Classical

La vie en rose

克哉は車を降りると、急いで歩道に回りぺこりと頭を下げた。
「それじゃあ、また後で」
御堂はウィンドウを下ろし、運転席から克哉を見上げる。
「ああ。途中、道に迷ったりするなよ」
「そっ、そんなわけないじゃないですか!」
ここからMGNまで、歩いて十分とかからない。
顔を赤くして反論する克哉に、御堂は可笑しそうに笑いながら軽く手を上げた。
そのまま走り去っていく車を見送って、克哉は溜息をつく。
「まったく、あの人は……」
からかわれたことに少々膨らませた頬は、しかしすぐに緩んでしまうのだった。

朝、早めに御堂と一緒に部屋を出て、会社から少し離れた場所で克哉は車を降りる。
こんな風に出勤するようになってから、もう数ヶ月が経っていた。
MGNでの仕事にも、だいぶ慣れてきたような気がする。
出会った頃、克哉にとって御堂と過ごす時間は、辛くて苦しくて惨めなものでしかなかったのに、 今ではこんなにも穏やかで、幸せな気持ちを運んでくれるのだから驚きだ。
御堂の少し意地悪な言葉さえ、それを発する彼の優しい眼差しと微笑みが悦びに変えてしまう。
(早く、会社に行こう)
今別れたばかりなのにもう会いたくて、克哉は朝のビジネス街を早足で歩き出した。

一階のロビーを抜けると、今まさに扉が閉まろうとしているエレベーターが目に入った。
それに乗ろうと克哉が走り出しかけたとき、不意に誰かが自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
「佐伯くん」
え?と思い振り返ると、そこには専務である大隈が立っていた。
「せ、専務。おはようございます」
こんな早い時間に顔を合わせるとは思わず、克哉は緊張しながら頭を下げる。
苦手な相手ではあるものの、さすがに専務を振り切って行くわけにはいかない。
エレベーターの扉が閉まる音を聞きながら、克哉は諦めて大隈に向き直った。
「どうだね。仕事の調子は」
「はい……おかげさまで」
曖昧な質問には、曖昧に答えるしかない。しかし大隈にはそれで充分だったようだ。
お世辞にも人が良さそうとは言えない笑みを浮かべて、克哉の肩を叩く。
「そうか。まあ、君はあの御堂くんのお墨付きだからな。期待しているよ」
嫌味と取れなくもない励ましに、克哉はただ苦笑することしか出来なかった。
MGNに来てからというもの、「あの御堂部長」が引き抜いてきた人間として、 あちこちで噂されていることは知っている。
だからこそ克哉はこの数ヶ月、今まで以上に頑張ってきたつもりだった。
自分が失敗すれば、御堂に恥をかかせることになる。
御堂の迷惑になるようなことだけは、絶対にしたくなかった。
けれどこう面と向かって言われると、かなりのプレッシャーを感じることも事実だ。
克哉は無意識に、俯いてしまっていた。
「……ところで、佐伯くん。その御堂くんのことなんだがね」
突然大隈の声のトーンが変わったことに気づいて、克哉は顔を上げる。
大隈は顎の辺りに手をやりながら、妙に深刻そうな表情を見せていた。
「御堂部長が……何か?」
「うむ。君は御堂くんと、かなり親しいようだが……」
「えっ? あっ、あの」
かなり親しい?! どこでそんな話を?!
おろおろしながら思わず周囲に視線を逸らすと、 通りすがりの社員が憐れむような目でこちらを見ていった。
大隈はどことなく声を潜めて続ける。
「今、彼には、誰かお付き合いをしている相手はいるのかね?」
「おっ、お付き合い、ですか?」
はい、います。ここに。などと言えるはずもなく、克哉は激しく動揺した。
心臓をバクバクさせていると、大隈が更に続ける。
「あまりプライベートに口を出すべきではないとは思っているんだがね。 しかし彼も年齢的に、そろそろそういう相手がいてもいい時期だろう。 この間も私の知り合いの娘さんを紹介しようとしたんだが、 にべもなく断られてしまった」
「はぁ……」
それは俗に言う、お見合いというやつだろうか。想像して、克哉の胸がちくりと痛む。
「彼はもてるだろうからね。 もし既に予定があるのならいいんだが、そうでないのならもう少し考えてくれてもいいと思うのだよ。 彼も確かに仕事は出来るが、やはり家庭を持って初めて一人前といえるからね。 若い人には理解しがたいかもしれんが、日本の社会はまだまだそういうものだ。 結婚すれば、仕事にもますます遣り甲斐が出るだろう。仕事に打ち込むのもいいが……」
興が乗ってきたのか、大隈は喋り続ける。しかしそれはもう克哉の耳に、ほとんど届いてはいなかった。
確かに大隈の言う通り、年齢、立場、ルックス、どれを取っても御堂が独身でいる理由が無い。
さぞかし女性にももてるだろうから、浮いた噂のひとつやふたつ、あっても当然だ。
性格に少々難アリ……と言えなくもないが、彼が本当は優しい人であることも克哉は知っている。
だからこそ御堂が女性の気配もなく、独身を貫いていれば不思議に思う人間が出てきても仕方が無いだろう。
仕方が無い、とは思うのだが……。
「そういうわけで、佐伯くん」
「はっ、はい!」
克哉は我に返ると、慌てて顔を上げた。
「君からも少し進言してやってくれたまえ。私が言うよりも、角が立たないだろう」
「あの、でも……」
「実はその相手の方も、まだ諦めきれていないようなんだよ」
「えっ……」
大隈はにやりと笑うと、言葉を失っている克哉の肩をもう一度叩いた。
「では、頼んだよ。佐伯くん」
「……」
去っていく大隈を振り返る気にもなれず、克哉はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。

「おはようございます……」
ほとんど条件反射的に挨拶の言葉を口にしながら、克哉は自分のデスクへと向かった。
まだ疎らにしかいない同僚達が同じく挨拶を返してくれたようだが、それも耳には入らない。
(御堂さん……)
ほんの少し前まで胸の中を満たしていた幸福感は、今やどこにもなかった。
あるのはただ、自分達の関係に対する疑問と罪悪感だけ。
本当にこんな関係を続けていていいのだろうか。
御堂にとって、自分といることは本当に幸せなことなのだろうか。
考えれば考えるほど、気持ちは落ち込んでいくばかりだった。
「ハァ……」
「出勤早々、溜め息か?」
「?!!」
かけられた声に驚いて飛び上がる。それが誰の声なのか、振り返るまでもなかった。
「み、御堂部長。おはようございます……」
「ああ、おはよう」
白々しく、今日二度目の挨拶を交わしあう。
いつもならばどこかくすぐったいような嬉しさを感じるのに、今は絡んだ視線が辛いだけだった。
「先日頼んだ金曜日のミーティング用の資料だが、もう出来ているか?」
「は、はいっ。あとはプリントアウトするだけです」
「そうか。では、すぐに持ってきてくれたまえ」
「分かりました」
御堂がオフィスの方へ消えていくと、克哉はまた大きな溜め息をついた。
(御堂さん……)
心の中で呟いただけで、泣きたくなる。
今まで、こんなにも誰かを好きになったことはなかった。
もしもこの気持ちが御堂の人生を邪魔することになるとしても、これを完全に封じ込められる自信は克哉にはない。
いつかこの関係を終わらせなければならない日が来たら、自分はどうなってしまうのだろう。
「……っ」
克哉は嫌な考えを消してしまおうと、頭を振った。
席に着いて、パソコンの電源を入れる。今は仕事に集中しなければ。
御堂に言われた資料を用意しながら、それでも消しきれない想いに克哉は幾度も溜め息をついていた。

大きく深呼吸してから、オフィスのドアをノックする。
「佐伯です」
入りたまえ、と中から声がして、克哉はドアを開けた。
その瞬間、目に飛び込んできた御堂の姿と、鼻孔をくすぐる微かなフレグランスの香りに、 克哉の胸は締め付けられたように痛む。
(駄目だ……ちゃんとしなきゃ)
なんとか自分を奮い立たせ、御堂の前に立った。
「ミーティングの資料、お持ちしました」
「ああ。ありがとう」
大丈夫。普通に振舞えているはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、克哉は御堂に資料を差し出す。
しかしそれを受け取った途端、御堂の顔色が変わった。
「これは……先週使った資料ではないのか?」
「えっ?!」
驚いて御堂の手の中にある紙を覗き込むと、それは確かに先週のミーティングで配った資料だった。
上に日付も入っている。
「す、すみません! 間違えました!」
「……」
余程上の空で作業していたのだろう。
印刷するファイルを間違えたことも、それに気づかないままここまで持ってきてしまったことも、 全てが恥ずかしくて堪らない。
克哉は慌てて、渡した資料を取り返そうとする。
しかし何故か御堂は、その紙から手を離そうとはしなかった。
「あの、すぐに、持ってきますので……」
資料を取り合うような形になってしまって、克哉は困惑する。
一方、御堂はこちらを探るように、鋭い視線を向けていた。
「……克哉」
「!」
頭にかっと血が昇る。
御堂はプライベート以外で、克哉を名前で呼ぶことはしない。
会社では「佐伯くん」で通しているし、克哉もまたそれに倣って「御堂部長」と呼ぶことにしている。
だから思わぬ場所で名前を呼ばれて、克哉の心臓は大きく跳ねた。
「あ、あの……」
「どうも様子がおかしいな。何かあったのか?」
「いえ……何も……」
「嘘をつくな」
御堂はようやく紙から手を離すと、椅子から立ち上がった。
デスクを回り、克哉の傍まで来て、その額に触れる。
「あっ……」
「熱はなさそうだな」
すぐに離れていってしまった手の温もりに、すがりつきたいような気持ちになる。
御堂はデスクに寄りかかると、腕組みをして克哉を眺めた。
「朝別れたときの君は、いつもと変わらなかった。 ここに来るまでの間に、いったい何があった?」
「だから、何も……」
「隠しても無駄だ。早く言いたまえ。このままでは、仕事に支障が出かねない」
「……」
確かにこんな状態では、今日一日仕事にならないだろう。
それに御堂は既に、何かあったことを見抜いている。
その場凌ぎの言い訳が、通用するような相手ではない。
苛立ち始めている御堂を前にして、克哉は思い切って白状することにした。
「さっき……下で、大隈専務にお会いしたんです……」
「専務に?」
「……」
大隈の名が出ただけで、御堂には話の内容がだいたい予想出来たようだった。
途端に不機嫌になった様子で、口調を強める。
「フン。あの人のことだ、どうせろくなことを言わなかったんだろう。何の話をした? 私の話か?」
「はい……御堂さんに……その……」
「私に、なんだ?」
急かす御堂を上目遣いにちらりと見上げてから、克哉はようやくそれを口にした。
「その……そろそろ、結婚を考えるよう……話してくれ、と……」
「馬鹿馬鹿しい……!」
御堂は舌打ちすると、呆れたように吐き捨てた。
「確かに専務から見合いを勧められはした。だが、その件についてははっきりと断ったはずだ。 私は誰とも結婚するつもりなどないと」
「それは……聞きました」
「それなら、何故君が落ち込むことがある? 私が黙っていたことが気に入らないのか?」
「違います! そうじゃなくて……」
そういうことではないのだ。克哉は泣き出してしまいそうなのを懸命に堪えて言った。
「オレ……思ったんです。もしもオレとのことがばれたら、あなたは今まで築いてきた地位も信頼も失うかもしれない……。 それなのに、こんな風に人に言えないような関係を続けていくことが、本当にいいことなんだろうかって……。 オレはあなたを不幸にするかもしれなくて…… あなたにとってオレは、ただの足枷にしかならないんじゃないか……って……」
声が震えてきて、それ以上は続けられなかった。
俯く克哉を、御堂はただ見つめている。少しの沈黙の後、御堂がゆっくりと口を開いた。
「……とんだ自惚れだな」
「え……?」
その声の冷たさに、克哉はびくりと身体を震わせる。
自信を持てとは何度も言われているが、自惚れるなと言われたのは初めてのような気がした。
「君が私を不幸にするだと? 君が私の足枷になる? 冗談じゃない。笑わせるな」
「御堂……さん……」
御堂は寄りかかっていたデスクから離れ、スーツのポケットに手を入れる。
克哉を斜めに見ながら冷笑する様子は、出会った頃の御堂を思い出させた。
「いいか。私の人生を決めるのは私だ。君と生きることを選択したのも、君を我が社に呼んだのも、 全て私自身が決めたことだ。その結果何が起ころうとも、全ての責任は私にある。 君が負い目に感じることなど、何一つ無い」
「……」
「それとも君は、私の選択が間違っているとでも言いたいのか?」
「ち、違います……! オレは、ただ……」
「克哉」
もう一度名前を呼ばれて、克哉は息を呑んだ。
御堂の手がおもむろに伸びてきて、頬に触れる。
その指先の温もりに、克哉は自分の気持ちが僅かに解れていくのを感じていた。
「私は自分で決めたことは、必ずやり遂げる。決して諦めたりはしない。 私がそういう人間だということは、君も知っているはずだろう」
「あ……」
そうだ。プロトファイバーの増産が出来なくなりかけたとき、御堂は決して諦めないはずだと、 8課の皆の前で啖呵を切ったのは自分だった。
ならば、信じてもいいのだろうか。御堂は今回も諦めないと。
たとえ何を失おうとも、佐伯克哉という人間と生きることを諦めたりはしないと。
「私は君と生きると決めた。この決定を覆すことは、専務は勿論、君にさえ出来ないことだ。 そして君も、逃げることは許されない。君はもう、私のものなのだからな」
「御堂、さん……」
乱暴にも聞こえるような言葉だったけれど、人一倍自分に自信の持てない克哉にとっては、 これ以上無いほどに心強く響いた。
御堂と一緒ならばきっと、どんな苦境も乗り越えていけるだろう。
いや、むしろ苦境に陥る前に、そうならないようあらゆる手を打ち、成功するような気がする。
御堂孝典とは、そういう人だ。
そう考えて思わず笑みを漏らした克哉を、御堂が怪訝そうな顔で覗き込んだ。
「……克哉?」
「御堂さん……ありがとう、ございます」
ようやく元気を取り戻した様子の克哉を見て、御堂も微笑む。
そして二人は、そっと唇を重ねあった。
「ん……」
それは僅かに触れただけのくちづけだったけれど、克哉の胸の内を再び幸福感で満たすには充分なものだった。
「御堂さん……」
瞳を潤ませて見上げてくる克哉に、御堂は軽口を叩く。
「フッ。そんな物足りなそうな顔をするな。これ以上したら、本当に仕事にならなくなるぞ」
「もっ……物足りなそうな顔なんて、してません!」
「そうか? 私は物足りないがな」
「……っ」
克哉は顔を真っ赤にして、言葉に詰まってしまう。
御堂が愉快そうに、喉の奥で笑った。
「さあ、早く資料を持ってきたまえ。今度は間違えるな」
「そ、そうでした! すぐに、お持ちしますので!」
克哉は慌てて踵を返す。そうだ。まずは仕事だ。
思いきり頭を下げ、御堂のオフィスを飛び出した。

まだ、不安になることは多い。
自信も、ない。
けれどいつかは御堂に、「やはり私の選択は間違っていなかった」と言ってもらえるようになりたい。
御堂を幸せにしたい。
二人で、幸せになりたい。
今よりも、もっと。
(オレも、諦めませんから―――)
克哉は真っ直ぐに前を見つめる。
二人の歩いていく道が、薔薇色の人生であることを信じて。

- end -
2007.09.25



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