BIRTH 01


漆黒の夜空に浮かぶ月は、近づくほどにその眩さを増す。
光を目指していたはずが僕達はいつの間にかその光に包まれ、光の中に溶けようとしていた。
―――お別れだ。
この酷く憎くて、酷く愛しい世界とも。
月の舟に乗ればもう二度とは戻れない。
憎しみからも悲しみからも解放され、その代わりに愛し愛されることもなくなる。
それで、いい。
僕は精一杯足掻いた。
戦った。
抗った。
だから、もう休みたかった。
―――ルック様。
僕の後ろからついてきていたはずのもう一つの光が、ふわりと目の前に踊り出る。
僕のために全てを捧げてくれた少女。
―――ルック様、ありがとうございました。
彼女が僕に語りかける。
礼を言うのは僕のほうだよ。
君のおかげで僕は戦い抜くことが出来た。
そうして僕はようやく僕自身になれたのだから。
―――ルック様のお傍で生きられて、セラは幸せでした。
僕は君に何も出来なかったよ。
君の力を利用しただけ。
―――ルック様はセラに生きる意味を与えてくれました。
君がそう思ってくれたのなら……嬉しいけど。
―――セラはルック様のおかげで、セラの人生を生きることが出来ました。
―――だから、心残りはもう何ひとつありません。
セラの魂はどんどん光に溶けて見えなくなっていく。
きっと彼女から見た僕もそうなのだろう。
―――ですからルック様も、今度はルック様の人生を生きてください。
僕の人生。
紋章の器でしかなかった僕。
それでも僕は僕の意志で生きたつもりだ。
―――もう真なる風の紋章はルック様の中にありません。
突然、セラの魂が再び輝きを取り戻す。
周囲を取り囲む月の光よりも強く、鮮やかに。
セラ?
君はいったい何をしようとしている?
―――ルック様はもう紋章の器ではありません。
何か暖かいものが僕の中に流れ込んでくる。
―――ルック様。
その暖かいものは、セラの切なる願い。
最後の祈り。
魂の全て。
―――どうか、生きて。





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その日もキニスンはいつも通り森を散策していた。
重なり合った葉の隙間を縫うように落ちてくる木漏れ日も、時折吹く穏やかな風に漂う草木の香りも、普段と少しも変わらない日だった。
いや、気がつけばいつの間にか厳しい冬も過ぎて、だいぶ春めいてきている。
きらきらと零れてくる陽射しを見上げながら、キニスンは満ち足りた気持ちで目を細めた。
日課にしている森の見回りと狩りは、もっぱら狩りのほうだけがメインとなっている。
見回りをするほどの物騒な出来事など、もう長いこと起きてはいない。
デュナンの統一戦争が同盟軍の勝利で終わってから十五年、この地方の治安は今もしっかりと守られていた。
「……ライ」
キニスンはぴたりと足を止めると、傍らに寄り添う相棒に小さく声を掛ける。
その途端、ライと呼ばれた真っ白な狼犬は全身の筋肉を使って弾丸のように走り出した。
同時に、草陰にいた野ウサギが全力で逃げ出す。
ライはウサギを追って、森の奥へと姿を消していった。
その後ろ姿を見ながら、キニスンはライの父親である狼犬のことを思い出す。
とても賢く、勇気のある犬だった。
いつも共にいて、支え合える存在だった。
今はもうその生を終えてしまったけれど、彼の残してくれた子供は父親そっくりの賢く、勇気ある新しい相棒に育ってくれた。
きっともうしばらくしたら、さっきの野ウサギを咥えて戻ってくることだろう。
出来る限り他の生き物の命を奪わないような生活をしてはいるが、食べる為の狩りは止むを得ないこととしている。
命に感謝しながら食すこと。
それはこの世に生きる者達全ての掟であるべきだと、キニスンは考えている。
「―――?」
不意に聞き慣れた遠吠えが木々の合間に木霊する。
これは、ライの声だ。
どうやら何かあったらしい。
キニスンは急いでその声のする方へと向かった。

「ライ、どうした?」
「ヴァウ!」
キニスンに気づいたライは白く太いしっぽを振りながら、すぐ傍にある茂みの周囲を落ち着き無くうろうろとしていた。
生い茂る草の間から、何かの布地が見えている。
そこを覗き込んだキニスンは、思わずあっと声を上げた。
「お、おい……」
若い男―――少年と呼んでもいいだろうか―――が、茂みの中に倒れている。
咄嗟にキニスンは彼が既に息を引き取っているのではないかと思った。
しかし手を伸ばして身体に触れてみると、服越しにも微かに温もりを感じる。
キニスンは慌てて男を茂みの中から引きずり出し、腕に抱き抱えた。
「おい! 大丈夫か?!」
頬を軽く叩きながら呼びかけてみるが反応は無い。
念のために口元に顔を近づけてみると、本当にか細くだが呼吸が感じられた。
確かに生きてはいるようだが、顔色は真っ白で唇も紫色だ。
このままここに放っておけば、確実に死んでしまうだろう。
「ライ、これを頼むよ」
キニスンは持っていた弓矢をライの背中にくくりつけた。
何処の誰だか知らないが、とにかく放っておくわけにもいかない。
抱き上げると華奢な身体は見た目通りに軽く、これならば自分の小屋まで運べるだろうとキニスンは思った。

森の奥の少し開けた場所にひっそりと立つ小屋は、キニスンがここ数年で住み始めた我が家だ。
前に住んでいた知り合いが引っ越すと言うので譲ってもらったのだが、なかなかにしっかりした造りのうえ、広さもたっぷりとあって気に入っている。
キニスンは普段自分が使っているベッドに男を横たえると、まずは暖炉に火を灯して部屋を温めることにした。
触れた手や頬がひどく冷たかったので、首まできっちりと毛布を掛けてやる。
それからまじまじと男の顔を見下ろした。
年はまだ二十歳ぐらいだろうか、着ているものも顔もあちこちが汚れていたが、どことなく身分の高い人物のようにも見える。
それになにより、どうにも何処かで見たことがあるような気がしてならないのだ。
以前にどこかで会っただろうか。
濡らした布で汚れた頬を拭いてやりながら懸命に記憶を辿るが、どうしても思い出せない。
もともと森の奥で生活しているから、人に出会うことは少ないのだ。
それならばすぐに思い出せそうなものなのだが、どうもピンとこなかった。
そもそも彼は何故あんなところで倒れていたのだろう。
この森はそれほど深くはなく、人が迷ったり行き倒れたりするような場所ではない。
南に少し歩けば町もあるから、たまに子供が遊びに来るぐらいだ。
しかし、いくら考えても答えなど出るはずもない。
とにかく少しでも早く医者に見せたほうがいいだろう。
それにしても彼をひとり残していくわけにもいかず、どうしたものかと考えていると不意に戸を叩く音がした。
「……キニスン、いるか? 私だ」
少し低い女の声がして、キニスンは弾かれたように戸を開ける。
「エイダ! ちょうどいいところへ!」
「ワォォォン!!」
「……?」
声を上げたキニスンとつられて吼えたライを前にして、エイダと呼ばれた女性は訝しげに眉を寄せながら、そこに立っていた。
キニスンと旧友である彼女は時々ここを訪れては差し入れをし、他愛も無い話をして帰る。
お互いそれほど口数が多いわけではないが、人混みが苦手なうえ森を守ることを生業としている者同士、不思議と気が合った。
それでも、いまだかつてここまであからさまに来訪を歓迎されたことはない。
警戒している様子のエイダをキニスンはなんとか部屋に招き入れると、事情を説明した。
「……それで、これがその男か」
エイダはベッドに横たわる男をじっと見下ろす。
そのとき、彼女が驚いたように僅かに目を見開いたのをキニスンは見逃さなかった。
「この男、何処かで見たような気が・・・・・・」
やはり。
しかし彼女も同じことを思ったのなら、話は早かった。
共通の知り合いなどほとんどいないのだから。
そう、あの古い仲間達を除けば―――。
「やっぱりそう思うかい? 実は僕も見覚えがある気がするんだ」
「……」
しかしやはりエイダも名前までは思い出せないのか、そのまま黙り込んでしまう。
今からもう十五年以上前の話だ。
デュナンの統一戦争に同盟軍として参加していた頃、二人はノースウィンドウに建つ大きな城に滞在していたことがある。
軍の本拠地がそこだったのだ。
恐らくは、そのとき共に戦った仲間なのだろう。
しかしもともと人の多い場所が苦手な二人はあまり積極的に人と関わることもなく、城の裏手にある湖や、そこを囲む森で過ごすことが多かったのだ。
だから、すぐに名前を思い出すことが出来ない。
なんにせよ彼自身が目を覚ましてくれれば分かることだ。
キニスンはエイダに医者を呼んできてくれないかと頼むことにした。
「私がか?」
「うん。もちろん、僕が行ってもいいんだけれど……」
どちらかはここに残り、彼を看ている必要がある。
看病のようなことは女性であるエイダのほうが向いているのかもしれないが、 素性の知れない男の面倒を看させるのはやはり心配でもあった。
エイダ自身もそう思ったのか、キニスンの依頼をすぐに快諾してくれた。
「分かった。呼んでこよう」
「ありがとう!」
そうと決まれば急いだほうがいい。
ライを連れて行けというキニスンの申し出を固辞して、エイダはすぐに町へと向かった。

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2012.03.22


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