Classical

Lover's Habit

いつものようにその腕に包まれると、それだけで気持ちが落ち着いて自然と全身の力が抜けた。
さっきまでの嵐のような激しさはすっかり息を潜め、ただふわふわと柔らかな幸福感の海に漂う。
「おやすみ、克哉」
耳元で優しく囁かれた低い声に、克哉はうっとりと目を細めた。
「おやすみなさい、孝典さん」
そうしてもう一度触れるだけのキスを交わし、名残惜しく思いながらも瞼を閉じる。
すると御堂の手のひらが克哉の背中を、髪をゆっくりと撫ではじめた。
寄せては帰る波のような穏やかな動きに次第に意識はたゆたい、やがて静かな眠りに落ちていくというのが、ここ最近繰り返されている克哉の入眠パターンだった。

もともと克哉はひどく寝付きが悪かった。
それを自覚したのは恐らく中学生の頃だったと思う。
両親や友人からのアドバイスで風呂に長めに入ってみたり、羊を数えてみたり、本を読んでみたりといろいろ試したことはあったけれど、どれもあまり効果は得られなかった。
そのうち無理に眠ることは諦めて、ただベッドの上で幾度も寝返りを打ちながらいつの間にか気絶するように眠るのを待つだけになってしまったのだ。
おかげで少ない睡眠時間でも耐えられる体になったことだけは良かったと言えるだろう。
克哉が御堂にそんな話をした日から、御堂はまるで母親が子供にするかのごとく克哉を寝かしつけてくれるようになった。
御堂にしても半信半疑で始めたことだったのだが、克哉が余りにもすんなり眠るものだから驚いたほどだ。
最初は恥ずかしさと申し訳なさでそのたび遠慮気味にしていた克哉も、その安心感から結局は甘えてしまい、やがてそれは習慣となってしまった。
今でも御堂より先に眠ることに罪悪感はあったけれど、その心地よさを知ってしまったからには、もうこれ無しではうまく眠れない。
そしてそれは今後の生活のうえでちょっとした問題になろうとしていた。

その夜、克哉は決心していたことがあった。
いつものように愛し合い、シャワーを浴び、さて眠ろうとベッドに入るところで克哉は真剣な表情でそれを切り出した。
「あの、孝典さん。お願いがあるんです」
「お願い? なんだ?」
横になろうとしていた御堂だったが、克哉の改まった様子を見てもう一度起き上がる。
克哉は仰々しくシーツのうえに正座などしていた。
「実は……練習に協力してもらいたくて」
「練習? なんのだ?」
「そ、その……」
克哉は恥ずかしそうに口ごもりながら俯くと、小声で言った。
「ひ、ひとりで……眠る練習、を……」
「……は?」
「でっ、ですから! ひとりで眠る……練習……です……」
克哉はますます体を縮こまらせて俯いてしまう。
言ってて情けないやら恥ずかしいやら、これではまるきり子供ではないか。
けれど御堂は克哉が何故いきなりこんなことを言い出したのか、すぐにその理由を察してくれたようだった。
「……なるほどな」
そうして、克哉の頭をくしゃりと撫でる。
克哉がおずおずと顔を上げると、御堂は優しく微笑んでいた。
「確かにこのままでは向こうに行ってから困るかもしれないな。今から少しずつ慣らしていったほうがいいだろう」
「はい……」
克哉のシカゴ本社への赴任までは、まだしばらくの猶予があった。
赴任期間は半年。
普通に考えれば決して長い時間ではないのだろうが、御堂と離れて生活するのだと思うだけで克哉にとっては気が遠くなるほどの長さだった。
けれど、これは必ずお互いの為になると確信したからこそ克哉は行くことを決めたのだし、御堂も快く送り出してくれることになったのだ。
その決意は揺るぎないものではあったけれど……ただ、ひとりで眠る夜だけが不安だった。
勤務時間中にはさすがに寂しがっている暇は無くても、帰宅してひとりになればきっと考えるのは御堂のことばかりに違いない。
時差もあるから直接の連絡は取りづらいし、もちろん休みのときには出来るだけ会おうと約束はしたけれど、会社でも家でも常にすぐ傍に御堂の存在を感じていられた毎日から比べたら、やはり物理的な距離の遠さは心に重かった。
今だって二泊三日の出張のときでさえ、ホテルの部屋でまんじりともせず朝を迎えているのだ。
御堂に寝かしつけてもらえるようになってからというもの、独り寝の夜の寝付きの悪さはますますひどくなっている。
それが半年も続くとなれば、体調管理の面からも何かしら準備しておいたほうがいいのではないかと克哉は考えたのだった。
「では、どうすればいい? 今夜から、別々の部屋で眠ることにするか?」
「いっ、いえ! いきなり、それはちょっと……」
自分から言い出したことなのに、御堂の提案に焦りながら克哉は首を振る。
同じ家の中にいながら別々に眠るというのは、かなりハードルが高い。
まずは徐行運転からにしたかった。
それに、そもそもこの家にはベッドがひとつしかないのだ。
「あの、最初は少し距離を置くところから始めたいかなと……」
克哉の言葉に、二人してベッドを見渡す。
キングサイズのベッドには広さにかなり余裕があったけれど、御堂と克哉はいつもぴったりと寄り添って眠っていた。
「……分かった。では、少し離れて眠ってみるとするか」
「はい」
言いながら、御堂は可能な限りベッドの端に横になる。
それに合わせて克哉も反対側の端に潜り込んだ。
「……」
「……」
向かい合わせに横たわったまま、二人はしばらく無言で互いを見つめ合っていた。
実際に長さを測ったらたいしたことのない距離であることは一目瞭然だ。
それなのに、どうしてこんなにも遠くに感じるのだろう?
「消すぞ」
「あ、はい……」
ベッドサイドのスタンドの灯りが落ちる。
部屋がすうっと暗闇に包まれる。
「……」
「……」
離れていても、まだ互いに目を閉じていないことが分かった。
呼吸の微かな音に耳を澄ませる。
克哉はなんとなくブランケットの中から手を出すと、そろそろと御堂のほうへ伸ばしてみた。
どれぐらい離れているのか、けれどちゃんと御堂がそこにいることを確かめたかったのかもしれない。
すると少しずつ伸ばしていった指先が、暗闇の中で不意に何か暖かいものに触れた。
「……っ!」
「……!」
二人同時に息を飲む。
それからやはり同時にくすくすと笑いが漏れた。
「なにをしている? 眠るんじゃなかったのか?」
「孝典さんこそ」
からかい合うように笑いながら絡ませた指は、どちらも解こうとする気配すらない。
こんなことでは先が思いやられると分かっていながら、初日はこんなものでいいかなと克哉は自分を甘やかすことにした。
「……今夜は、この状態で眠ってもいいですか?」
「それで君がいいなら」
「じゃあ、お願いします」
もう一度、きゅっと強く指を握り合ってから克哉は目を閉じる。
少し物足りないけど、指先は温かい。
その後、やはりいつもより多少は時間が掛かったものの、なんとか克哉は眠りにつくことが出来た。

翌朝、誰かが傍で笑っているような気がして目が覚めた。
けれど今日は休日だ。
まだもう少しだけ眠っていたくて、傍にある温もりに体を擦り寄せる。
暖かくて滑らかな感触が頬に触れた。
「ん……」
大きな手のひらが髪を撫でてくれている。
気持ちがいい。
克哉はゆっくりと目を開けた。
まず視界に入ったのは見慣れたパジャマの胸元だった。
「……起きたのか? おはよう、克哉」
「……孝典さん。おはようございます」
落ちてきたキスに応えて幸せを味わっていると、御堂がくすくすと笑いだした。
さっき浅い意識の中で聞こえていたのは、この笑い声だ。
「……孝典さん? なにがおかしいんですか?」
「君はおかしいと思わないのか?」
「えっ……」
なにがおかしいのだろう。
いつもと同じ朝だ。
いつもとほぼ同じ時刻、同じように御堂の腕の中で目覚めた。
御堂の腕の中で……。
「あ……あれっ??」
改めて状況を見てみれば、克哉はしっかりと御堂に腕枕をされていた。
確かに昨夜眠るときは距離を取ったはずなのに、今はお互いベッドの真ん中辺りで寄り添っている。
「ようやく気づいたか? 私も目を覚ましたときには驚いた。どうやら私たちは無意識のうちにいつものポジションに収まっていたようだぞ」
「ああ……」
やはり最初から上手くいくはずもないか。
そう思いながらも、何か説明しようのない不安がふと克哉の中を過ぎる。
その不安の正体がなんなのか、そのときはまだ分からなかった。
「まあ、まだ時間はある。徐々になんとかなるだろう」
「はい……」
苦笑混じりに頷いたものの、御堂の言葉は楽観的すぎるように克哉には聞こえた。



克哉の不安はある意味的中した。
あの日からほぼ毎日のように「ひとりで眠る練習」を続けたのだが、結果は初日と少しも変わらなかったのだ。
手を繋ぐことをやめ、更には背中を向けて眠ってもみたけれど、翌朝にはぴったりと寄り添っている。
そんなことが二週間近くも続いて、克哉はすっかり落ち込んでしまった。
せっかく協力してもらったのにこれでは意味が無いと、御堂に対しても申し訳なかった。
「すみません、孝典さん……」
その日も目を覚ますと、やはり二人はいつものようにしっかりと抱き合っていた。
克哉はとにかく無性に自分が情けなくなって項垂れる。
しかし御堂はそんな克哉の様子に、むっとした表情を見せた。
「……謝るようなことではないだろう。眠っている間の行動を自分でコントロール出来ないのは当然だ。それなのに君が謝るのなら、私も謝らなければならなくなる」
「違うんです! そうじゃなくて……」
御堂の言うことは正しいし、御堂に謝ってなどほしくもない。
ただ克哉の中ではあのとき感じた不安がどんどん強くなっていた。
無意識の行動だからこそ、自分が本当はいかに御堂に依存し、甘え、頼りきっているのかを改めて見せつけられたような気がした。
ずっと御堂の隣りに立ちたくて、隣りに立つのに相応しい人間になりたくて頑張ってきたつもりだった。
今回の本社行きの件も、その目標に辿り着くための大切な一歩だと思ったから迷わず引き受けたのだ。
今の自分にどれほどの力があるのか、どれだけの可能性があるのか試せると思うと不安よりも期待のほうが大きかった。
けれど心の奥底には、御堂のことしか考えたくない、御堂に支配されてしまいたいと思っていた自分がまだ確かに存在しているのだ。
(オレは……)
迷ってはいないけれど、本当は考えるだけでも寂しくてたまらない。
アメリカに行って、ひとりでなんとか眠りにつけても、きっと今と同じように無意識に御堂の温もりを探すのだろう。
そうして目が覚めて、やはりひとりぼっちなのは変わらなくて。
そんな風に御堂と離れて過ごすことで、弱い自分がまた顔を出しはしないだろうか。
半年もの間ひとりきりの夜を過ごしていたら、寂しさのあまりにまた余計なことばかり考えて、悪いほうへばかり捉えて、それが仕事に影響してしまわないだろうか。
皆の足を引っ張って、御堂に恥をかかせることにならないだろうか。
以前のような自分に後戻りしてしまわないだろうか―――。
「……克哉?」
「……!」
たかがこの程度のことでそこまで考えるのは馬鹿げていると、克哉はそれを打ち消すように慌ててきつく目を閉じる。
やはり、やり方が甘かったのだ。
本気でひとりで眠ろうと思うなら、きちんと別の部屋で眠るべきだった。
ベッドがひとつしかないからとか、そんなのはただの言い訳だ。
「やっぱりオレ、今夜からはリビングで……!」
「……どうしても」
「え?」
「どうしても……ひとりで眠れるようになりたいのか?」
思い切って克哉が発した言葉を遮り、御堂が呟く。
御堂は何処か苦しげな表情で克哉のことをじっと見つめていた。
「孝典、さん……?」
克哉が戸惑っていると、御堂はふいと視線を逸らす。
それから気まずそうに言葉を続けた。
「本当は私は、君にひとりで眠れるようになってほしくないと思っている。そうなられたら……私が、困るからだ」
「……困る……んですか?」
意味が分からずに聞き返すと、御堂は「そうだ」と答えていきなり克哉を抱き締めた。
「あ、あの……孝典さん?」
「……ひとりで上手く眠れないのは、君だけではないということだ」
「え……」
克哉はますます困惑した。
自分と違って、御堂は寝付きは悪くなかったはずだ。
先に眠ってしまった御堂の寝顔を見ながら、時間をやり過ごしたことも少なくなかった。
けれど御堂はますますきつく克哉を抱き締めながら言う。
「君を寝かしつけて、君が眠ったのを見ると安心して私も眠れた。 ……その代わり、君がいないときは君がちゃんと眠れていないのではないかと気になってなかなか寝付けないようになってしまった。 だから君にはいつまでも、私の寝かしつけを必要としていてもらわなければ困るのだ」
「孝典さん……」
克哉は自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れていた。
自分自身の不安や寂しさばかりに目がいって、御堂の気持ちを考えるのが疎かになっていたからだ。
自分が寂しいときは、御堂も寂しい。
自分が眠れずにいたとき、御堂も眠れずにいたのだ。
御堂はいつでも強くて正しくて完璧だけれど、決して冷めた人間ではない。
少なくとも克哉に向けてくる愛情は、誰よりも激しくて熱いものだ。
克哉と離れる寂しさのあまりに酔い潰れ、「行くな」とまで言ってくれたことは忘れない。
きっと今回だって本当は協力などしたくなかっただろうに、それでも黙って克哉の頼みを聞いてくれたのだ。
そこまでしてひとりで眠れるようになることに、どれほどの意味があるのだろう。
せっかく傍にいられる時間を、ひとりになる時間の為に犠牲にするなんて本末転倒ではないのか。
そう考えると克哉はどうしようもなく御堂が愛しくなって、自分もまた御堂の背中に腕を回した。
「ごめんなさい、孝典さん。オレ……」
「だから、謝るな。……私も我侭を言っていることは分かっている」
「いいえ! 我侭なのは、オレのほうですから……」
でも、我侭でいいのだと思う。
大切な人に本当の気持ちを伝えることが我侭なら、それは必要な我侭だ。
そんな風に思えるようになったのも、きっと御堂のおかげだから。
そう気づけたとき、克哉はさっきまでの不安がすうっと薄れていくのを感じた。
寂しくても、弱くても、諦めたくない。
負けたくない。
「……孝典さん。勝手で申し訳ないんですが、ひとりで眠る練習やめてもいいですか?」
克哉が言うと、御堂は少し驚いたようだった。
「私は構わないが……いいのか?」
「はい。それよりも、向こうに行く日まで出来るだけ孝典さんの傍で過ごしたいです。孝典さんをたくさん充電してから、出発したいです」
「……そうか」
御堂が本当に嬉しそうに笑ってくれたので、克哉も嬉しくなって笑う。
考えてみればひとりだと上手く眠れないだなんて、それはとても贅沢な悩み事なのかもしれないと克哉は思った。
二人で眠る幸せを知っているからこそ、生まれた悩み。
半年間、その贅沢な悩みにたっぷり悩まされることとしよう。

- end -
2012.09.29



←Back

Page Top