Classical

くちびるの記憶

目の前の信号が、黄色から赤に変わる。
御堂はゆっくりとブレーキペダルを踏み、交差点の停止線で車を止めた。
そしてハンドルを握ったまま、大きな溜め息を吐く。
「疲れたな……」
普段、仕事の愚痴をこぼすことなど決してなかった御堂が呟く。
この十日ほどの間、食事も睡眠もまともに取ってはいなかった。
インパネに表示されているデジタル時計を見ると、午後十時を示そうとしている。
こんなに早く帰れるのは久し振りだった。

この数日、プロトファイバーの生産ラインを確保するために、あらゆる努力をしてきた。
全工場のライン稼働率を確認し、少しでも空きがあれば工場に直接出向く。
あの開発部部長がわざわざ足を運んできたことに、工場責任者達は一様に驚き、そして協力を約束してくれた。
そして今日、時間は掛かったものの、ようやくキクチが取ってきた受注数を賄うだけの目処がついたのだ。
工場側に頭を下げたことで、大隈の機嫌も少しは良くなったらしい。
御堂は信号が青に変わるのと同時に、自宅であるマンションに向けて車を走らせた。

地下の駐車場に車を入れ、エレベーターに乗り込む。
部屋に戻ると、そのまま足早にリビングへと進み、ソファに身体を投げ出した。
灯りをつける気力もなく、暗い部屋をただぼんやりと眺める。
(佐伯……)
放心した胸の内に、真っ先に浮かんできたのは、あの佐伯克哉の姿だった。
先週の月曜日にホテルで別れてから、克哉とは一度も会っていない。
時間が取れなかったことだけが、その理由ではなかった。

毎日のように、克哉からは連絡があった。
幾度も電話が来て、何通ものメールが送られてきた。
時にMGNまでやってきては、御堂との面会を求めたらしい。
しかし御堂からは、一度も連絡を返すようなことはしなかった。
仕事に関わる重要な件にのみ、極力事務的な文章でメールを返信する。
お互いの間に起きたことなど、まるで全て忘れてしまったかのように、 自分達を繋ぐものなど、仕事以外に何も無いと言わんばかりに、 御堂は克哉と必要以上に接触することを避けていた。

御堂はきつく目を閉じ、最後に克哉と過ごした夜のことを思い返す。
あの夜、眠る自分の唇に、克哉がくちづけを落としてきたような気がした。
あれは現実だったのだろうか。
いや、まさか。そんなこと、あるはずがない。
克哉は自分を憎み、恨み、嫌っているはずだ。
仕事上での立場を利用して、彼にこれ以上無いほどの恥辱と絶望を与えてやったのだ。
そんな彼が、自らくちづけてくることなどあるわけがない。
だとしたら、あれは夢だったのか。
夢には、無意識の願望が現れるという。
本当の自分は、あんなことを望んでいるのだろうか。
克哉が自分に好意を持っているなど―――。
「…クッ……」
御堂は思わず自嘲の笑みを漏らした。
馬鹿らしい。有り得ないにも程がある。
彼を弄び、服従させ、支配してやろうと思っていたはずなのに、 いつの間にか自分自身こそがこんなにも彼に囚われていることに気づいた。
ふとした瞬間に、あの気弱そうな顔が浮かぶ。
涙を流して喘ぐ声を思い出す。
公私混同などするはずがないと思っていたのに、オフィスで彼を辱めた挙句、 就業時間内に自宅へ連れ込んでまで、彼を犯した。
こんなのは、自分ではない。
このままでは、どんどん彼に狂わされていってしまう。
それが嫌で、御堂は克哉を避けた。
売り上げ目標を達成して、プロトファイバーの仕事に一段落がつけば、克哉との契約も終わる。
彼は解放され、自分もまた今までの生活へと戻ればいい。
掻き乱されるのは、もう御免だ。
そう、思っていた。
けれど。

御堂は立ち上がり、窓へと近づいた。
カーテンを開けると、ガラスの向こうに夜景が広がる。
そこには今にも雨粒を落としそうな雲が、重苦しく圧し掛かっていた。
(私は、いったい……)
御堂はもう一度、自分自身に問い掛ける。
プロトファイバー増産の為に奔走している間も、御堂は幾度となく克哉のことを思い出していた。
どうしてもあの商品を成功させたいという気持ちの他に、 彼に自分が屈する姿を見せたくないという思いが、まったくなかったと言えば嘘になる。
何故、自分はここまで克哉に執着するのか。
彼に対するこの苛立ちの正体は、いったいなんなのか。
自分は彼に、どうしたいのか。
答えの出ない疑問に、御堂が目を伏せた、そのときだった。
(あれは―――)
マンション下の植え込みの傍に、人の姿が見えた。
スーツを来た、若い男だ。
それが目に入った瞬間、冷たい手で心臓を握り締められたような衝撃が御堂に走った。
「さ…えき……」
思わず、その名前を口に出す。遠目でも、見間違うはずがない。
そこにいたのは、確かに克哉だった。
「そんな…馬鹿な……!」
御堂は咄嗟にカーテンを閉めた。
鼓動が早鐘を打っている。
今のはなんだ? とうとう幻でも見たのか?
窓に背を向けたまま、なんとか頭の中を整理しようとする。
そのうち、窓を叩く微かな音が聞こえ始めてきた。
「……!」
慌てて、もう一度カーテンを細く開ける。
外は雨が降り出していた。
恐る恐る視線を下に向けると、やはり同じ場所に彼の姿はある。
幻ではなかった。
「何故……」
雨は瞬く間に勢いを増し、叩きつけるようなどしゃぶりになっていく。
けれど克哉は、決してその場を動こうとはしない。
まるで石にでもなってしまったかのように、いつまでもそこに留まり続けている。
「あの……馬鹿が…ッ……!」
気がついたときには、部屋を飛び出していた。
エレベーターが一階につくまでの時間が、酷く長いものに感じられる。
弾かれるようにして表へ出ると、激しい雨が御堂を打ちつけた。
「……」
克哉は植え込みを囲う石段に座り込み、両手で顔を押さえつけながら俯いていた。
ぐっしょりと濡れたスーツは色を変え、張り付いた髪の先からは止め処なく雫が落ちる。
御堂はゆっくりと克哉に近づいていった。
「―――?!」
御堂がその腕を引くと、克哉がようやく顔を上げた。
「み…ど、う……さん……」
泣いていたのか、目の縁が赤い。
掴んだ克哉の腕が微かに震えているのが分かった。
「……冷たいな」
そう言って更に強く腕を引くと、克哉がよろけながら立ち上がった。
そうして力無く倒れこんできた身体を、腕の中に抱きとめる。
そのままきつく抱き締めてしまいたくなる衝動を、御堂は必死で堪えた。
「来い」
御堂は克哉を連れて、マンションへと戻る。
今は一刻も早く、彼の身体を温めてやりたかった。



翌朝、御堂が目覚めると、傍らには穏やかに眠る克哉の姿があった。
今でもどこか信じられないような気持ちで、御堂は克哉を見つめる。
ゆうべ受けた克哉からの思わぬ告白は、御堂の中の全てを変えてしまった。
彼の悲痛なまでの想いが、彼に対して抱いていた苛立ちや執着の正体を御堂に教え、それを受け入れさせた。
服従させ、支配したかったのは、すなわちそれほどまでに御堂が克哉を求めていたからなのだと。
どんなに彼を啼かせても得られなかった充足感が、今はあった。
「分からない男だ……」
御堂は克哉の細い髪に、指を通しながら呟く。
彼がどうして自分のような人間を好きになったのか、やはり理解は出来ない。
初めてオフィスにやってきたときの強気な態度と、その後の卑屈なまでに自信の無い、 それでいて頑固な克哉とが、同一人物だとは到底思えなかった。
眼鏡がどうのという話も聞かされたが、何故自分などに相談するのかということも含め、 おかしな奴だと思ったものだ。
「……」
けれど今はただ、息苦しいまでの愛しさを感じる。
御堂は克哉の唇に、そっとくちづけた。
ゆうべ幾度も交わしたような激しいものではなく、ただ触れるだけのくちづけ。
(ああ、やはり―――)
あれは夢ではなかったのだ。
唇に残る記憶が、そう伝えてくれていた。
「ん……」
克哉が小さく身じろぎする。そして伏せていた目蓋が、ゆっくりと開く。
「あ……御堂、さん……」
「おはよう。克哉」
御堂が囁くと、克哉は蕩けそうな微笑みを浮かべて答えた。
「おはようございます……御堂さん」
御堂は思った。
そうだ。
私はきっと―――ずっと、この笑顔が見たかったのだ。

- end -
2007.09.26



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