un・innocence
「それじゃあ、私は先に出る」
「はい」
朝の支度を終えて玄関に向かう御堂を、克哉は追った。
「打ち合わせは、十一時半には終わる予定だ。約束に遅れるなよ」
「はい、分かりました」
御堂は午前中、直接取引先に出向くことになっていた。
ちょうどいいから、たまには外で一緒にランチをとろうと言い出したのは、御堂のほうだ。
こんな些細な約束でも嬉しくてたまらない自分が、克哉は相当恥ずかしい。
「じゃあな」
「はい、行ってらっしゃい」
自然と顔を寄せ合い、軽いキスを交わす。
笑顔で御堂を送り出した後で、克哉はそっと溜め息をついた。
―――今年は去年のようにはならないだろうから、安心したまえ。
御堂はそう言ったけれど、克哉はあまり期待していなかった。
今年のバレンタインデーは土曜日のため、社内でチョコレートを配るとすれば、金曜日である今日ということになる。
折しも今月は、13日の金曜日。
普段ならまったく気にすることも無いのだが、今日に限ってはなんとなく嫌な予感がしてしまうのを、克哉はどうすることも出来ずにいた。
MGNは外資系なので、もともとはバレンタインデーにチョコレートを配るという習慣はほとんど無かったらしい。
それが年月と共に少しずつ広がり、今ではすっかり定着してしまっていた。
これも一つのイベントとして楽しんでいた者もいれば、やはり煩わしく感じていた者もいるのだろう。
誰が言い出した話なのかはっきりとはしなかったが、これを悪しき習慣として、排除していこうという「御触れ」が回ってきたのは、今から二週間ほど前のことだった。
もちろん強制力があるものではないので、配ったからといって罰則が待っているわけではない。
そして対象はあくまでも”義理チョコ”についてであり、いわゆる”本命チョコ”に関しては当然個人の自由となるのが暗黙の了解だった。
それでも女性社員にとっては、これで気兼ねなく無駄な出費を抑えられるとほっとした者も多かったことだろう。
一方、義理でもいいからチョコレートが欲しかったという男性陣にとっては、余計なお世話としか言いようが無いものだった。
ひとまずこれで、去年のような事態は避けられるはず。
御堂はそう思っているようだったけれど、克哉は少し違っていた。
何故なら御堂にチョコレートを渡す女性達は、義理で渋々という感じではなかったからだ。
むしろ自ら進んで、それどころか、あわよくばさえ期待しているように克哉には見えた。
(また、大変なことになるのかな……)
あんな御触れなど、御堂に限ってはきっと意味が無いだろう。
去年の有様を思い出して、克哉はまた溜息をついた。
憂鬱な気分で出社した克哉を待ち受けていたのは、嬉しい誤算だった。
あの御触れの効果は意外なほどにあったようで、午前の仕事を終える頃になっても、一度もチョコレートの攻撃を受けずに済んでいたのだからたいしたものだ。
まったく虫のいい話で、いざこうなると少し寂しいような気もしてしまったのだが、やはり去年のアレはその程度のものだったということなのだろう。
盛大にがっかりしている藤田を慰めながら仕事をこなしているうちに、御堂との約束の時間が近づいてきて、克哉はオフィスを後にした。
「あっ、佐伯さん!」
「……はい?」
ロビーを出ようとしたところで名前を呼ばれ、克哉は足を止める。
振り返ると、三人の女性がすごい勢いでこちらにやって来るところだった。
「佐伯さんなら知ってるはずだよね」
「良かった~、会えて」
「ごめんなさい、御堂部長が何処にいらっしゃるか知りません?」
「えっと、あの……」
一度に話しかけられて、克哉は面食らう。
彼女達が首から下げているネームプレートにさりげなく視線を落とすと、どうやら情報管理部の社員のようだった。
ああ、とうとう来たか、と克哉は内心げんなりする。
三人とも手には小さな手提げ袋を持っていて、その中身がチョコレートであることは明らかだった。
「御堂さんなら、今は外出中ですけど……」
克哉は答えながら、なんとか受け取らずに済む方法を考える。
のらりくらりとかわしていれば、諦めてくれるだろうか?
それとも、忙しいと言って逃げ出してしまおうか?
しかし考えているうちにも、彼女達は口々に好き勝手なことを喋り続けていた。
「外出中だって。どうしようか?」
「部長、何時頃戻ります?」
「佐伯さんに頼んじゃう?」
「えー、でも直接渡したいし」
「そうだよね~」
「昼休み中に渡さないとさぁ」
「もうすぐ戻るんじゃない?」
「もうすぐっていつよ」
「あの……」
次第に、克哉は苛々してきた。
御堂が待っているというのに、このままでは約束に遅れてしまう。
こうなったら、はっきりと断るしかない。
「あ、あの……御堂部長は、義理チョコは受け取らないんじゃないかと、思いますけど……」
ちっとも「はっきり」とではなかったが、克哉が言うと、彼女達はぴたりと喋るのを止める。
けれど残念なことに、それもほんの一瞬だけだった。
「……でも、義理じゃないならいいんだよね?」
一人がそう言った途端、残りの二人が弾かれたように大はしゃぎする。
その反応に、克哉はカチンときた。
そんな軽い調子でも義理ではないと言うのなら、好きにすればいい。
何がそんなに面白いのか知らないが、目の前でおおいに盛り上がっている三人に、克哉はあえて穏やかな笑顔を見せながら言った。
「……御堂さんのいる場所、たぶん分かりますよ」
彼女達は驚きと期待に満ちた表情を、一斉に克哉に向けた。
時刻がとうとう八時を回ったところで、克哉はようやく席を立った。
オフィスにはもう、人もまばらだ。
いつまで引き延ばしていたって、仕方が無い。
どうしたって今日中にこの書類を御堂に提出しなければならないのだし、どちらにせよ帰る場所は同じなのだから覚悟を決めるしかないのだ。
胃の辺りが、石を飲み込んでしまったように重たかったけれど、克哉は諦めて御堂の執務室へと向かった。
「……佐伯です」
ノックをすると、中から「入りたまえ」と声が返る。
克哉は恐る恐るドアを開けて、御堂の顔を見てしまう前に頭を下げた。
視線を逸らしたままデスクの前に立ち、持ってきた書類を差し出す。
「先月報告のあったクレームに関してと、集まった営業報告のまとめです。……時間がかかってしまって、申し訳ありませんでした」
「……」
御堂は無言で書類を受け取り、目を通し始める。
午後になって御堂が社に戻ってきたことは知っていたが、今まで一度も顔を合わせていない。
この書類の件も分かっていたはずなのに、御堂からはなんの連絡もなかった。
沈黙が、いたたまれない。
聞こえるのは、御堂が書類を捲る音だけだ。
克哉は叱られた子供のように俯いたまま、ただこの沈黙が終わるときだけを待っていた。
「……いいだろう」
やがて御堂が言うと、克哉はほっと息を吐く。
勢いで顔を上げたせいで、御堂と視線が交わってしまった。
「今日の業務は、これで終わりか?」
「は、はい……」
「なら、聞く」
御堂はバサリと書類を脇に退けると、克哉を睨みつけながら尋ねた。
「昼間のあれはどういうことなのか、説明してもらおうか」
「……」
その問い掛けに、克哉に緊張が走る。
あの後、結局克哉は御堂と約束した店に行くことはなかった。
彼女達に店の名前と場所を教え、それから御堂に行けなくなったことをメールで連絡した。
御堂から返信はなく、それきりだったのだ。
「すみません……でした……」
「答えになっていないな」
鋭い口調で突き放され、克哉はますます萎縮する。
御堂が怒るのも無理はない。
そして御堂は、そんな克哉にますます苛立ちを募らせているようだった。
デスクの上を指先でとんとんと叩きながら、御堂は克哉を問い詰める。
「私は説明をしろと言っているんだ。何故、君が来なくて、かわりに彼女達が来たのか。
私があそこにいることを教えたのは、君なのだろう?」
「そうです……」
「おかげで私の昼休みは台無しになった。君には私に説明する義務があると思うが」
「はい……」
御堂の言う通りだ。
克哉はぎゅっと拳を握ると、おずおずと口を開いた。
「頭に、来たんです……」
「……なに?」
自分の醜さを、自分で言葉にしなければならないのは辛い。
けれど克哉は、正直に打ち明けるしかないと思っていた。
「頭に来ました……目の前で、あなたに対して浮ついた態度を取られたことが……。
あなたは、オ、オレの恋人なのに……。だから、あなたに直接断られてしまえばいい、って……そう思って……」
「……」
「オレ、最低ですよね……」
我ながら、意地の悪いことをしてしまったと思う。
けれど、そんな自分を止めることが出来なかった。
義理だろうが本命だろうが、御堂にそういった感情を向けている人間がいることが我慢出来なかった。
だから克哉は、あえて彼女達を御堂の元へと向かわせた。
彼女達に、きっぱりと諦めてもらうために。
御堂はしばらく黙り込んでいたが、不意に口元を歪ませながら言った。
「……だが、私が受け取るかもしれないとは考えなかったのか?」
「え……」
そこで、はたと気づく。
そんなことは思いもしなかった。
御堂は断るに違いないと、信じて疑わなかった。
克哉の表情で答えを察して、御堂はククッと喉の奥で笑った。
「まったく……たいした自信だな」
「す、すみません……」
御堂は椅子から立ち上がると、デスクを回って克哉の傍に来る。
そしてほんのり赤く染まった克哉の頬に、少し冷たい手のひらで触れた。
「私が君の立場でも、同じことをしていただろう。
なおかつその場に立ち合って、君がきちんと断るところを確認させてもらうのも面白そうだ」
「御堂さん……」
御堂は自分が罪悪感を持たないよう、慰めてくれているのかもしれない。
それでも克哉は、自己嫌悪に陥っていた。
「でも……やっぱり、オレは意地悪だったと思います。後味悪いです……」
「君がそう言うのなら、そうなのかもしれないな」
今度はあっさり受け入れられて、克哉はやはり落ち込んでしまう。
けれどそんな克哉を見て、御堂はまたしてもクスリと笑った。
「だが、私はそういう君も嫌いじゃない」
「御堂さん」
「それは、私に対する独占欲だと受け取っていいのだろう?」
「……はい」
それは間違いない。
御堂はその返事に、満足したようだった。
いつから、こんな風になってしまったのだろう。
ただ好きなだけでは、ただ好かれているだけでは満足出来なくなっている。
他の誰をも寄せつけたくない。
誰にも邪魔されたくない。
もしも互いを隔てようとする者がいれば、牙を剥いてしまうかもしれないとさえ思う。
どんなに汚いやり方でも、相手を傷つけてでも、奇麗事では済ませられないほどに、譲れないものが今の克哉にはあった。
「……とにかく、事情は分かった。だが、約束を違えたことに関しては償ってもらうぞ? おかげで、散々なランチタイムになったのだからな」
「はい……でも、どうすれば……」
「そうだな……」
御堂は呟くと、いきなり克哉の腕を取って引き寄せた。
「……家に帰ってからと、今すぐにここでと、どちらがいい?」
「……!!」
耳元で囁かれて、克哉はどきりと胸を高鳴らせる。
慌てて御堂から離れると、御堂はひどく残念そうな顔をした。
「こ、ここではダメです! あの、帰ったら……頑張ります、から……」
「言ったな? 今の言葉、忘れるなよ」
「は、はい……」
何をどう頑張ればいいのか分からなかったけれど、とりあえず克哉は頷く。
今となっては、早くあの部屋に帰りたかった。
帰ったら、御堂に渡したいものがたくさんある。
甘いチョコレートと、愛の言葉と、それから―――自分と。
- end -
2009.02.13
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