Classical

Kiss me, please

ピッピッという短い電子音がして、克哉は腋に挟んでいた体温計を見た。
表示されている数字は38.2。
測る前の予想とだいたい合っていた。
「はぁ……」
吐き出す溜息も熱い気がして、もう一度ベッドに倒れ込む。
シーツの少し冷えた場所に頬を押しつけると、それだけでも心地良かった。
発熱以外に咳やくしゃみ、鼻水などの症状はとくに無いが、喉が少し痛む。
単純に風邪をひいたのか、それとも疲れが溜まっていたのかは分からないが、 なんにせよ身体が丈夫なことだけが取柄だと思っていたから、この状況にはかなりがっかりしていた。
「参ったなぁ……」
僅かに掠れた声で呟く。
どれだけ頑丈に出来ていても、人間だから体調を崩すことぐらいあるだろう。
しかし、何故よりによって今日なのか。
それだけがひたすらに恨めしい。
時計を見れば、約束の時間まではあと二時間ほどあった。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、着替えをして……出掛ける準備をするには充分過ぎるほどだ。
けれど今の克哉は到底動く気にはなれず、パジャマ姿のままだるい身体を横たえていることしか出来ない。
「どうしよう……」
否が応にも枕元に置いてある携帯電話に目がいく。
どうしようもこうしようもない。
今日の約束は駄目になってしまったと連絡を入れるしか選択肢は無いのだ。
分かっているのにどうしても手が動かないのは、大好きな人と共に過ごせる時間を諦めきれないからだった。
(御堂さん……)
目を閉じれば、まだ恋人になったばかりの愛しい人の顔が思い浮かぶ。
最近は金曜日の夜ともなれば必ず御堂と待ち合わせをして外で夕食を取り、そのまま御堂のマンションに泊まるというのが常になっていた。
しかし今週はたまたま金曜日の夜に御堂には接待が、克哉にはキクチでの飲み会の予定が入ってしまった為にそれが出来なかったのだ。
御堂には何時になっても構わないから飲み会が終わり次第マンションに来ればいいと言われたのだが、なんとなく気が引けて断ってしまっていた。
そのかわり土曜日……つまり今日の午前11時、克哉のアパートまで御堂が車で迎えに来てくれることになっていた。
今はまだ九時を少し過ぎたところだが、用意周到な彼のことだから準備は早めに済ませているだろう。
少なくとも御堂が家を出る前には連絡をしなければならない。
分かってはいる。
分かってはいるのだけど。
克哉は携帯電話を握り締めながら、まだあれこれと想いを巡らせていた。
今週は会えないと伝えたら、御堂はがっかりしてくれるだろうか?
いや、前夜の飲み会には出席しておきながらの、この体たらくだから、むしろ怒らせてしまうだけかもしれない。
昨夜はなんの前兆も無かったし、それでも今日に備えて早めに帰宅したつもりだったけれど、そんなことは言い訳にもならないだろう。
それとも久し振りに自由な休日を過ごせると、内心ほっとされてしまうだろうか。
ここのところ御堂の余暇時間は全て克哉の為に使われているようだったから、それならこの事態はかえって良かったのだとも考えられる。
とにかく、きっとそれほど残念には思われないだろう。
そうだ、きっとそうだ。
そんな風に自分に言い聞かせてみても、やはり踏ん切りはつかない。
御堂がどう思おうがやはり自分は御堂に会いたくてたまらなくて、もしかしたらあと少し時間が経てば出掛けられる程度には具合が良くなるかもしれないじゃないかなどと起きそうもない奇跡に期待してしまう始末だ。
(そんなわけないか……)
克哉は枕に顔を押しつける。
いい加減に諦めよう。
それよりも会えない理由をどう説明すればいいのか考えなければ。
正直に具合が悪いと言えば、きっと御堂はここに来てしまう。
それだけは避けたかった。
もしも風邪ならば御堂にうつしたくないし、余計な心配を掛けたくもない。
もちろんこんなときこそ御堂が傍にいてくれたら嬉しいと思う気持ちもあるけれど、病人につきあわせて彼の貴重な休日を潰すことになるのは心苦しかった。
会いたいのに、会いたくない。
相反する想いを持て余しながら、克哉は必死で考える。
御堂がすんなりと納得してくれるような、不自然でない言い訳を。
「はぁ……」
しかし熱で朦朧とした頭では、なかなか妙案が浮かばない。
目を閉じて考え込むうちに、克哉の意識は次第に遠ざかっていった。

次に目が覚めたのは、手の中から携帯電話が着信を告げる音が聞こえてきたからだった。
どうやら電話を握り締めたまま、もう一度眠ってしまったらしい。
克哉は半分しか瞼が開いていないまま、ほとんど無意識に電話に出ていた。
「はい……」
『克哉か?』
「……!」
耳元で名を呼ばれて、克哉は飛び起きる。
けれどその拍子に強い眩暈を覚え、咄嗟に額を押さえた。
「っ……」
『克哉? どうした?』
御堂の心配そうな声になんとか顔を上げて部屋の時計を見ると、時刻は既に約束の十一時を十分ほど過ぎている。
それに気付いた途端、熱で火照った身体がさあっと冷えていくようだった。
克哉はふらつく足取りでベッドを降り、閉めたままだったカーテンを細く開けて窓の外を見る。
アパートの前の道路には、見慣れた御堂の車が止まっていた。
「御堂さん、すみません! オレ……」
『いや。それよりも大丈夫か? もしかして、寝ていたのか?』
「い、いえ! あ、じゃなくて、あの……」
どうしよう。
どうすればいい。
結局うまい理由を考えつくことも出来ず、それどころか連絡自体が間に合わなかったのだ。
いっそ具合が悪いのを隠して出掛けてしまおうかとも考えたが、まったく準備が出来ていない。
克哉はただオロオロしながら、ひたすら御堂に謝り続けることしか出来なかった。
「ごめんなさい、本当にすみません。実は、ちょっと今日は会えなくなってしまって……」
『……どういうことだ?』
「すみません。その、急用が入ってしまったんです……。連絡が遅くなって本当にごめんなさい……ごめんなさい……」
『……』
部屋の中からでは見えるはずもないのに、克哉は何度も頭を下げて詫びる。
いつしか御堂は無言になってしまっていた。
きっと怒っているのだろう。
わざわざ迎えに来させておきながら、いきなり無理になったと言われれば怒るのも当然だ。
ああ、どうしてこううまくいかないのか。
自分で自分がとことん嫌になって泣きたくなってくる。
やがて御堂がようやく口を開いたと思うと、低い声で尋ねてきた。
『……何故、嘘を吐く?』
「え……?」
『急用が入ったなどというのは嘘なのだろう? 本当は体調でも悪いんじゃないのか?』
「……!」
どうして分かったのだろう。
図星を指されて、克哉はつい返す言葉を失くしてしまう。
しかもそれが肯定を意味していることまで、聡い御堂にはすぐに知られてしまった。
『……やはりな』
「あ、あの……」
『すぐに戻る。それまではなんとか眠らずに耐えていてくれ』
「えっ……? あの、御堂さん?」
それきり電話は切られ、窓の外を車が走り去る音がする。
どうやら御堂は何処かに行ったようだった。
(すぐに戻るって言ってたけど……)
とりあえずは御堂に言われたとおり、もう一度眠ってしまわないようベッドに腰掛ける。
玄関のチャイムが鳴ったのは、それから二十分ほど後のことだった。

「御堂、さん……」
熱でぼうっとしたままドアを開けてみれば、そこには御堂が立っていた。
駅前のスーパーで買い物をしてきたらしく、御堂には不似合いな安っぽいレジ袋を手に下げている。
「入らせてもらうぞ。君は横になっていたまえ」
「あ……」
呆然とする克哉をよそに、御堂は部屋に上がり込んでくる。
御堂がここに来るのは初めてではなかったし、もともと普段から部屋はきちんと片付けているタイプだったから、急な訪問だからといって慌てるようなことはない。
それでもパジャマ姿のままの自分とか、さっきまで寝ていたせいで乱れているベッドとか、狭い部屋で恋人と二人きりになることとか、 心構えをしていなかったぶんだけ今更ながらに恥ずかしくなってくる。
ドキドキと高鳴りだす鼓動を抱えて立ち尽くしていると、それを諌めるように御堂から鋭い声が飛んできた。
「横になっていろと言ったはずだが?」
「あ、は、はいっ」
不機嫌そうな言い方に御堂がやはり怒っているのだと分かって、克哉は慌ててベッドに潜り込む。
御堂はそんな克哉を一瞥だけすると、買ってきたものを次々とテーブルに並べだした。
「食事は」
「いえ……」
「薬は」
「まだです」
「熱は」
「38.2度でした」
「他に症状は」
「ありません」
「分かった」
淡々と質問してくる御堂は、まるで医者のようだ。
さすが御堂は何事においても手際が良いのだなと感心したところで、しかし袋の中身を全て並べ終えた御堂は克哉に向かって堂々と宣言した。
「最初に言っておくが、私は病人の看病などしたことがない。それから君も知ってのとおり、家事もしない。 だから過度の期待はするな。ただ、一人きりでいるよりはましだという程度だからな」
「は、はい……」
その迫力に気圧されながら、克哉はテーブルの上を見た。
レトルトのお粥やフルーツの缶詰、スポーツドリンクに薬が数種類。
他人の看病などしたことがないと言うわりには随分といろいろ買い込んできてくれたようだ。
そんな克哉の視線に気付いた御堂は気まずそうに吐き捨てる。
「……自分の基準でしか分からないから店員に尋ねたが、これだけあれば充分だろうと言われた。もし足りない物があれば言ってくれ。 本来なら君に具体的な症状を聞いてから買い物に行くべきだったのだが……どうも慌てていたようだ」
「御堂さん……」
御堂が「慌てた」と聞いて、克哉は目を丸くする。
御堂はいつも冷静沈着で隙が無く、焦りや動揺は他人に決して見せない人だ。
そんな御堂が克哉の具合が悪いと聞いて、慌てて買い物に行ってくれた。
しかも、わざわざ店の人に必要なものを確認してまで。
そこまでしてくれたことを本当は申し訳なく思わなければいけないはずなのに、つい嬉しさのほうが勝ってしまう。
さっきまで御堂の休日を奪いたくないとか、風邪をうつしたくないとかいう理由でここに来てほしくないとまで思っていたのに、今は御堂がこうして傍にいてくれることがたまらなく嬉しかった。
「……ありがとうございます、御堂さん」
御堂がそれには答えず、フンと鼻を鳴らしただけだったのは照れ臭かったからに違いない。
やがて御堂は熱を下げるために額に貼るシートというものを箱から取り出すと、ベッドに入っている克哉の傍に来た。
「これを貼っておくといいそうだ」
「あ……」
御堂の指先に前髪をふわりとかき上げられて、克哉の心臓が大きく鳴る。
それからそうっと貼り付けられたシートの冷たい感触に思わず身を縮めた。
「冷たいか?」
「はい……あ、でも、気持ちいいです……」
「そうか」
ようやく御堂が笑ってくれて、克哉の心臓はまた高鳴る。
これではかえって熱が上がりそうだ。
克哉は恥ずかしくなって布団で顔を半分隠した。
「あとは勝手に使わせてもらうぞ」
「あ、は、はい」
それから御堂は買ってきたものの幾つかを手に、御堂の家の半分も無いだろう狭いキッチンに向かう。
そして棚から食器を出してレトルトのお粥を開けると、克哉に食事を取らせるための準備を始めた。
克哉はベッドの中から、そんな御堂の後姿を不思議な気持ちで眺めていた。
普段、会うのは御堂のマンションばかりで、この克哉の部屋で二人で過ごしたことはほとんど無い。
ましてやあの狭いキッチンに御堂が立つなど考えたこともなかった。
だから今目にしている光景がたまらなく不思議で、くすぐったくなるほどに嬉しい。
しばらくすると御堂が食事と薬を飲むための水をテーブルまで運んでくれたので、克哉も起き上がる。
温めたお粥の入ったお椀とスプーンを手渡され、少しでいいから食べろと言われた克哉はそれをゆっくりと口に運んだ。
御堂がじっと見つめているので少し緊張したけれど、それでもやはり嬉しくて泣きそうになる。
病気になると気持ちも弱くなるというが、それはどうやら本当らしい。
克哉は少しだけ鼻をすすって、それから微笑みながら言った。
「……美味しいです」
「レトルトを温めただけだ」
「それでも、美味しいです。本当にありがとうございます、御堂さん」
「……」
そのあとも克哉が食事をするところを、御堂は黙って見守ってくれていた。
やがてお椀が空になるとそれを受け取り、キッチンへと片付ける。
それから御堂は克哉のもとに戻ってきたが、その表情は曇っていた。
「……何故、嘘をつこうとした?」
「え?」
「具合が悪いことを隠そうとしただろう」
「……」
確かにそうだ。
克哉は俯く。
「すみません……心配掛けたくなくて……」
その言葉に御堂は大きな溜息をついた。
「私がいるとかえって休まらないか」
「ち、違います! そうじゃなくて……」
御堂の声がひどく悲しそうに聞こえて、克哉は必死に否定する。
「オレが具合が悪いと知ったら、きっと御堂さん、来てくれるに違いないと思ったから……。 でも、そうしたら御堂さんに風邪をうつしてしまうかもしれないし、せっかくのお休みが台無しになってしまうし……それに……」
言い訳をすればするほどに、やはり自分が間違っていたのだと痛感する。
もしも逆の立場だったら、そんな理由で嘘をつかれるほうがずっと悲しくて寂しいことだとすぐに気付けたはずなのに。
御堂の具合が悪くなったら、絶対に傍で看病したい。
うつされたって構わない。
それで休日が台無しになったなんて思うはずがない。
それなのに。
「……ごめんなさい、御堂さん。オレ……」
しょんぼりと項垂れる克哉の頬に、御堂の手が伸びる。
「……私は君に真っ先に頼られる人間でありたい。君が一番に甘えられる場所にいたい。そう思っている」
「御堂さん……」
御堂の指が克哉の頬を優しく撫でる。
そんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかった。
もしかすると心の何処かではまだ御堂に対して遠慮があったのかもしれない。
けれど、きっとそれは御堂を喜ばせないということだけは分かる。
何故なら、その気持ちは自分も同じだから。
だから今、口にするべきは謝罪の言葉ではないはずだ。
克哉は顔を上げて、御堂に微笑んでみせた。
「ありがとうございます……。オレも同じです。今日だって本当は、あなたに甘えたかった……」
「克哉」
「甘えても……いい、ですか?」
「……っ」
尋ねるなり、御堂に抱き締められた。
その腕の力はかなり強くて、克哉は少しばかり息苦しさに喘ぐ。
「あ、あの、御堂さん?」
「……あまり可愛いことを言わないでくれ。我慢出来なくなる」
「えっ? あの、えっと、オレ……」
御堂にはたびたび可愛いと言われるが、何処でそのスイッチが入るのか克哉にはさっぱり見当がつかない。
けれどこうして抱き締められるのはやはり幸せだったから、深くは考えないことにした。
やがて御堂は大きく息を吐きながら克哉から離れた。
温もりが名残惜しかったけれど、少し顔を赤くしたままの御堂に水の入ったコップと薬を押しつけられてしまう。
「とにかく、これを飲んで少し眠れ。甘えるのは、その後だ」
「はい、ありがとうございます。でも、あの……御堂さんは?」
「ここにいるつもりだが」
「オレが寝ている間、退屈ですよね?」
「寝ている君に悪戯でもして時間を潰すつもりだから安心してくれ」
「ええっ!」
「冗談だ」
御堂はクスクスと笑う。
「そうだな。本を借りてもいいか?」
「はい、もちろんです。ミステリーばかりですけど、大丈夫ですか?」
「ああ。君がどんな本を読んでいるのか興味がある」
それから克哉は薬を飲むと、再びベッドに横になった。
御堂が克哉の髪を撫でながら、優しい目で見下ろしてくる。
その手の感触と眼差しに、先に我慢出来なくなったのは克哉のほうだった。
「あの、御堂さん……」
「ん?」
「目が覚めてからじゃなくて……今、甘えたらダメですか?」
「内容によるな。言うだけ言ってみろ」
「う……」
きっと御堂は克哉が何を欲しがっているのか既に分かっているはず。
それなのに言葉で言わせようとする御堂はやはり意地悪だ。
いつもの克哉なら自分から強請るなんて恥ずかしくて絶対に出来なかったけれど、今日は熱のせいだろうか素直に求められそうだった。
「……キス……してくれませんか……?」
視界を潤ませながら小声でお願いすると、御堂がふっと笑って顔を近づけてくる。
触れるだけのキスがひどく熱く感じたのは熱のせいじゃなかった。
具合が良くなったなら、一番に御堂とキスがしたい。
そのときは本気のキスを。
傍に御堂がいてくれるのを感じながら、克哉は安心して目を閉じた。

- end -
2014.04.23



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