Classical



「お呼びでしょうか、御堂部長」
そう言った克哉の声が、どことなく上擦っているように聞こえた。
やや俯き加減にこちらを伺う瞳には、緊張の中にもある種の期待が見え隠れしている。
以前は執務室に呼び出すと、ただおどおどとした態度を取っていた彼だったが、今では控えめではあるものの、嬉しそうにはにかみさえするようになった。
仕事とプライベートは、明確に区別しなければならない。
当然のことではあるが、それを自分が言う資格はないと分かっている。
現に今呼び出した理由も、ほぼプライベートなことが原因なのだから、ここまでくると開き直りと取られても仕方が無いだろう。
デスクを挟んだ向こう側に立つ彼に、辛うじて手を伸ばすことをしなかったのも、恐らくは単なる見栄だ。
そんな自分に半ば呆れつつ、御堂は克哉からすいと視線を逸らした。
「これを渡しておく」
努めてビジネスライクに言って、御堂は一枚の書面を克哉に差し出した。
「これは……?」
「来週の、私のスケジュールだ」
そこには来週の月曜日から金曜日まで、始業から終業までの予定が細かく記されている。
年度末が近いこともあって、仕事はいつも以上に詰まっていた。
克哉はしばらくじっとそれを見ていたが、どうやら何故自分にこれを渡されたのか理解出来ていないようだった。
克哉がいずれMGNに来ることは既に決定しており、彼自身もその件については了承している。
所属はまだキクチのままだが、今日のようにこちらで勤務する日もあった。
異動後も含め、御堂の下で働くことになるからには、上司のスケジュールについて把握しておく必要がある。
だからと言って、今の時点でこれほどまでに詳細な予定を知らせてくる理由が分からない。
克哉の見せている戸惑いは、そんなところだろう。
もちろん御堂も、そんなことは百も承知している。
だからこそ、克哉の察しの悪さに御堂は苛立った。
「余計な世話だったか? ……克哉」
「……!」
わざと名前で呼ぶと、そこでようやく合点がいったのか、克哉はぱっと頬を染める。
意図が伝わったことで、御堂は僅かだが気を良くした。
しかしそんなことはおくびにも出さず、あくまでも目の前のパソコンの画面に視線を落としたまま、言葉を続ける。
「来週からは、かなり忙しくなる。ちなみに今夜も、遅くなる予定だ」
「はい……」
表に刻まれた終業予定時刻は、ほとんどが十時を過ぎていた。
それでも、会わないという選択肢は御堂の中には無い。
「鍵は持っているから、問題は無いな?」
「は、はい」
「いつでも、来たいときに来い。話は以上だ。仕事に戻れ」
「分かりました……」
有無を言わせぬよう、強引に話を終わらせて、克哉を追い出す。
一人になった御堂は顔を上げると、克哉が出て行った後のドアを見つめながら、短く溜息をついた。

我ながら、どうかしているとは思う。
散々貶め、辱めてきた佐伯克哉という男に対する苛立ちが、ただの支配欲ではなく恋愛感情であると自覚したときは、 自分でも信じられないほどに驚き、戸惑った。
しかし一度知ってしまった後は、もう己をセーブすることなど出来なかった。
毎日でも会いたい。
会えば、抱きたくなる。
帰したくなくなる。
いっそあのマンションで一緒に暮らせばいいとさえ思っているが、それはまだ言い出せてはいない。
その代わり、というわけではないのだが、合鍵は既に渡してあった。
それも、互いの気持ちを確認しあった三日後にだ。
今まで恋人としてつきあった相手に、合鍵を渡すまでしたことは一度も無い。
中には欲しいことを匂わせてくる者もいたが、ただ煩わしいとしか感じなかった。
そんなことをすれば、あっという間に我が物顔でこちらの領域を犯し、束縛してくるのは目に見えている。
なにより自分の知らぬうちに、他人に勝手に部屋に上がり込まれるなど、考えただけでもぞっとした。
それが―――この変わりようは、どうだ。
深く考えている余裕も無く、ただ渡しておかなければならないと思った。
彼は自分のものになったのだから、常に傍にいるべきだと思った。
(それなのに、あいつは……)
御堂は再び苛立ちに襲われて、小さく舌打ちする。
克哉がその合鍵を使ったことは、まだ一度として無かったからだ。
克哉と会う約束をしていたにも関わらず、帰りが遅くなりそうなときは、先に部屋で待っているよう連絡している。
しかし何故か彼はいつもマンションのエントランスや、駐車場や、果ては会社の近くで待っていたりするのだ。
そのたびに叱り、理由を問い詰めるのだが、どうも曖昧に誤魔化されてしまう。
もしかしたら、合鍵を渡すのが早すぎたのだろうかと思ったこともあった。
彼はまだ、そこまでの間柄になることを求めていなかったのかもしれないと。
そんなはずはないと思いたい。
むしろ克哉の性格から考えれば、単純に遠慮しているという可能性のほうが高いだろう。
けれど、それはそれで気に入らなかった。
互いの間に壁を作られているようで、不愉快なことこの上ない。
恋人に合鍵を渡すということがどういうことなのか、克哉はまったく理解していないように思えた。
だから、あのスケジュール表を渡した。
今日は金曜日だから、彼は必ずマンションに来るはずだ。
これだけ帰りの遅い日が続くとなれば、いい加減彼も諦めて、あの鍵を使うしかなくなるだろう。
しかしそれすらも希望的観測に過ぎないということを、御堂はなんとしても認めたくなかった。

車を走らせ、自宅へと急ぐ。
克哉から会社を出るというメールがあったのは、八時半頃だった。
あれから、もう二時間以上が経っている。
やはり部屋で待っているよう伝えはしたものの、克哉が今どうしているかは分からない。
昼間、充分にプレッシャーを与えたつもりだったが、彼の言動は時々こちらの予想を遙かに超えてくるから、油断は出来なかった。
御堂は駐車場に車を止めると、心なしか足早にマンションのエントランスへと向かった。
「……!」
しかし、その足がぴたりと止まる。
エントランス奥にある、ウェイティングスペースのソファに克哉が座っていたからだ。
克哉は御堂の姿を見つけると、嬉しそうな笑みを浮かべてソファから立ち上がる。
そうして微笑んだまま、小走りにこちらにやってきた。
「御堂さん、お帰りなさい。お疲れ様でした」
喜びに弾む声で、克哉が言う。
御堂は、笑えなかった。
無言で克哉の腕を掴むと、引きずるようにしてエレベーターへと向かう。
「み、御堂さん? どうしたんですか?」
「……」
御堂は答えない。
エレベーターの中でも、廊下でも、うろたえている克哉と視線を合わせることさえしなかった。
部屋の前に着くと、自分のカードキーを使い、ドアを開ける。
大股で部屋の中まで進み、リビングのソファにカバンを放り出したところで、御堂はようやく克哉と真正面から向き合った。
「ずっと、あそこにいたのか」
「え?」
「私は、部屋で待つよう言ったはずだが」
「あ……」
克哉は気まずそうに俯く。
まただ。
何か理由があるのなら遠慮せず言えばいいのに、彼はそうしない。
それとも、言えないような理由があるのか。
そこで御堂の苛立ちは、頂点に達した。
「……返してもらおう」
低い声で言って、手のひらを差し出す。
克哉は怯えたように目を見開いて、顔を上げた。
「この部屋の鍵だ。君に使う気がないのなら、渡しておく理由が無い。不用心だから、返してくれ」
御堂は克哉の鼻先に、更に手のひらを突き出す。
克哉はしばらくそれを食い入るように見つめていたが、やがておずおずと胸のポケットに手を伸ばした。
小さく震える指先が、硬いカードキーを取り出す。
御堂はただ黙って、克哉の答えを待った。
たかが合鍵ごときで、何を熱くなっているのだろう。
分かってはいるものの、もう後には退けない。
克哉は鍵と御堂の顔を交互に見つめ、そして言った。
「……嫌です」
はっきりと。
固い意志を持った瞳と声に、御堂が息を飲む。
「返したく……ありません」
克哉は再び俯き、胸元でカードキーをぎゅっと握り締めた。
それだけで御堂の中に渦巻いていた苛立ちは息を潜め、代わりに安堵のようなものが広がっていく。
自分から要求したこととはいえ、もしも本当に返されていたら、彼に何をしていたか分からない。
御堂は克哉に気づかれぬよう細く息を吐きながら、突き出していた手のひらをゆっくりと下ろした。
「……だったら、何故なんだ。何故、それを使おうとしない。何か理由があるのか?」
御堂がやや力を失くした声で尋ねる。
それは責めるというよりも、もはや哀願に近かった。
どんな理由であろうと構わないから、教えてほしい。
これ以上、合鍵のことで苛々するのはうんざりだった。
そんな御堂の気持ちが通じたのか、克哉はようやく恥ずかしそうに話し出す。
「本当は……何度か使っているんです」
思いもかけない答えに、御堂は目を丸くした。
「……そうなのか?」
「はい……」
「だったら、尚更」
「すみません……!」
疑問をぶつけようとした御堂の言葉を、克哉は聞かずとも分かるとばかりに遮る。
「何度か、この鍵を使って部屋に入りました。あなたに言われた通り、ここで待っていようとしたんです。 あなたがいないのに自分がここにいることが、なんだか不思議で、でもすごく嬉しかった……。 オレがいないとき、あなたはここでどんな風に過ごしているんだろうって考えたりして……」
「……」
「でも考えれば考えるほど、ドキドキして、そわそわして、落ち着かなくなって……居ても立ってもいられなくなって……。 一分でも、一秒でも早く、あなたに会いたくて、どうしようもなくなって……それで……」
克哉の顔が、みるみる赤く染まっていく。
しかし自分もまた似たような状態に陥っていることに、御堂は気づいていなかった。
「……気がついたら、MGNまで行ってしまっていたときには、さすがにバカだなオレって思いましたけど」
克哉はそう言って、照れ臭そうに笑った。
本当に、君は馬鹿だ。
もう、それ以上喋ってくれるな。
こちらがどうにかなりそうだ。
部屋にいても、エントランスにいても、会える時間の早さにさほど変わりはない。
けれど一分一秒でもと言うからには、その違いは彼にとっては大きいのだろう。
なんという馬鹿馬鹿しい理由。
馬鹿馬鹿しすぎて言葉も出ない。
だから御堂は、克哉を抱き締めた。
他に、何も出来なかった。
「御堂さん……?」
「いいから、しばらくこのままでいさせろ」
「……はい」
克哉の手が、遠慮がちに御堂の背中に回る。
御堂が抱き締める手に力をこめると、克哉もまたしっかりと抱き返してきた。
どれだけ抱いても、きっとこの気持ちを伝えきることは出来ないだろう。
こんなにも自分を狂わせる彼が、時折憎らしくて堪らなくなる。
だからつい彼を虐め、啼かせ、求めさせたくなる。
そうして残るのはいつも、小さな後悔と、更に膨らんでしまっただけの愛しさだ。
御堂は克哉を真似て、馬鹿だな私は、と心の中で呟いた。
「あの……御堂さん」
「なんだ」
「もし、ご迷惑でなければ……夕飯の支度をしながら待っていてもいいですか?」
「……」
突然の克哉の申し出に、御堂は一瞬固まった。
それを拒絶と勘違いしたのか、克哉は慌てて御堂の腕の中から離れる。
「す、すみません! やっぱり、嫌ですよね。勝手にキッチンを使われるのとか……」
「いや、そんなことはないが」
確かに以前の自分なら、にべもなく断っただろう。
けれど克哉に対しては、少しの嫌悪も感じない。
それどころか、随分と可愛いことを言うとまで思ってしまった。
「だが、君にそこまでさせるのは……」
「オレが、したいんです。そうすれば少しは気が紛れて、ちゃんとここで待っていられると思うので」
たいしたものは作れませんけど、と克哉ははにかみながら付け加える。
自分と同じように働いている彼に家政婦の真似事までさせるのは気がひけたが、 それが彼の望みであるならば、断る理由はなかった。
「……分かった。君がそれでいいのなら、宜しく頼む」
「はい……! ありがとうございます!」
心から嬉しそうに顔を輝かせた克哉に、御堂はくすりと笑う。
「君が礼を言うのか?」
「あ……」
御堂は克哉の顎を掬い、唇を重ねた。
克哉もまたそれに応えて、そっと目を伏せる。
くちづけを受ける彼の手には、あのカードキーがまだしっかりと握られていた。
その鍵が開けるのは、この部屋のドアだけではない。
扉をひとつ開けるたび、二人の距離は縮まっていく。
そして全ての扉が開いたとき、きっとそこに辿り着けるだろう。
そんな予感が胸を過ぎって、御堂は更にくちづけを深くした。

- end -
2009.03.07



←Back

Page Top