あなたの腕の中で
御堂とおやすみのキスを交わしてから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。
ベッドの中で眠れないままに考えてみたけれど、一時間か二時間か、それとも三十分程度なのかはっきりしない。
ただなんとなく今日は、寝付くのにいつもよりもずっと時間が掛かりそうな気がした。
それはきっと来週末に御堂の急な出張が入ってしまった為、会えないことになったせいだと思う。
その話を聞かされたときにはにっこり笑いながら「分かりました。気をつけて行ってきてくださいね」などと答えて殊勝な態度を取ってみせたのだが、内心では酷くがっかりしていたのだ。
そのせいで、ただでさえ寝つきが悪いのに、更に眠れなくなってしまったらしい。
幸い明日は休日だから仕事に支障が出るようなことはないけれど、寝不足で昼間の時間に眠くなってしまうのは避けたかった。
せっかく二人で過ごせる休日、御堂が起きているときに眠ってしまったら勿体ない。
(喉が渇いたな……)
どうせ眠れないのなら、一旦ベッドから出てしまおうか。
迷いながら視線を上げれば、そこには穏やかに眠る御堂の寝顔があった。
暗がりでもすっかり目が慣れてしまっていた克哉には、御堂の顔のパーツのひとつひとつがはっきりと見える。
閉じた瞼を縁取る睫毛も、すっと通った鼻筋も、薄い唇も、とても綺麗だと思った。
下ろして少し乱れた前髪の所為もあってか、七つも年上の人なのに可愛らしくさえある。
仕事をしているときの凛とした表情も恰好良くて好きだけど、眠っているときの柔らかな雰囲気も大好きだ。
しかもこの寝顔は自分だけが独り占めしているのだという優越感もあった。
「孝典さん……」
ほとんど吐息にしか聞こえないような、小さな囁き。
起きているときには照れてなかなか呼べないけれど、こうして御堂が眠っているときになら素直に口に出来た。
けれど呼んでしまえばかえって胸が切なくなって、どうしてもキスがしたくなる。
眠る前にも数えきれないほど交わし合ったはずなのに、またしてもあの唇の熱と感触が恋しくなってしまったのだった。
(どうしよう……)
勝手にキスしてもいいだろうか。
いや、ダメだ。
そんなことをしたら、眠っている御堂を起こしてしまうかもしれない。
ああ、でも、こんなに近くにいるのにキスも出来ないなんて。
せめて、少し触れるだけでも。
克哉は恐る恐る手を伸ばすと、御堂の唇に指先でそっと触れた。
「ん……」
「!!」
くすぐったそうに御堂が身じろぎしたので、克哉は慌てて手を引っ込める。
やっぱりダメだ。
落ち着け。
静まれ。
そう言い聞かせるほどに、かえって胸の鼓動は速くなっていく。
息苦しくなって、知らずに呼吸が乱れだす。
もっともっと触れたくなって、そして触れてほしくなってしまう。
(やっぱり起きよう……)
御堂の腕の中にいるだけで、すぐにこうなってしまう自分はやはり淫乱なのだろう。
恥ずかしくて情けなくて堪らないけれど、甘く疼きはじめてしまった身体をどうすることも出来ない。
このままではおかしなことをしでかしてしまいそうだ。
克哉は御堂が目覚めないよう少しずつ御堂から離れ、そうっとベッドを抜け出す。
それから足音を忍ばせてなんとか寝室を出ると、安堵に長い溜息をついた。
キッチンで冷たい水を飲むと、熱くなっていた頭も身体もようやく落ち着きを取り戻した。
克哉は暗いままのリビングのカーテンを細く開けて、外の景色を眺める。
もう夜も更けているから建物の灯りの数はだいぶ少なくなっていたけれど、それでもまだ光を放っている窓や、流れていく車のライトがとても綺麗だった。
克哉は昔からすこぶる寝つきが悪かった。
ベッドに入ってから眠るまでに、大抵二、三時間は掛かる。
無理に眠ろうとするとかえって眠れなくなってしまうので、本を読んだり音楽を聴いたり、はてはただゴロゴロと何度も寝返りを打ったりして、自然と眠りに落ちるのを待つしかない。
しかし、御堂と一緒に眠ることが増えてからはそうもいかなくなった。
眠っている御堂の傍で自分がごそごそと何かをやっていたら、御堂を起こしてしまうかもしれない。
いつもより激しく愛し合ったときなどは割と早く眠れることもあったけれど、さすがに毎夜というわけにはいかないし、そもそも根本的な解決にはならなかった。
だから克哉はいつも先に眠ったふりをして、その後で御堂が眠ったのを確認してから一人寝付けない時間を過ごしていた。
それは御堂の寝顔を見ることが出来るとても幸せな時間ではあったけれど、同時に一人取り残されてしまったような寂しい時間でもあった。
(さて、どうしようかな……)
本でも読もうかと思ったけれど、リビングの灯りをつけるのはなんとなく憚られる。
テレビは煩いし、携帯を弄るぐらいしかないか……などと窓際に立ったままぼんやり考えていた、そのときだった。
「……克哉?」
不意に呼ばれた声にハッとして振り返ると、そこには御堂がいた。
「御堂さん……! ごめんなさい、やっぱり起こしてしまったんですね」
声のボリュームは抑えながら、謝りつつ御堂に近づく。
そんな克哉を御堂は心配そうな様子で見つめていた。
「いや、そんなことはいいんだが……どうかしたのか?」
「えっと、その……ちょっと眠れなくて……」
「……」
克哉にしてみれば何も考えず、ただ正直に答えただけだった。
けれどその返事を聞いて、御堂は酷く深刻そうな顔になってしまう。
それから御堂は克哉の腕を引くと、克哉の身体をぎゅっと抱き締めた。
「……御堂さん?」
「何があった? 言ってみろ」
「え?」
「眠れないんだろう? 悩みごとでもあるんじゃないのか」
「御堂さん……」
どうやら誤解させてしまったようだった。
ここは本来なら申し訳なく思うべきところなのかもしれないけれど、むしろそんな風に心配してもらえたことが嬉しくて、克哉はつい御堂の腕の中で微笑んでしまう。
「心配してくださって、ありがとうございます。でも、違うんです。オレ、もともとすごく寝つきが悪くて」
「……本当に?」
「はい。本当です」
「……」
しかし御堂はすぐにはそれを信じられなかったらしく、克哉の真意を探るように瞳をじっと覗き込んでくる。
克哉が普段から御堂に余計な心配や迷惑を掛けまいとして、ついつい強がりを言ったり無理に笑ってみせたりすることがよくあるのを知っているからだろう。
けれど今回は克哉が御堂から目を逸らさなかったことで、どうにか信じてくれたようだった。
「そうだったのか……。では、今までも私が眠ったあとにこうして一人で過ごしていたと?」
「い、いえ。いつもはだいたいベッドの中にいて……。その、御堂さんの寝顔を……眺めたりとか……」
「……私の?」
「はい……」
本当は他にも、いろいろと。
さすがに全部を正直には言えなくて、克哉は口ごもる。
それでも御堂が不快そうに眉を寄せたのを見て、克哉は慌てた。
「す、すみません。オレ」
「別に謝ることはない。ただ……少々恥ずかしく思っただけだ」
少し拗ねたように顔を背ける御堂が、やはり可愛らしく見えてしまう。
克哉が思わず笑うと、御堂も気を取り直したように微笑んでくれた。
「しかし君がそんなことになっているとは知らずに、私はいつも先に眠ってしまっていたんだな。すまなかった」
「そんな、謝らないでください。寝つきが悪いのは昔からですから。もう、諦めています」
「そうか……。まあ、こんなところにずっといては身体が冷えてしまうだろう。とにかくベッドに戻ろう」
「はい……」
むしろ熱くなってしまった身体を冷やす為にここに来たのだとはとても言えなかった。
やはり自分は淫乱なのだ。
そう思うととてつもなく恥ずかしくなって、克哉は俯く。
このままベッドに戻っても、到底眠れる気がしない。
またみっともなく欲情して、浅ましい自分を見られてしまうだけなのではないか。
しかし克哉の肩を抱きながら、御堂はすべてを見透かしているかのように言ってくれた。
「……大丈夫だ。私が寝かしつけてやる」
それは克哉の不安を消し去ってくれる、頼もしい口調だった。
寝室に戻り、二人でベッドに潜り込む。
御堂の腕に抱かれると、やはり心臓が高鳴ってきてしまって克哉は慌てて距離を取ろうとした。
「み、御堂さん、あの、オレ」
「いいから、リラックスして目を閉じたまえ」
「う……」
しかし御堂は克哉を抱き締めて離さない。
克哉は諦めて、とりあえず言われた通りに目を閉じてみた。
すると御堂はまるで母親が子供にするように、克哉の背中をゆっくりと撫で始めた。
どうやら先ほどの宣言通り、本当に寝かしつけてくれるらしい。
御堂の掌は柔らかく克哉の背中を滑っていく。
叩くと撫でるの中間ぐらいの強さで、ゆっくりと、一定のリズムを刻みながら。
そのリズムを感じているうちに、御堂の呼吸と自分の呼吸が、そのリズムに合ってくるのが分かった。
少し速くなっていた鼓動も静かになって、気持ちが落ち着いてくる。
いつもならば御堂に抱き締められて、触れられれば、すぐに身体が熱くなってしまうのに、今は不思議とそうはならなかった。
「御堂……さん……」
まだベッドに戻って数分しか経っていない。
あれほど目が冴えていたはずなのに、どんどん瞼が重くなっていく。
心も身体もほぐれていく。
快楽とは別の心地良さに、奇妙な浮遊感を覚える。
こんな感覚を味わうのは初めてのことだった。
「……孝典……さん……」
「……ん?」
「来週……会えない、ですね……」
頭の中が空っぽになったとき、無意識に零れたのはそんな言葉だった。
「……そうだな」
「寂しい……」
「……」
「寂しい、です……」
「克哉……」
半分寝言のように呟いていたのは、さっきは言えなかった本音。
それを吐き出して胸につかえていたものが落ちてしまえば、ますます眠気が強くなってくる。
御堂が克哉を更に抱き寄せる。
背中を撫でる御堂の掌から伝わるのはいつもの激しい欲望ではなく、慈愛の情だ。
癒され、労わられ、庇護されているのを感じる。
穏やかで静かな、愛の形を。
「……大丈夫。すぐに帰ってくる」
そう。
御堂はすぐに帰ってきてくれる。
必ず帰ってきて、また抱き締めてくれる。
キスしてくれる。
それまでほんの少しだけ、我慢。
「……おやすみ、克哉……」
御堂が低い、小さな声で、優しく囁く。
ここは安全で、幸福な場所。
全てを委ねても構わない場所。
互いの呼吸が溶け合って、体温が溶け合って。
そして―――。
気づけば、朝になっていた。
眠る前と同じように御堂の腕の中で目覚めた克哉は、夕べのことを思い出す。
御堂に寝かしつけてもらっているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
(すごい、御堂さん)
まさか本当にあれほどすんなりと眠れるとは思わなかった。
御堂はいったいどんな魔法を使ったのだろう。
驚いてまじまじと御堂の寝顔を見つめていると、やがて御堂も目を覚ました。
「……おはよう、克哉」
「おはようございます。……あの、ありがとうございました」
「……?」
御堂はまだ頭がはっきりとしていないのか、ぼんやりと克哉を見返す。
「ゆうべ、オレのことを本当に寝かしつけてくれたので……。あんなにあっさり眠れるなんて、びっくりしました」
「ああ……。私も驚いたよ。本当に寝つきが悪いのか?と思ったな」
「ほ、本当ですよ。いつもはすごく時間が掛かるんです。……もしかして御堂さん、子どもの世話とかしたことがあるんですか?」
「私が? まさか」
「ですよね。じゃあ……」
克哉が少し考えると、御堂が迷いなく言った。
「相手が君だから出来たことだろうな。君だって、寝かしつけたのが私だからこそ眠れたんじゃないのか?」
「……はい。そうですね」
思っていたことそのままだったので、克哉は微笑みながら大きく頷いた。
他の誰でもない、互いだから出来たこと。
この年になって人に寝かしつけてもらうなんて恥ずかしいことかもしれないけれど、克哉はただ嬉しくなって御堂にしがみついた。
「今夜も、寝かしつけてくれますか?」
「ああ。君が望むなら、いくらでも。……だが、私に抱かれるとすぐに眠くなられても困るんだが」
「そ、それは無いと……思います」
「本当に?」
「本当です! だって、ほら……」
克哉は自分から御堂にくちづける。
ゆうべからずっとしたかったキスが出来て、克哉の胸は喜びに高鳴った。
応える御堂に抱き締められれば、背中から腰へと滑っていく掌の熱に、今度は求められていることを感じる。
そこには明らかな情欲と、気持ちの昂ぶりがあった。
こんな状況で眠くなるはずがない。
それどころか、もう欲しくて堪らなくなっている。
「克哉……」
「……孝典、さん……」
克哉が淫らに啼くのも、穏やかに眠るのも、御堂の腕の中でだけ。
何よりも大切で愛しいその場所に、今はただゆっくりと溺れよう。
- end -
2014.12.27
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