まだ見ぬ君に恋をする。
「さて、と……」
克哉は腰に手を当てて、そう広くはない自分の部屋を改めて見渡した。
御堂から同居を提案され、喜んでそれを受け入れたのが一昨日の夜のこと。
少しでも早く引っ越したくて、それから克哉はあれこれと準備について考えを巡らせていた。
とはいえ、端から荷物は多くない。
冷蔵庫やテレビ、洗濯機などは不要になるから、リサイクルショップにでも引き取ってもらえばいいだろう。
持っていくのはせいぜい着替えと仕事に使うもの、それから本やCD、DVDぐらいだ。
克哉は頭の中で段取りを一通りシミュレーションすると、部屋の中央に置いてあるチェスト代わりのカラーボックスの前に立った。
「この辺から、やるか」
今からでも片付けられるものは片付けてしまおうと、克哉はスーパーから貰ってきたダンボールの箱を広げる。
それから床に座り込むと、そこに並べられているファイルのひとつを手に取った。
パラパラと捲ってみると、中には仕事の参考用にと集めた資料が入っている。
「まだ、使えそうかな……」
恐らく、隣りに並んでいるファイルも同じ類のものだろう。
克哉は適当に中身を確認しながら、それらをダンボールに入れていく。
少しずつ棚が空いていくにつれて、克哉は自然と頬が緩んでくるのを抑えきれなかった。
あの御堂と、一緒に暮らす。
いくら付き合っているとはいえ、こんなにも入り浸っていていいのだろうかとずっと気になっていた。
けれどもう、そんな風に思わなくてもいい。
時間を気にして、着替えの心配をして、郵便物を取りに戻らなくても良くなるのだ。
御堂の住むあの部屋こそが自分の帰る場所になるのだということが、克哉には嬉しくてたまらなかった。
しばらくそんな作業を繰り返しているとき、携帯電話の着信音が鳴った。
「あっ」
克哉はテーブルの上にある携帯に、急いで手を伸ばす。
そしてDVDデッキの時計で時間を確認すると、笑顔になって電話に出た。
「はい、もしもし?」
『克哉か。私だ』
それは、御堂の声だった。
御堂はこの週末、二泊三日の出張で福岡に行っていたが、そろそろ戻ってきてもおかしくない時間だった。
もちろん出張中も電話で声を聞くことは出来たけれど、ますます会いたくなって困ってしまった。
たった二晩離れていただけで、こんなにも寂しさが募るものかと自分自身でも驚いたほどだ。
克哉は喜びに上ずる声で、御堂に捲くし立てる。
「お疲れ様です、御堂さん。お仕事、どうでしたか? 今、何処ですか? もう、こちらに着きますか?」
あきらかにはしゃいでいる克哉の様子に、電話の向こうの御堂がおかしそうに笑った。
『そんなに一度に答えられるはずがないだろう。もう、こちらに着いている。君は今、何処にいる?』
「自分のアパートにいます」
『そうか。それなら、私が君の家に行った方が早いな』
「えっ?」
克哉は戸惑いながら、部屋の中に視線を向ける。
「でも今、片付けの途中なんですけど……」
まだそれほど散らかってはいないが、それでもこの状況で恋人を迎えるのは少々躊躇われた。
『それは、引越しの準備か?』
「はい」
『それなら、ちょうどいい。私も手伝おう』
「ええっ?」
克哉は頓狂な声を上げる。
早く会えるのは嬉しいが、出張帰りで疲れているはずの御堂に、そんなことはとてもじゃないがさせられない。
克哉は見えるはずもないのに、ぶんぶんと首を左右に振った。
「そんな、とんでもないです。それに、手伝ってもらうほど荷物もありませんし……」
『……私に来られては困ると?』
「ちっ、違います! そうじゃなくて」
『ならば、構わないだろう?』
こうなってしまっては、御堂が引き下がらないのは分かっている。
それに、御堂が自分の部屋に来てくれるのは純粋に嬉しい。
けれどもまだ少し気が咎めて、克哉はおずおずと尋ねた。
「でも、御堂さん……お疲れじゃないんですか?」
『疲れてるな』
「それなら」
『だからこそ、だ。……分からないのか?』
「……」
一瞬考えてしまったが、すぐにその意味が分かって、克哉は顔を赤くしてしまう。
疲れているからこそ、会いたい。
帰って休んでほしいと思う気持ちもあったけれど、そんな風に言われては拒めるはずもなかった。
「……早く、来てくださいね。オレ、待ってますから」
『ああ』
はにかみながら答えると、御堂はようやく満足したらしかった。
けれど克哉は不意に思い直して、慌てて訂正する。
「あっ、やっぱり早くなくていいです! 気をつけて、来てくださいね」
『ああ、分かった』
そのいじらしさにクスクスと笑いながら、御堂は電話を切った。
克哉の部屋のチャイムが鳴ったのは、それから三十分後のことだった。
「はい!」
箱にしまおうとしていたDVDを放り出して、克哉は弾かれたように玄関へと走る。
勢いよくドアを開けると、そこには大好きな人の姿があった。
「……お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
満面の笑みで出迎えたものの、御堂にそう返されて、克哉は急に恥ずかしくなる。
一緒に暮らすようになったら、こんな遣り取りにも慣れるんだろうか。
そんな克哉の胸中を察したのか、御堂はからかうように言った。
「……まるで、結婚でもした気分だな」
「みっ、御堂さん!」
「冗談だ。中に入れてくれないのか?」
「あっ、は、はい。どうぞ」
克哉に促されて、御堂がようやく部屋に上がる。
御堂は荷物を床に置くと、立ったまま興味深そうに克哉の部屋を眺め回した。
「すみません、散らかっていて。適当に座ってください。今、コーヒーでも淹れますから」
さっきの冗談がまるで冗談に聞こえなかった克哉は、まだ頬が熱いままだ。
その熱を誤魔化すように、狭いキッチンに向かおうとする克哉の腕を、御堂が捕らえる。
え、と短く声を上げたときには、克哉はもう御堂に抱き締められていた。
「御堂さ……」
そのまま吸い寄せられるように、唇を重ねあう。
御堂と付き合い始めてからこの方、まる二日間キスさえしなかったことなど初めてではないだろうか。
最初の二ヶ月こそ、御堂のマンションと自宅を行ったり来たりしていたものの、全く会わない日というのはほとんど無かった。
そしてここ一ヶ月は、完全に御堂のマンションに入り浸っていたのだから言うまでもない。
傍にいれば触れたくなるし、触れればくちづけたくなる。
セックスをしなかった日は流石にあっても、キスをしなかった日など数えるほどしか無いはずだ。
「んっ……ん………」
鼻に抜ける甘い声を漏らしながら、克哉は思う存分御堂の唇を味わう。
絡まる舌が、互いへの欲望をはっきりと告げていた。
しかし腰をぐいと強く引き寄せられて、克哉は思わず身を退く。
その反応に、御堂が訝しげにくちづけを解いた。
「……どうした?」
「あ、あの、この部屋、壁が薄いんです……だから……」
隣りの住人は半年ほど前に引っ越してきたばかりの男性で、恐らくは大学生だと思われる。
さっき物音が聞こえたから、彼は今部屋にいるはずだ。
小声で言って俯く克哉に、御堂はほんの僅か目を見開いた後、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど。だが、もう手遅れではないのか? 以前にもここで君を抱いたことはあったはずだが」
「それは……! その……」
「それに、どうせ引っ越すんだ。気にすることはない」
「御堂、さん……」
指先が、克哉の頬をするりと撫でる。
確かに御堂の言う通りではあった。
あの時はただ御堂が欲しくて欲しくて、隣人のことになど考えも及ばなかったのだ。
しかし今日はまだ日も高く、雑然とした部屋の状況のおかげか、それなりに理性が働いている。
それでも久し振りに嗅ぐ御堂のフレグランスの香りに、克哉がとうとう流されかけたとき、不意に外から男性の大きな話し声が聞こえてきた。
「……!」
思わず、二人の動きが止まる。
声の主達はアパートの廊下を談笑しながら通り過ぎ、やがて隣室のチャイムを鳴らした。
隣人は友人達を部屋に招き入れたらしく、壁の向こう側から会話や物音が漏れ聞こえてくる。
これにはさすがの御堂も興がそがれたのか、諦めたように短く溜息をついた。
「……仕方ないな」
「すみません……」
心底残念そうな御堂の様子に、克哉は苦笑する。
本当は克哉とて、今すぐに抱き合いたかったのだ。
しかし、やはり今は諦めたほうがいいだろう。
克哉は御堂から離れると、当初の目的を果たすためキッチンへと向かった。
「コーヒー、淹れますね」
「ああ」
今度は御堂も引き止めなかった。
克哉がキッチンに立っている間に、御堂はテーブルの傍に腰を下ろした。
それから開けっ放しのダンボールの中を覗き込むと、入っていたCDを一枚取り出してみる。
「……君はこういうのが好きなのか」
独り言のように問い掛けたとき、ちょうど克哉が二人分のコーヒーを手に戻ってきた。
「どれですか?」
克哉は御堂の手元を覗き込みながら、すぐ横に座る。
どうぞ、とテーブルに置かれたカップを、御堂はCDを手にしたまま口へと運んだ。
御堂が見ていたのは、あるイギリスのロックバンドのアルバムだった。
ダンボールに入っていたCDのジャンルはバラエティに富んでいて、ほとんど統一性が無い。
けれどそのバンドのCDだけは複数枚あることに、御堂は気がついた。
「このアーティストが好きなのか?」
「そうなんです。そのバンドだけは本当に好きで、来日したときはライブにも行ったんですよ」
「有名なのか?」
「多分」
「私は知らないな」
「そうでしょうね」
「そう思うか?」
「ええ。御堂さんのイメージじゃありませんから」
そう答えて、克哉は思わせぶりに笑う。
御堂はなんとなく面白くない顔をしながら、意外なことを言い出した。
「聞かせてくれ」
「えっ?」
克哉は耳を疑う。
普段、御堂はあまり音楽を聞くことはしない。
たまに部屋でクラシックを掛けることはあったが、しかしどう考えても、このバンドの音楽は御堂の好みから外れている。
戸惑っている克哉に、御堂は苛立たしげに言った。
「これを聞かせろと言ったんだ。駄目なのか?」
「え、いえ、構いませんけど……」
だからといって、拒否する理由もない。
克哉は御堂からCDを受け取ると、コンポにそれをセットする。
それから御堂の隣りに戻り、リモコンのプレイボタンを押した。
ややあって、スピーカーからディストーションの効いたギターの音と、重厚なリズムが流れだす。
克哉は横目で、御堂の様子を伺った。
隣りでコーヒーを飲んでいる御堂の横顔は、無表情ではあるが真剣そのものだ。
しばらく二人してその曲に聞き入った後、一曲目が終わろうとするところで克哉が尋ねた。
「……どうですか?」
「分からないな」
「分からない?」
「特に何も感じない」
「……」
克哉はつい噴き出してしまう。
御堂はそんな克哉に、不可解だとでも言いたげに眉根を寄せた。
「何故、笑う?」
「いえ、なんとなく」
あきらかに御堂の趣味ではないのだろう。
それでも自分の好みに興味を持ってくれたことが、克哉には嬉しかった。
しかし馬鹿にされたように感じた御堂は、フンと鼻を鳴らしながらダンボールを押し退ける。
「君は、何が好きなんだ」
自分達の間に共通点が見出せないことが、御堂には少しだけ気に入らない。
放り投げるように問うと、克哉は酷くあっさりと答えた。
「御堂さんです」
「……君は馬鹿か」
不意打ちを喰らって、御堂は内心たじろぐ。
まったく普段は恥らってばかりいるくせに、突然大胆になるこの恋人のことが未だに御堂は理解出来なかった。
「そういうことを聞いているんじゃない。君の趣味はなんだ」
「趣味ですか? 散歩とか」
「散歩……」
御堂はまるでその言葉を生まれて始めて聞いたかのような顔で、繰り返す。
「散歩、しませんか?」
「しないな」
「御堂さんは車ですもんね。じゃあ、ドライブとか好きなんですか?」
「いや。運転は目的地へ行く為の手段に過ぎないからな。それに車で外出すると、アルコールが飲めない」
「ああ、そうか。そうですよね」
曲は既に二曲目になっていたが、御堂が止めろと言わないのでそのままにする。
こうして話をしていると、まだお互いに知らないことがたくさんあるのだと分かった。
御堂も同じように思っていたのだろう、克哉の部屋に視線を泳がせながら、ぽつりと呟く。
「……まだまだ、私の知らない君がいるようだな」
克哉は微笑んで、御堂の肩にそっと凭れた。
「でも、あなたしか知らないオレもいます」
「そうだな」
御堂は克哉の肩を抱いた。
そのまま克哉は甘えるように、御堂の肩に頬を摺り寄せる。
「オレのこと……これから、もっと知ってくれますか?」
「もちろんだ」
「幻滅しません?」
「するわけないだろう」
御堂はカップをテーブルに置くと、克哉の顔を覗き込んだ。
「君ももっと、私のことを知りたいか?」
「はい」
「幻滅するかもしれないぞ」
「まさか」
二人はふざけるように笑い合いながら、啄ばむだけのキスを繰り返す。
それでも言葉は本心からのもので、どんなことがあってもこの気持ちだけは変わらないという自信があった。
一緒に暮らすようになれば、今までは見えていなかった色々な面を知ることになるだろう。
喧嘩もするだろうし、譲歩しなければならないこともあるに違いない。
愛情だけで全てを乗り越えられるとは思わないけれど、最後はきっとこの気持ちが答えを導き出してくれるはず。
だから克哉は、御堂を見つめながら言った。
「……これから、よろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそ。……まるで、結婚でもする気分だな」
「御堂さん」
「冗談だと思うか?」
「……いいえ」
克哉は笑顔で答える。
たとえ、神様に祝福されなくても構わない。
誓いの言葉は、必要ない。
病める時も、健やかなる時も―――そしてまだ見ぬ明日のあなたも、もう愛しているから。
- end -
2008.03.26
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