う。
彼はよほど愉快だったのか、克哉に埋め込んだままだった牡が再び硬さを増した。
「ん、んっ……!」
声が漏れてしまうのは、もはや条件反射に過ぎない。
執拗に、そして巧みに仕込まれた身体は、快楽にのみ素直に反応する。
それどころか痛みも、屈辱も、与えられる全ての感覚を悦びに変えて、貪欲に飲み込もうとしていた。
「……ねぇ、佐伯さん」
Mr.Rの生温かい吐息が、囁き声と共に首筋にかかる。
「どうです、今のお気持ちは。他人の手に寄ってこんなにも淫らによがる姿を、誰よりも愛していた方に見られてしまった、ご感想は?」
「……」
克哉は答えない。
もとよりボールギャグを咥えた口では何も話せるはずがないことを知っていながら尋ねるのだから、Mr.Rも答えなど期待していないのだろう。
楽しげに腰を揺すりながら、うっとりと克哉に語り続ける。
「あなたはもう、ここから抜け出せない。この場所こそが、あなたに相応しいのです。
弱く、醜く、何の力も持たないくせに、底知れぬ強い欲望だけは誰よりも抱いている、あなたのような方には……。
そんなあなただからこそ、誰よりも快楽に溺れることが出来る。これは、ある種の才能なのですよ」
「う…うぅ……」
Mr.Rはクククッと心底愉快そうに喉の奥から笑いを漏らした。
彼は絶え間なく克哉を突き上げ、柔らかな耳朶を飴玉でもしゃぶるように舐める。
耳元に響く水音に腰の辺りがぞくぞくと疼いて、克哉の指先は両足を覆っているレザーに強く食い込んだ。
ここから、抜け出せない―――。
そんなこと言われなくてもとうに覚悟していた。
あの日、御堂に相応しくない自分を消してしまおうと決めたときから分かっていたことだ。
御堂の傍で生きられないのなら、何処にいようと同じだ。
ただあのとき、自ら死を選ばずにもう一人の自分に可能性を託したのは、御堂への未練だったのかもしれない。
しかしその未練も絶たれた今となっては、全てがどうでもいいことだった。
ここに連れて来られてから、いったいどれほどの時間が過ぎたのだろう。
Mr.RがクラブRと呼ぶこの場所では、セックス以外のあらゆる人としての営みが存在しない。
空腹を感じず、喉の渇きも覚えず、排泄欲求もなければ疲労や眠気さえ、それを本当に自分が感じているのか定かではなかった。
確かに感じるのはただ性的な欲望のみ。
時間の流れすら曖昧な中でひたすらにその欲望だけが刺激され、膨らみ続けるのだ。
そんな克哉にMr.Rは様々なプレイを仕掛けてきた。
縄で縛られ、胸にピアスを施され、口も後孔も道具で塞がれ、射精させてもらえぬままにいつまでも貫かれる。
あるときは目隠しをされ、両手首を縛られた状態で、大勢の男達を受け入れたこともあった。
彼らが何処からやってきた、何者なのかは分からない。
しかしMr.Rに客と呼ばれた彼らの前で克哉は自慰をし、自ら後ろを拡げ、羞恥も感じぬままに淫らな声を上げ続けたのだ。
侮蔑の言葉や嘲笑にさえ激しく情欲を煽られるようになってしまった克哉は、すでに抵抗することも考えることも止めて、ただMr.Rの玩具と成り果てていた。
そして、数え切れないほどの絶頂に達した。
Mr.Rから与えられる全ての事象に、興奮を得られないものはただのひとつも無かった。
『これが、あなたの望みだったのでしょう?』
幾度となく言われ、それに「違う」と答えていられたのも最初だけだった。
自分が支配されたかったのは、お前ではない。
誰よりも大切で、誰よりも愛しい、あの人にだ。
けれど同じ問い掛けを繰り返されていくうち、次第にその確信は揺らいでいった。
本当は、あの人でなくても良かったのではないのか?
自分を圧倒的に支配してくれる相手なら、誰でも良かったのではないのか?
自己嫌悪に満ちた自分を蔑み、罵ってくれて、将来への不安からも、嫌われる心配からも、何もかもから逃げて、ただ溺れることだけを許してくれる相手ならば、誰でも―――。
ただ、滅茶苦茶に愛し愛されたかった。
何も望まず、何も望まれず。
嫌われたくないとか、必要とされたいとか、そんなことすら考えたくなかった。
欲望の赴くまま、壊れるほどに、狂うほどに、ただ御堂を愛して、御堂に愛されて、溺れていたいだけだった。
少しは強くなれたはずだと思っていた。
しかし実際のところは何も変わってはいなかったどころか、むしろ悪くなっていたのかもしれない。
本当の自分を知り、その弱さと醜さを認めることで、きっと前に進めると思った。
そんな自分を愛してくれる御堂の傍にいれば、きっと変われるはずと信じていた。
けれど御堂に愛されれば愛されるほど、御堂を愛すれば愛するほど、大きくなっていく欲に自分の力が追いつかないことが酷く悔しかった。
もっと、力が欲しい。
もっと御堂に相応しい人間になって、もっと御堂に必要とされたい。
今の自分ではまだまだ足りない。
この程度では御堂の隣りに立つ資格など無い。
御堂に愛される価値などない。
やがて自己嫌悪は再び酷くなっていった。
御堂の優しさも信頼も期待も分不相応なものとしか思えなくなった。
そうして思い出すのはいつも、出会った頃の御堂の姿だった。
陵辱の限りを尽くして自分を叩きのめした御堂。
彼の言うなりになる以外に選択肢などなかった、あの頃。
常に自分の上に君臨し、八方塞りにされて、抵抗すら許されなかったことを思い出すと、身体の奥が熱くなった。
あれこそが自分に対する正当な扱いだ。
あの頃のように支配してほしい。
そうすれば自分は完全に御堂の囚われ人になれる。
思う存分、御堂に溺れることが出来る。
御堂を愛すること以外、何もしなくてよくなる。
もう―――苦しむことに疲れていたのだ。
「……おや。泣いていらっしゃるのですか?」
心配するような言葉とは裏腹にMr.Rは楽しげに尋ねてくる。
しかしそう言われても克哉には、自分が泣いているのかどうか分からなかった。
視界はいつも霞んでいたし、顔も身体も濡れて汚れている箇所ばかりだったからだ。
「何故、泣くのです? あなたは解放されたのですよ? 全てのしがらみを忘れ、私の可愛いお人形として生きていくのです。
あなたはあなたの望むまま、ただ快楽にのみ身を浸していればいい……。
あの方もこんなあなたの姿を見て、ようやくあなたから解放されたことでしょう」
「……」
顎に指がかかり、真正面を向かされる。
そこにはボンデージに身を包み、背後から後孔を貫かれながら涙を流している、無様な男の姿があった。
「ほら……よく、御覧なさい。あれが、あなたです。あの方に見せた、あなたの姿です。どうです? とてもいやらしくて、とても素敵でしょう?」
「う……」
そうだ。
ひび割れた鏡の中にいる、あれがまさしく自分の姿。
あの鏡の向こうに、さっきまで確かに御堂がいた。
自分とMr.R以外は何も映ってはいなかったけれど、その視線を、気配を、確かに感じた。
(孝典…さん……)
御堂に見られてしまった。
浅ましい欲にまみれ、醜く堕ちた、自分の本当の姿を。
御堂の絶叫が、まだ耳の奥に残っている。
あの叫びに込められていたのは怒りか、憎しみか、それとも嫌悪か。
どれでもいい。
どうせもう御堂に会うことは二度とないのだから。
これで彼は完全に自分を見捨てただろう。
いや、とうに見捨てられていたのかもしれない。
大切な仕事を放り出し、突然姿を消した無責任な自分のことなど見捨てて当然だ。
それでももし愛し合った日々の記憶に僅かでも御堂が縛られていたとしたら、きっとそれも綺麗さっぱり断ち切られたことだろう。
だから、これで良かったのだ。
御堂に相応しくない自分を消すという目的はきちんと果たせたのだから。
「そう……これは、あなたの望んだことなのですよ」
もう何度目か分からない囁きをMr.Rが繰り返す。
自分の望み。
あの人を誰よりも幸せにしたかった。
自分が消えれば、あの人はもっと相応しい人を見つけられる。
同性の恋人を持つことによるリスクを背負う必要もなくなる。
家庭を持って、周囲に祝福してもらえる。
そうすれば自分は何の不安も抱かずに、あの人を愛し続けることが出来るのだ。
ここにいれば妙な期待をしたり、未練がましく後を追いかけたりしてあの人に迷惑をかけることもない。
ただひたすらにあの人を想い続けて、幸せを祈ればいい。
想うだけなら自由だ。
だってどんなに強く想ったとしても、どうせその想いは届かないのだから。
こんなにも深くて暗い場所からどれだけ想ったとしても、きっとそれは届かない。
「ふふっ……健気なことですね……」
胸中を見抜かれ、からかわれても、克哉の心は少しも揺らがなかった。
本当は分かっている。
もうこの心はとっくに壊れていた。
御堂を想う気持ちも、繰り返し与えられる快楽に流されていつかは溶けて消えてしまうのだろう。
何もかもに疲れ果て、放棄するしかなくなる。
もう自分は死んだも同然なのだ。
現実の世界でも恐らくそう思われているに違いない。
御堂もいつか自分を忘れる。
そして御堂に相応しい人生を歩んでいく。
それでいい。
それこそが、自分の望み。
「……ん、んーっ!」
突然、胸のピアスにつけられている鎖をきつく引かれて、克哉はびくりと背を仰け反らせた。
そのままMr.Rは手綱を引くかのごとく、激しく腰を揺さぶり出す。
「さあ、佐伯さん。これからもあなたの望みどおり、たっぷりと可愛がって差し上げますよ。嬉しいでしょう?」
「う、っ…うぅ……」
Mr.Rは繋がった部分を見せつけるように腰を前に突き出す。
鏡に映る自分の姿がぼやけた視界の中で歪んで見えた。
もう、戻れない。
何処にも行けない。
いっそ殺してくれと願う気力さえ尽き果てた。
(孝典さん……)
ごめんなさい、と心の中で呟く。
自分はいったい何処で道を誤ってしまったのだろう。
あの微笑みも、あの温もりも、声も、くちづけも、熱い肌も、まだ忘れてはいない。
忘れられない。
けれどそれらは全て、いつか他の誰かの物になる。
もう御堂は自分のものではない。
自分も御堂のものではなくなってしまった。
もっと傍にいたかったのに。
一緒に幸せになりたかったのに。
御堂がいれば、きっと大丈夫だと信じていた。
努力し続けるつもりだった。
それなのに、どうして―――。
「ん……んぅ……うーっ!」
再び、絶頂が訪れる。
射精を堰き止められているにも関わらず、それは克哉の全身を素早く走り抜けた。
びくんびくんと大きく腰が跳ね、焼けつくような熱が内壁を焦がす。
がくりと後ろに倒れた頭が、Mr.Rの肩に乗った。
「ふふ……気持ち良かったですか? さて、次は何をして遊びましょうね……」
「ふ…ぅ……」
蛇のように長く、赤い舌が、頬を濡らす涙を掬い取る。
好きにすればいい。
何をされようとも、この身体は悦ぶのだから。
けれどたったひとつ心残りがあるとするならば、御堂に対する最後の記憶があの悲しい叫び声となってしまったこと。
壊れかけた心の中で、それだけが鈍い痛みとなってぽつんと残されていた。
- To be continued. -
2017.07.01
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