BIRTH 05
普通なら「悪い冗談はやめろ」と言うべきところだったのだろう。
けれど俺はトウタの話を聞いてすぐにそれを信じた。
いや、本当はどうしても信じたかっただけなのかもしれない。
何故ならそれは俺にとって決して消えることのない後悔と、絶対に叶うはずのないたったひとつの願いだったから。
夢でもいい、もう一度あいつに会いたいという―――。
「ルックさんは生きています」
その言葉を聞いた瞬間、確かに俺の心臓は僅かな間止まったのだと思う。
息が出来なくなった。
頭の中が真っ白になった。
手足の感覚が無くなって、自分がその場にいるのだということさえも意識の中から飛んでしまっていた。
ルックの名前を他人の口から聞くことさえ苦しかったというのに、それが「生きている」だなどと。
「嘘……だろ……」
そんな風に呟いておきながら、俺の心は既に全てを決意していた。
ルックが生きているのなら、何も迷うことはなかった。
今度こそ俺はあいつを手に入れる。
あいつがどれだけ俺を拒絶しようとも、どんな生き方をしようとしていてもそんなのは関係ない。
あいつの過去も、犯した罪も、何をして、何をしなかったのかも。
それらの全てはあいつの命と引き換えに出来るようなものじゃなかった。
もう一度あいつの手を取ることが出来るなら、俺は今度こそ後悔したくなかったのだ。
どんなことがあっても、二度とあいつを手離さない。
この先の人生をルックと共に生きる。
それが俺の決意だった。
決まってしまえば後は簡単だった。
いずれにせよトウタの言う通り、レックナート様の力を借りることになるのは確実に思えた。
だからテスラを呼んで魔術師の島と連絡が取れるよう親父に頼んでもらうこと、それから入っていた午後の予定を全て後日に振り替えるよう伝えた。
もちろんルックのことはまだ言えない。
それからドリスに急いで馬車を調達させ、俺は慌ただしくトウタと共にそれに乗り込んだ。
馬車に揺られている間は、気持ちばかりが急いて仕方が無かった。
こうしている間にもあいつは目を覚まして何処かへ姿を消してしまうのではないか。
自分が生きていることに気づいて、自ら命を絶とうとするのではないか。
それよりも、もし様子が急変して―――。
「……ッ」
想像してしまった最悪の事態を頭の中から追い出したくて、俺はぶるりと顔を横に振った。
大丈夫。
大丈夫だ。
きっと間に合う。
そういくら自分に言い聞かせても苛立ちと震える膝は止めようもなく、不安のあまり叫び出したくなる衝動を爪を噛んで必死に堪える。
とにかく少しでも早くルックの元に辿り着きたくて、けれど何もすることが出来なくて、俺はただ過ぎていく外の景色を睨むように見つめていた。
トウタの案内してくれた森に着いた頃には、もう日が沈み始めていた。
そこからは馬車を下りて森の奥を目指す。
ほとんど小走りになりながら木々の合間を抜けていくと、やがて小さな小屋が見えてきた。
「あそこです」
あの中に、ルックが。
俺とトウタは扉の前で立ち止まった。
トウタが扉をノックしながら、中に声を掛ける。
俺の心臓は割れんばかりに高鳴っていた。
「……はい」
扉が開いた瞬間、俺は転がるようにして部屋の中に駆け込んでいた。
礼儀知らずと非難されても当然の振る舞いだ。
けれど、もうどうにもならなかった。
自分で自分の行動をコントロール出来なくなっていた。
薄暗いけれど暖かな部屋の奥にベッドがひとつ置いてある。
その布団がほんの少し膨らんでいた。
足が震える。
息が苦しい。
もし、これでまったくの別人だったら?
いや、きっとそんなことはない。
俺は恐る恐るそのベッドに近づいていった。
やがて白い、清潔なシーツの上に、今にも消えてしまいそうなほど青白く力無い男の顔があるのが見えてくる。
枕に広がるオリーブグリーンの髪。
閉じた瞼を縁取る細い睫毛。
薄い唇。
緩やかな頬。
間違いない。
俺が間違えるはずがなかった。
急に膝から力が抜けて、俺は無意識にその場に跪いていた。
さっきよりも顔と顔が近くなる。
閉じたままの唇から、微かに吐息が漏れているのが分かった。
生きている証。
触れても大丈夫だろうか。
触れた途端、砂が崩れるように消えてしまわないだろうか。
怖くて、怖くて、けれど我慢出来ずに俺はその顔にそっと手を伸ばした。
触れた頬は冷たく、けれど柔らかい。
ああ、俺は触れているんだ。
もう二度と触れられないと思っていたのに。
でも、俺は触れている。
これは夢じゃない。
これは現実なんだ。
「……ルック」
掠れるように、唇から漏れた名前。
もうずっと長い間、呼ぶことの無かった名前。
それが自然と零れていた。
ルックがいた。
ルックが生きていた。
信じられないようなことだったけれど、それは紛れも無い現実だった。
涙が込み上げてきて、視界がじわりと滲む。
駄目だ。
泣くな。
呼吸を整えようと少し深く息を吸ったとき、俺はようやく部屋の中の様子に気がついた。
しまった、挨拶もしていなかった。
俺は拳で目尻を拭いながら、立ち上がって後ろを振り返った。
そこにはトウタ以外に俺と同じぐらいの年齢と見られる男が一人と、女が二人いた。
トウタがまず男を紹介してくれる。
「こちらが彼を最初に見つけてくださった、キニスンさんです」
「キニスン……」
どこか聞き覚えのある名前だ。
キニスンと呼ばれた青年は前に進み出てきてくれて、俺達は挨拶を交わす。
俺は彼の手を握り締め、深く頭を下げた。
彼が見つけてくれなかったら、俺はもう一度ルックに出会うことは出来なかっただろう。
「シーナです。彼を助けてくれて、ありがとう」
「い、いえ……」
それで、と何かを続けようとしたキニスンの言葉を俺は遮った。
「彼は俺が引き取ります」
すかさずそう言うと、部屋は微妙な空気に包まれた。
そのせいで俺はここにいる全員が、このベッドで眠っている男の正体について全て知っているのだと悟った。
だからこそ、それはある意味予想通りの反応だった。
当然だ。
何故なら、俺はトラン共和国大統領の息子なのだから。
ルックが何をしたのかは知っている。
現在の俺自身の置かれている立場もよく分かっている。
それでも俺はこの件について一歩も引く気はなかった。
いざとなれば俺は何もかも捨てても構わないとさえ思っている。
どんなことがあろうとも、何を言われようとも、これだけは譲るつもりはない。
ルックは俺が引き取る。
しかし案の定、皆は賛成しかねるようだった。
他に方法はないのか、せめて親父の許可を得てからにしたほうがいいのではないかと、ごもっともとしか言いようのない忠告を俺にくれた。
皆が俺やルックのことを本当に考えて言ってくれているのは百も承知している。
それでも俺は頑として譲らなかった。
皆は俺とルックがどんな関係にあったのか知らないから、俺がどうしてそこまで言うのか分からなかっただろう。
けれど結局俺は自分の意志を押し通し、トウタにも協力してもらうということで話を早々に終わらせてしまった。
とにかく俺は一刻も早くルックを連れて帰りたかったのだ。
俺がまた改めて御礼に来ると告げると、キニスンはそんなことよりもルックの容態を知らせてほしいと言った。
本当にいい奴だ。
その他、トウタを連れてきてくれたというエイダ、トウタの助手だというミオにも礼を言った。
「……?」
そのとき俺は部屋の隅に白い大きな犬がいることに気づいた。
あまりにおとなしくて気づかなかったのだが、随分と立派だ。
犬……ではなくて、狼犬かもしれない。
こいつも今回の件に協力してくれたのだろうか。
俺がその犬の前に跪くと、キニスンが言った。
「ライといいます。シロの子どもなんです」
「……ああ! シロ! 思い出した!」
そうだ。
俺はそこでようやくはっきりと思い出した。
キニスンとシロといえば、十五年前に同盟軍で共に戦った仲間じゃないか。
エイダもそうだ。
ルックのことで頭がいっぱいで思い出せなかった。
「それじゃあ、行こうか」
俺は再びベッドの傍に立つ。
布団を捲ると、服を着てても分かるほど華奢な身体が現れた。
その身体の下に腕を差し入れ、抱き上げる。
拍子抜けするほどに軽い身体。
でも、確かに暖かい。
弱々しいけれど呼吸していることもしっかりと伝わってくる。
俺はその身体をきつく抱き締めて、くちづけしてしまいたいのを必死で堪えていた。
愛しい、愛しい存在。
何度も抱いた。
忘れるはずがない。
もう二度と失くしたくない、俺の宝物。
俺はルックを抱いてトウタ、ミオと共に馬車に乗り込み、急いで来た道を引き返していった。
2013.02.14
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