Classical

悪夢

カードキーを差し込み、重いドアを開ける。
その向こうにあるのは真っ暗な空間。
静寂の中を暫し立ち尽くす。
「……ただいま」
当然のごとく、返事は無い。
そもそも、その言葉が実際に声になっていたのかどうか分からなかった。
靴を脱ぎ、灯りをつけながらリビングを抜けてクローゼットへと向かう。
どこまでも冷えきった空気は私が通った形に分かれ、過ぎてしまえばすぐに元へ戻って閉じていく。
着替えを済ませると、今度は洗面所へ。
手を洗う。
鏡は見ない。
いつもの流れ。

キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。
ミネラルウォーターのペットボトルを手にリビングへ。
ソファに身を沈め、冷たいそれを喉に流し込んだ。
長い溜息。
胃の辺りが痛む。
そういえば、最後に食事をしたのはいつだっただろうか。
思い出せない。
だが、そんなことはどうでもいい。
今の私にとって、毎日の生活は習慣と惰性のみで成り立っている。

寝室へ向かう。
スタンドの仄かな灯りに照らされたベッドが目に入る。
この部屋にこのベッドは些か大きすぎると感じた。
私は何故こんなにも大きなベッドを置いたのだろう。
手をつくとスプリングが軋む。
倒れるようにしてシーツの上に横たわる。
広い、広いベッド。
無意識に空けていた右半分のスペース。

―――克哉。

唐突に私は思い出す。
そうだ。
もう、君はいない。
このベッドの上で何度も何度も愛し合ったはずの君はもういない。
君の温もりを抱き締めることは出来ない。
君のはにかんだ笑顔も、優しく耳を擽る声も、二度とは戻らない。
君は本当に最高の恋人だった。
いつでも私のことを想い、文字通り全身全霊で私を求め、愛してくれた。
あんなにも酷い仕打ちをした私を許し、全てを理解し受け入れてくれた。
可愛くて、有能で、謙虚で、一生懸命で、頑固で、いやらしくて、君は何処までも暖かく優しかった。
君の存在は私の世界の全てで、誇りで、宝物だった。
けれど、君はもういない。
果たして私はそんな君の愛に報えていたのだろうか。
本当はもっともっと君を愛せたのではないだろうか。
こんなことになるのなら、仕事も日常も全てを投げ出して君を愛すれば良かったのかもしれない。
ずっと抱き締めて離さないで、繋がったままでいれば良かった。
君を愛すること以外の全てを放棄してしまえば良かった。
流れる時間の全てを君の為だけに使えば良かった。
「……っ…」
喉に石でも詰まっているようだ。
鼻の奥が痛くなって、視界が滲んで揺れる。
投げ出した腕の中は空っぽで、あの温もりも重みも感じることはない。
君がいない。
君がいないから。
君がいなくなって、私は何もかもを失ってしまった。
君がいないのに、何故私はここにいる?
君のいない世界にどんな意味がある?
何処へ行けばもう一度君に会える?
教えてくれ―――克哉。


――― ※ ―――


トイレから戻ると、克哉はそうっと音を立てないよう寝室のドアを閉めた。
普段ならとうに二人とも起きているはずの時間だったが、御堂はまだ眠っているようだったからだ。
今日が休日だからと、昨夜はかなり夜更かしをしてしまった所為だろう。
今日は特に予定も無いのだし、たまにはゆっくりと眠らせてあげたい。
そう思って、自分ももう一度御堂の隣りに潜り込むつもりで克哉はベッドに近づいた。
「……?」
ベッドに上がろうと身を乗り出したところで違和感に気づく。
こちらを向いて眠っている御堂の目の辺りが濡れているように見えた。
「えっ……」
時計は朝の八時過ぎを示していたが、外は曇り空なのか部屋の中は薄暗い。
克哉はまさかと自分の目を疑いながら、御堂に顔を近づけた。
確かに御堂はまだ眠っている。
しかしじっと見ていると、閉じた瞼を縁取る睫毛の奥から次々と透明な雫が溢れては零れていく。
右目から溢れた涙は鼻の付け根を伝い左頬のほうへ流れ、左目からの涙はそのままシーツに吸い込まれていった。
時折苦しそうに眉根が寄せられ、薄く開いた唇は微かに震えている。
「孝典、さん……」
なんて悲しそうに泣くのだろう。
御堂がこんなにも涙を流すなんて、よほど辛い夢でも見ているのに違いない。
それならばすぐにでも起こしてあげるべきなのかもしれないが、克哉にはどうしてもそれが出来なかった。
初めて見る御堂の涙から目が離せない。
心臓がドキドキと高鳴っている。
御堂と恋人同士になってから他の人なら決して知ることのないだろう様々な彼を見てきたつもりだが、 泣いているところだけは見たことがなかった。
御堂が簡単に涙を流すような人ではないと知っているし、だからこれからも彼の泣き顔を見る機会など訪れないだろうと思っていたのに。
(どうしよう……)
克哉には泣いている御堂がとてつもなく愛しく思えて仕方が無かった。
これほどまでに悲しんでいる恋人を前にして、こんなことを考えてしまってはいけないと分かっている。
それでも子どものようにぽろぽろと涙を流し続ける御堂が愛しくて愛しくて、克哉は思わず御堂に手を伸ばしていた。
「孝典さん……」
その髪に触れながら、克哉は御堂の濡れた睫毛にそっと唇を寄せる。
なんだか自分までせつなくなってきて、じわりと涙が浮かんでくるのを堪えられない。
何度か啄ばむようなキスを繰り返していると、御堂の瞼がゆっくりと開いた。
「ん……」
「孝典……さん……?」
「……」
「あの……」
至近距離で目が合う。
御堂はしばらくの間、酷く驚いたように濡れたままの目を見張って克哉をじっと見つめていたが、それから突然起き上がると克哉の身体をきつく抱き締めた。
「あっ、あの、あの、孝典さん? いったい、どうし……」
「……良かった……」
「え?」
「……」
小さく呟いた後、御堂は更に力を込めて克哉を抱き締める。
克哉はその痛いほどの強さに戸惑いながらも、御堂の身体が僅かに震えているのが伝わってきて抵抗出来なかった。
(まだ、泣いてるのかな……)
肩に押し付けられている御堂の顔は見えず、だから克哉は御堂の背中に手を回した。
あやすように、宥めるように背中を擦ると、少しずつ御堂の身体から力が抜けていくのが分かる。
「あの、孝典さん……大丈夫ですよ。大丈夫ですから……」
とにかく落ち着かせてあげたくて、「大丈夫」と御堂の耳元で繰り返す。
何が大丈夫なのか自分でも分からなかったけれどそれなりに効果はあったようで、やがて御堂は克哉を抱き締める力を緩め、身体を離した。
けれど手は克哉の腕を掴んだままで、俯けた顔も上げようとはしない。
「えーと……」
さすがに困っていると、ようやく御堂が上目遣いに克哉を見た。
その瞳はもう濡れてはいなかったが、今度は恨めしげに克哉を映していた。
「……見たのか」
「え?」
「だから……見たのだろう? その……」
そこまで言って、気まずそうに目を逸らす。
泣き顔を見たのか、と聞きたいのだろう。
「……ええ、まあ」
「……そうか」
その答えを聞いた御堂は克哉から手を離すと、ふいと顔を背けてしまう。
御堂のプライドを傷つけてしまったのかと思った克哉は、慌てて御堂のほうに身を乗り出した。
「あっ、あの、でも、仕方ないと思います! きっと、それだけ悲しい夢だったんですよね? 人間だったら、誰でも泣くことぐらいありますし……」
「……」
「だから、その、えーと……」
「……」
「……あの……どんな夢を見たんですか?」
「……!!!」
尋ねた途端、御堂の頬がさっと朱に染まる。
フォローするつもりだったのが、反対に追い込んでしまったらしい。
けれど、どうしても知りたかったのだ。
追究すれば御堂の機嫌を損ねてしまうかもしれないと分かっていても、やはり知りたかった。
御堂にあれほどの涙を流させた夢とは、どんな内容だったのか。
さっきの御堂の反応から推測するに、もしかしてそれは自分に関係しているのではないだろうか。
邪まともいえる期待を込めて克哉が御堂の反応を伺っていると、御堂は少し目を伏せてから静かにふうと息を吐いた。
「……さぁな。忘れてしまった」
「えっ?」
「そんなことより」
克哉が呆気に取られていると、御堂がにやりと不敵な笑みを浮かべる。
しまった、と思ったときには既に遅かった。
あっという間に形勢は逆転され、克哉はベッドの上に仰向けに押し倒されてしまう。
立ち直りが早いのか、誤魔化すのが上手いのか、御堂は克哉に覆い被さりながら言った。
「今日は一日、君の恥ずかしい姿をたっぷり堪能させてもらうことにしたから覚悟したまえ」
「え……あの、どうしていきなりこういう展開に……?」
混乱して尋ねる克哉に、御堂は即答する。
「さっきは私が恥ずかしい姿を見られてしまったのだから、今度は私が見る番だ。当然だろう?」
「でっ、でも! オレの恥ずかしいところなんて、いつも散々見てるじゃありませんか……」
「まあ、そうだな」
自分で言いながら顔を赤くしている克哉に、御堂はクスリと笑いながらキスをする。
「だが、今日は一日君を離すつもりはない。諦めて言うことを聞くんだな」
「離さないのは……構いませんけど……」
その返事に満足すると、御堂は克哉の白い首筋に顔を埋めた。
けれど克哉はどうしても諦めきれない。
肌を吸われ、パジャマの中に手を入れられて、身を震わせながら尚も問う。
「んっ……言うこと、きいたら……夢の内容、教えて……くれます、か……?」
「……断る」
「でも、悪い夢は人に話したほうがいいって……」
「断ると言っている」
「ん、あっ……!」
不意打ちで胸の尖りをきつく捻られて、克哉の身体が跳ねる。
どうやら御堂は何がなんでも話したくないらしい。
(気になるなぁ……)
けれど無理強いはしたくなかったし、それにこんなにも意固地になっているところさえも愛しく思えて、克哉はつい口元を綻ばせる。
ただでさえ御堂にとっては決して見られたくない姿だったのだろうから、これ以上は追究しないことに決めた。
どんな夢を見ようとも、目覚めたときにいつも傍にいてあげられたらいい。
そして悪い夢など忘れてしまうほど愛し合えばいい。
そんな風に思いながら、克哉は御堂の愛撫にただ身を任せていった。

- end -
2011.10.22



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